投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月19日(火)15時00分35秒
1月14日の投稿で書いた廃仏毀釈の「殉教者」の問題ですが、廃仏毀釈に関係する死者は間違いなく出ていて、有名なのは「三河国大浜騒動」です。
ただ、この事件での死者を「殉教者」といえるかは相当微妙なんですね。
圭室文雄氏『神仏分離』(教育社歴史新書、1977)の説明が分かりやすいので、「第三章 神仏分離の実態」から少し引用してみます。(p199以下)
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三河国大浜騒動
次は明治四年三月、三河国(愛知県)碧海郡大浜を中心とした浄土真宗信徒の廃仏毀釈反対運動である。一万人が蜂起したといわれているが、数は定かではない。
明治三年九月菊間藩大浜出張所に少参事服部純が派遣され、彼の平田学的発想にもとづいて廃仏毀釈政策が断行された。
明治四年二月十五日五ツ時菊間藩大浜出張所に出頭すべし、必ず住職本人が出頭のこと。
という命が下った。当日領内の寺院の住職が集まると、服部少参事は寺院合併のことについて十二か条の問題をあげ、僧侶たちの意向をきいている。【中略】
しかし僧侶側としてもすぐには答えられず、そのうち何人かの僧侶から、
合寺・廃寺があたかもきまったような話であるがそれはおかしい。
十二か条の下問はすでに合寺・廃寺を前提としているのではないのか。
という質問がなされた。しかし本来何が議論されるのか全く知らずに集まった僧侶たちにとって、この場で早計に結論を出すことは無理であった。そのため本山との打合わせを理由に日延を願い出たが許されず、三月二十日をもって廃寺・合寺政策を行うむね宣言された。
これに対して反対する浄土真宗寺院は三月八日に暮戸の会所に集まり、寺院廃合問題について相談する会をひらいた。ところが勢のおもむくところは、菊間藩の処置に賛同の意を示した西方寺・光輪寺を詰問する形になり、さらには菊間藩の廃仏政策に抗議書を渡す集会へと発展していった。その抗議書の内容はどのようなものであったかというと、
第一、私共の宗派では神前での呪文や日拝などの事は、きびしくいましめて
おりますので藩の命令とはいえお断りします。
第二、寺院廃合のことは見合わせて下さるようお願い申し上げます。
第三、宗門人別帳の取り扱いはいままでどおり寺にさせてほしいと思います。
と、三か条からなっていた。
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抗議書第一条の「日拝」とは朝日を拝むことですね。
浄土真宗は神祇不拝ですからもともと神仏習合とは全く無関係で、従って神仏分離とも関係ないはずです。
しかし、仏教嫌いの平田学徒が機に乗じて強引に浄土真宗を含む寺院一般の統廃合を狙ったので大騒動が起きる訳ですね。
さて、圭室文雄氏の説明は若干不正確で、この時点ではまだ菊間藩側は具体的な「廃仏毀釈政策」を「断行」しておらず、また暴力的な行動も一切ありません。
ところが次のような展開になります。
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この抗議書をもった僧侶約三十人はその足で鷲塚村庄屋宅に押しかけ、ここで藩側の役人六人に面会、抗議書をつきつけた。しかし役人側は強硬で「すべて布達のとおり」としてゆずらず、僧侶たちの抗議を突っぱねた。長時間にわたって激論がかわされたようであった。外で交渉の様子を待ちうけていた僧侶や信徒たちも、討論がながびき九日の夜に入ってもいつはてるとも知れぬ状況になり、かなりあせっていた。僧侶たち三〇人が「御聞い入れなければもはやこれまで」と席を蹴ったのを合図に、外で待ちうけていた者たちがとびこんできた。役人たちは夜陰にまぎれて脱出したが、その内の一人、おくれた藤岡薫が竹槍で惨殺されてしまうという事態が発生した。この時藤岡が倒れると「ヤソが倒れた!」といってつぎつぎに竹槍で突いたという。興奮した人々はさらにヤソの本拠地である大浜陣屋を襲おうと檄をとばす者もいたが、大浜陣屋のほうでも大砲二門を引出したり、隣接の西尾藩・岡崎藩・重原藩・刈谷藩・西端藩などにも応援をたのんでかけつけてもらったりした。このため決起したものたちは散りぢりになり、結局騒ぎは鎮圧された。
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ということで、結局、同年十二月の裁判で死刑2名(斬罪1名、絞罪1名)、准流十年1名を含む合計40人が処罰されて、さしもの大騒動も終息することになります。
そして、「結果からみれば、菊間藩は最初の計画をすべて引き込めてしまい、東本願寺側は全面勝利を得ることになった」(p205)訳です。
以上の経緯を見ると、浄土真宗はやっぱり他宗派とひと味違いますね。
国家から命令されれば唯々諾々と従う宗派が大半の中で、中には興福寺のように国家からの何の強制もない段階で率先して僧侶が全員還俗し、後になってちょっと後悔するようなみっともない大寺院もある中で、浄土真宗の宗教的情熱の強さは燦然と光ります。
ま、私は個人的にはあまり浄土真宗が好きではないのですが、廃仏毀釈の圧力に敢然と抗して国家の政策を改めさせた実績は誰も否定できないでしょうね。
それにしても「ヤソ」が倒れれば竹槍で何度も突き刺して殺し、「ヤソの本拠地」と看做した大浜陣屋を襲おうとする浄土真宗門徒の宗教的情熱には、なかなか背筋にゾゾッと来るものがあります。
この「ヤソ」に対する感覚は現代人には理解しがたいものがありますが、この後、浄土真宗はキリスト教への防壁となることに自己の存在意義を見出して、それを明治政府に強烈にアピールして行く訳ですね。
「廃仏毀釈に殉教者はいるのか?」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/07a09e60902e246fbb8816c149dcc3c2
小太郎さん
「焼払つて金物だけ取つても二百円にならない」とか、「三重塔は自分が三十円で買つて遊び場所に」とか、面白すぎる話ですね。法相宗の成れの果てというか、「遊び場所」というのは斬新なアイデアです。諌めた兄にしても、宗教的な冒瀆という理由ではなく、たんに無駄遣いだからやめておけ、くらいのことだったのでしょうね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E5%8E%9F%E9%80%9A%E6%B8%88
小津の映画に、この人が場違いな感じでときどき出てくるのですが、なかなか大物なんですね。知りませんでした。
https://www.youtube.com/watch?v=F0ikQUQKos4
http://home.u06.itscom.net/mitake/newpage73.html
これは『彼岸花』(1958年)における蒲郡の旅館での旧制中学のクラス会の場面で、菅井と呼ばれているのが菅原通済です。
笠智衆の詩吟は、賊将は誰ぞや高師直、で終わります。会話に、さりげなく呉という言葉があり、何人かは海軍兵学校の出身と思われ、この詩吟は戦死した旧友へのレクイエムにもなっているらしく、高師直にマッカーサーやニミッツでも連想すればいいのかもしれませんね。(笠智衆の背後にある掛軸の絵柄、坪庭にある九重(十三重?)塔、囃子などが気になります。他の場面に出てくる数点の絵画の作者がわかりません)
映画の中では彼岸花など何処にも出てこないのですが、題名は案外、詩吟で詠われた向こうの世界に手向けたものかもしれません。映画の主要なテーマとは無関係ですが。最後は広島に向かう汽車のシーンで終るものの、過剰な意味付けはしない方がいいのでしょうね。
http://www9.nhk.or.jp/kaigai/foyle/
『刑事フォイル』「癒えない傷」(前編)の劇中歌のパロディに、the great Hirohito without Japan という表現があり、字幕は「日本のない天皇」となっていました。このドラマは1941年2月という設定なので、その時点で果たしてそんな痛烈な風刺がありえたろうか、と疑問に思いました。パールハーバー以後ならともかく。1941年2月時点であれば、Hitler without Nazi(Das Dritte Reich )くらいが相応しい。
水木要太郎は知りませんでしたが、第1回水木十五堂賞の創設は平成25年度とのことなので、地元でも長い間、忘却の河レーテーに沈んでいたということでしょうか。
運慶作「大日如来坐像」のクリスティーズでの落札額約15億円に比べると、現在の貨幣価値は不明ながら、興福寺五重塔の売出価格250(25)円には隔世の感がありますね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E4%B8%AD%E4%BA%94%E9%87%8D%E5%A1%94%E6%94%BE%E7%81%AB%E5%BF%83%E4%B8%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6
こちらの五重塔は放火心中事件で焼失したのですね。露伴が生きていたら、がっかりしただろうな。
以前、バーミヤンの石像の破壊が野蛮だと話題になりましたが、少し歴史を遡れば日本も結構 barbarism だったのだな、という気がします。昨今は、ユネスコに踊らされて、世界遺産だの記憶遺産だの、国を挙げて賑やかですが。
http://www.foxmovies-jp.com/bridgeofspy/
https://ja.wikipedia.org/wiki/U-2%E6%92%83%E5%A2%9C%E4%BA%8B%E4%BB%B6
http://www.sankei.com/west/news/160107/wst1601070006-n1.html
昨日、『ブリッジ・オブ・スパイ』を面白く見ました。プロローグに Based on ではなく Inspired by true story とあり、inspire とはいえ、かなり史実に基づいているのですね。不満を言えば、ロシア語とドイツ語の字幕がないことでした。少ししか聴き取れず、苛々しました(悔しかったら、ロシア語やドイツ語をもっと勉強しろ、という有難い配慮かな)。
https://www.youtube.com/watch?v=MHpmHhi1Rxk
映画では、ショスタコーヴィチ『ピアノ協奏曲第2番』が使われていましたが、心憎いばかりでした。
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月16日(土)09時58分29秒
14日の投稿「廃仏毀釈に殉教者はいるのか? 」について、ツイッターで「スナックかえるちゃん」さんから、
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殉教したのは長い長い歴史を持つ寺や神社にまつわる信仰と文化でした。鹿児島では鑑真和上の建てた寺が打ち壊され廃墟になりました。もう取り戻せません。文化破壊は心を壊しました。
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という感想をもらいました。
「スナックかえるちゃん」さんは中世史の非常に有名な学者の娘さんなんですかね。
まあ、私もこのような反応は理解できるのですが、やはり精神的・文化的な意味での「殉教」を検討する前に、まずは他の宗教弾圧と比較できる客観的な数字、即ち具体的な死者の数とその状況を知りたいですね。
佐伯恵達氏の『廃仏毀釈百年』には鹿児島・宮崎における浄土真宗関係の「殉教者」について一応の数字が出ているのですが、あまりに過大な上に根拠が不明で、しかも佐伯氏には事実を検証しようとする姿勢すら感じられませんから参考になりません。
それと、薩摩藩の浄土真宗迫害は特殊で、「神仏分離」に関係づけるよりはむしろキリシタン弾圧に近いのでは、というのが私の今のところの印象です。
「カヤカベ」なんて「隠れキリシタン」とそっくりですね。
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月15日(金)10時12分42秒
別に学説上の争点ではありませんが、興福寺の廃仏毀釈については、ちょっと変な話がありますね。
またまた阪本是丸氏の「神仏分離研究の課題と展望」からの引用で恐縮ですが、阪本氏は太田暁子氏の「『廃仏運動』の社会的基盤」(中塚明編『古都論─日本史上の奈良─』、柏書房、1994)と安丸良夫氏の『神々の明治維新』(岩波新書、1979)の興福寺に関係する部分を摘記した後で、
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この太田、安丸の記述をみても、いかに種本たる『明治維新神仏分離史料』の記述の影響が大きいかが知られよう。その「種本」を作成した大屋徳城は「奈良における神仏分離、延いては廃仏毀釈は、興福寺に於て、尤も激烈を極めたりき、されば、奈良の排仏及び神仏分離は、興福寺を中心として観察するを以て至当とし、且つ最も便宜なりとす」と述べ、「三輪の大御輪寺・石上の内山永久寺」も興福寺に比すれば「同日の談に非ず」と断言して、「奈良に於ける神仏分離」と題する史料紹介を兼ねた長大な報告を行ない、上記「興福寺五重塔二十五円売却説」を世に流布せしめたのであった(なお、どうでもいいことかもしれないが、大屋の報告が掲載されている同じ『明治維新神仏分離史料』の中巻に収録された水木要太郎の「明治初年の南都諸大寺」には「興福寺の五重塔を弥三郎とか云ふ者に売却せんとし、その価格は二百五十円であったそうです」と記されている。また高田良信も『「法隆寺日記」をひらく─廃仏毀釈から100年』(日本放送出版協会、昭和六十一年)で「二百五十円売却説」を明治三十八年の『新大和新聞』の記事によって紹介している。一体、どちらが本当なのだろう)。
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と書かれています。(p158)
大屋徳城(1882-1950)は早大卒の仏教学者で、福岡県柳川市の浄土真宗大谷派の寺に生まれた人ですから、仏教一般については詳しくても奈良には特別なゆかりはないようです。
他方、水木要太郎(1865-1938)は奈良で師範学校の教員を長く務めた人で、大和郡山市サイトによれば、<これら大和の歴史や文化に関する「博識」から、いつしか「大和の水木か、水木の大和か」と呼ばれ、大和を代表する研究者、文人としての地位を確立>したほどの人だそうですから、年齢が大屋より17歳上であることも考慮すると、少なくとも興福寺の一件に関しては水木要太郎の方が信頼できそうな感じがします。
しかし、話としては二百五十円説より二十五円説の方がずっと面白いので、結果的にこちらが「流布」することになったのでしょうね。
「水木十五堂賞」(大和郡山市サイト内)
http://www.city.yamatokoriyama.nara.jp/govt/torikumi/jigyou/002904.html
ちなみに佐伯恵達氏の『廃仏毀釈百年』では何の疑いもなく二十五円としており(p159)、松岡正剛氏も先に紹介したように何の疑いもなく二十五円としています。
松岡正剛氏の悲憤慷慨(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7dcfc06e6340821f7355bf5a32f3b089
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月14日(木)10時20分57秒
このところ神仏分離にこだわっていますが、それは日本の宗教的土壌を検討するためには神仏分離が、明治末期の神社合祀(神社整理)と並んで最適の素材だと考えているからです。
元旦に少し書いたように私は「グローバル神道」として論理的にはけっこう一貫した、しかし極めて奇妙なことを言い出す予定ですが、それが日本の風土には合いそうもないことが分かればあっさり引っ込めるつもりです。
そして「かのやうに」の紹介だけでいきなり本題に入ろうかなとも思ったのですが、やはりここは借り物ではなく、自分で分析せねば、と思い直したので、神仏分離・神社合祀を素材として少し丁寧にやろうと考えています。
なお、くどいようですが、私は別に素晴らしい日本の神道を世界に輸出しようなどと思っている訳ではありません。
さて、神仏分離・廃仏毀釈が大変な「宗教弾圧」だったと慨嘆する松岡正剛氏のような人たちに私が抱く素朴な疑問は、いったい神仏分離・廃仏毀釈に殉教者がいるのだろうか、というものです。
織田信長の比叡山焼き討ちの如く、廃仏毀釈で数百人・数千人・数万人の僧侶が殺されているのであれば私だって「宗教弾圧」だと考えますが、例えば参照に便利な安丸良夫氏の『神々の明治維新』(岩波新書、1979)を見ても、仏像を破壊する暴徒に立ち向かって殺された勇敢な僧侶、みたいな典型的な殉教者と呼べる人が出てきません。
有名な日吉山王社の襲撃でも、
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比叡山山麓坂本の日吉山王社は、延暦寺の鎮守神で、江戸時代には山門を代表する三執行代の管理のもとにあった。この日吉社へ、武装した一隊が押しかけたのは、慶応四年四月朔日(ついたち)の昼前のことだった。彼らは、諸国の神官出身の志士たちからなる神威隊五十人、人足五十人、日吉社の社司・宮仕に住人ほどからなっていた。【中略】
何回かのやりとりのあと、押しかけた一隊は実力行使にでて、神域内に乱入して土足で神殿にのぼり、錠をこじあけ、神体として安置されていた仏像や、仏具・経巻の類をとりだして散々に破壊し、積みあげて焼き捨てた。仏像にかえて、「真榊(まさかき)」と称する金属製の「古物」がもちこまれて、あたらしく神体に定められた。日吉社は、本殿のほか二宮社以下七社からなりたっていたが、同様の処置は七社のすべてにたいしてもなされた。焼き捨てられた仏像・仏具・経巻などは一二四点、ほかに金具の類四十八点が奪いさられた、と報告されている。そのなかには、大般若経六百巻が一点に数えられている例もあり、五十人の人足を動員しての半日余の作業だったことも考慮すると、全体としてはきわめて厖大な破壊行為がなされたことになる。一隊の指導者樹下茂国は、仏像の顔面を弓で射当て、大いに快哉を叫んだという。
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とのことで(p52以下)、ま、大変だったね、とは思いますが、日吉山王社側に死者はおろか負傷者もいないようです。
ということは、日吉山王社側の僧侶は樹下茂国に率いられた御一行様計120人が半日かけて「厖大な破壊行為」をしているのをボーッと眺めていただけなのでしょうか。
殺されてもよいからと必死の反撃を試みた人はいなかったのでしょうか。
あるいは、暴徒の前で切腹でもして、神域(仏域?)を荒らすのなら俺の屍を超えて行け、などと叫んだ人はいなかったのでしょうか。
ま、いくつか疑問を感じるのでもう少し事実関係を調べてみるつもりですが、負傷者はともかく、死者が出なかったことは確かなようです。
神仏分離・廃仏毀釈は大変な混乱を巻き起こしたことは間違いなくて、暴動のような事例も若干あり、死者はそれなりにいるようですが、それでも典型的な殉教者と呼べる人を私は知りません。
これは同時期に、明治新政府の下で行われたキリシタン弾圧(浦上四番崩れ)で配流信徒3394人中613人の死者が出たことと比較すると驚くべき事態で、これをもって「宗教弾圧」と呼ぶなら、ずいぶん淡々とした、ほのぼのとした「宗教弾圧」だなあと思います。
「浦上キリシタンの流罪」(津和野カトリック教会サイト内)
http://www.sun-net.jp/~otome/kirishitan.html
>筆綾丸さん
>千々和到氏
阪本是丸氏の「神仏分離研究の課題と展望」の注7に、「なお、本章を執筆するに当たり、中世宗教史研究の最高権威である國學院大學・千々和到教授から、最新の神仏分離に関する論考があることをご教示いただいた(神宮滋「一地方神宮寺の明治初期神仏分離史料の研究」、『秋大史学』五〇、二〇〇四年)。」とあったので(p166)、この論文を入手せねば、と思っていたところです。
「中世宗教史研究の最高権威」だと近寄りがたい威厳を感じますが、千々和先生はけっこう親しみやすい風貌をされていますね。
>売買契約による所有権の移転
所有権が放棄され、「無主物先占」(民法239条1項)で「原始取得」されたものも結構多そうですね。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「仏像の亡命」2016/01/13(水) 10:11:31
松岡正剛氏による佐伯恵達氏『廃仏毀釈百年─虐げられつづけた仏たち─』(鉱脈社、1988)の書評、一読してかなり変だなと思ったのですが、読まずにあれこれ言うのも良くないなと思って同書を確認してみました。
私が入手したのは2003年の改訂版ですが、冒頭の「改訂版発行にあたって」によれば、川口敦己という人が「堅苦しくて読みにくかった拙文を、平易な文体に改め写真図版をかえたりなどして」いるだけで、内容的には初版と変わりないようです。
さて、著者の佐伯恵達(さえき・えたつ)氏は「1924年生まれ 高校・短大講師をへて現在各種学校講師 本願寺輔教、布教使、長昌寺住職」とのことで、宮崎県宮崎市にある浄土真宗のお寺の住職さんですね。
宮崎は廃仏毀釈騒動が特別に激しかった地域の一つなので、私は同県内における廃仏毀釈の経緯について詳細な記述があるものと期待していたのですが、そのような記述は分量的に僅かで、しかも『神仏分離史料』に依拠したものが大半でした。
そして数少ない独自情報は学問的な検証を経ていない噂話程度のものですね。
佐伯氏は学問よりは政治的主張が好きなタイプの人で、初版と同じという「はしがき」から若干引用してみると、
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わが国の二十世紀を顧みるとき、その大半は戦争の時代であったということができます。維新以来約八十年間はまさしくそれでした。考えようでは、幕藩体制までの大和(だいわ)としての王道楽土は、一朝にして対外侵略の修羅場と化していったのが明治維新であったともいえます。尊皇攘夷をかかげての争乱はけっして維新という一時的な事象ではありませんでした。戊辰・西南の役を嚆矢(はじめ)として、賊軍討伐という旗印のもと官軍を絶対化し、天皇を現人神として立憲し、神々をすべて皇祖神の配下として国家神道を創立しました。ために神社は尊皇攘夷思想の権化となって一世紀を風靡することとなりました。それを決定的ならしめたのが、廃仏毀釈(明治初年、仏教を異端邪説として寺院をこわし、僧侶を迫害したこと)であったのです。
廃仏毀釈、言いかえれば宗教的クーデターによって国家権力化した巨大な怪物は、大日本帝国の名のもとに世界制覇の野望を夢見て、神がかり的なあらん限りの暴威をふるって他を弾圧し、ちには熾烈をきわめた世界大戦にまで突入していきました。
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といった具合で、これだけ読むと浄土真宗の一寺を預かる住職さんというよりは一昔前のかなり硬直した左翼運動家のような印象を受けますが、最後まで読んでもその印象はあまり変わりません。
一応、全体の構成を紹介すると、
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序章 仏教国の仏教ぎらい
第一章 前史─廃仏毀釈への道
第一節 仏教と政治─中国の仏教弾圧
第二節 江戸時代の排仏思想
第三節 平田神道─王政復古の時代思想をどのように準備したのか
第四節 幕末の水戸藩
第二章 薩摩の一向宗弾圧と宮崎
第一節 島津七百年のあらまし
第二節 一向宗(浄土真宗)弾圧の要因
第三節 薩摩の一向宗(浄土真宗)弾圧
第四節 薩摩藩からの脱走
第三章 廃仏毀釈─何が行われたのか(その一)
第一節 王政復古から神仏分離へ─廃仏毀釈は断行された
第二節 寺院から神社へ─十例にみる廃仏毀釈
第四章 廃仏毀釈─何が行われたのか(その二) お寺を壊して神社を建てた宮崎県
第一節 薩摩のあおりを受けて─灰となった一千か寺
第二節 お寺変じて神社となる
第五章 仏教弾圧と国家神道の百年
第一節 ぞくぞく神社はつくられた(全国篇)
第二節 ぞくぞく神社はつくられた(宮崎県篇)
第三節 仏教弾圧の百年
第四節 傷あとふかく
仏教徒よ蘇れ─「あとがき」にかえて─
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ということで、分量的にさほど多くない宮崎関係の記述に薩摩への言及が多いことが目立ちます。
他地域に見られない宮崎の廃仏毀釈独特の性格は、一言でいえば薩摩による宮崎県南部への「侵略」ですね。
そもそも浄土真宗は神祇不拝ですから理屈の上では「神仏分離」に全く関係のない宗派のはずですが、そのある種「一神教的」性格の故に権力者からは嫌われることが多く、薩摩では従来から特別に嫌われていて、「神仏分離」がもたらした混乱に乗じて浄土真宗嫌いの薩摩人が宮崎で横暴の限りを尽くした訳ですね。
結論として『廃仏毀釈百年』は学問的には特に価値のない本なので、何故に松岡正剛氏がこのような本を素材にして神仏分離を熱く語るのか、その理由が分かりません。
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月11日(月)08時55分10秒
前回投稿で私が「淡々」という表現を使ったのを意外に思った人も多いでしょうが、これは阪本是丸氏(国学院大学神道文化学部教授)の論文から借用したものです。
もちろん阪本氏は「淡々」一色だったと言われている訳ではなくて、「神仏分離研究の課題と展望」の最後は、
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この淡々とした「神仏分離」と、そうではない「過激」どころか「過酷」としかいいようのない「神仏分離」が、何故同時代に並存したのか、この実態解明こそが今日における「神仏分離研究」の最大の課題だと思慮するのだが…。
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となっています。
従来の神仏分離研究に決定的な影響を与えたのは辻善之助・村上専精・鷲尾順敬編の『明治維新神仏分離史料』(東方書院、1926-29)ですが、この史料集は神仏分離に悲憤慷慨した人たちが資金を出して、神仏分離に悲憤慷慨した人たちが編集したものです。
そして、『明治維新神仏分離史料』を中心に研究した研究者も神仏分離に悲憤慷慨するようになり、更にそうした研究者の著書・論文を読んだ読者も神仏分離に悲憤慷慨し、松岡正剛氏と同じような義憤にかられてブログに書いたりツイートしたりする、という見事に一貫した悲憤慷慨の連鎖が生まれる訳ですね。
しかし、神仏分離の全体像は『明治維新神仏分離史料』をいったん離れて、そこには描かれなかった神仏分離の諸側面をきちんと分析した上でないと掴めない、というのが現在の学説の到達点で、このような方向に学説を主導したのが阪本是丸氏ではなかろうか、というのが私の素人なりの見立てです。
>筆綾丸さん
>『東大駒場寮物語』
書店で手に取ってはみたのですが、古臭い大正教養主義の世界みたいなのがけっこう好きな私にとっては、若干予想と違う記述が多いように感じました。
ま、今は読まなければならない本が山のようにあるので、少し落ち着いたら読んでみます。
1955年生まれの野田秀樹も駒場寮にいたことがあるそうですが、私が寮生だったころ、『劇団夢の遊眠社』はメジャーになりかけていて、寮食堂で公演があるときは普段は全く見かけないお洒落な女子大生が大勢集まっていましたね。
当時、私は演劇に興味がなかったので、『劇団夢の遊眠社』も如月小春の『劇団綺畸』も全く観ておらず、今から思えばもったいないことをしました。
ただ、劇団の人達は寮の中庭で小汚い格好をして「アアー、エエー、ウウー」とか発声練習をしていたりして、寮生にとってはかなり迷惑な存在でしたね。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「捨て駒」2016/01/10(日) 15:44:31
小太郎さん
http://www.kadokawa.co.jp/product/321503000158/
松本博文氏の『ルポ 電王戦人間vs.コンピュータの真実』は良い本なので、『東大駒場寮物語』もきっと面白いでしょうね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8C%E5%85%A8%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%88
昨日、『Pawn Sacrifice』を観ましたが、期待外れでした。「完全なるチェックメイト」という邦訳も悪すぎます。
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本作の原題「Pawn Sacrifice」は「ヘンリー・キッシンジャーとリチャード・ニクソンにとって、ボビー・フィッシャーはポーンのような手駒の一つに過ぎなかった。レオニード・ブレジネフとKGBにとってのボリス・スパスキーも、同じような存在だった。つまり、2つの大国にとって、チェスプレイヤーは相手に取られてもいいポーンのような存在でしかなかった。」という意味が込められている。
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というウィキの説明はまさにその通りですが、フィッシャーの狂気や奇矯を強調しすぎたため、天才もただの捨て駒にすぎないという政治の非情さがぼやけてしまった映画でした。
佐伯彰一氏『近代日本の自伝』を読み始めました。
松岡正剛氏は、
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神仏分離・廃仏毀釈は岩倉具視や木戸孝允や大久保利通からすれば、王政復古の大号令にもとづく「日本の神々の統括システム」を確立するための政策の断行だった。薩長中心の維新政府からすれば、神権天皇をいただいた国体的国教による近代国家をつくるための方途だった。
が、これはあきらかに仏教弾圧だったのだ。仏教界からすればまさに「排仏」であり、もっとはっきりいえば「法難」あるいは「破仏」なのである。
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という具合に神仏分離=廃仏毀釈=仏教弾圧だと強調される訳ですが、実際には別に弾圧も何もないのに自主的に仏教から離れた大寺院がけっこう多いんですね。
その代表例が松岡氏も、
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有名な話であるが、やはり廃仏毀釈の波が早くに襲った奈良県では、興福寺が寺院塔頭が維持できなくなって、五重塔を25円で売り払おうとしたことさえあった。
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と触れる興福寺です。
この点、事実認識に若干問題はありますが、入手しやすい安丸良夫氏の『神々の明治維新─神仏分離と廃仏毀釈』(岩波新書、1979)の記述を引用すると、
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慶応四年三・四月の段階で、社僧などの還俗と神仏分離があっさり実施されたのは、興福寺、石清水八幡宮、北野神社などの大寺社の場合である。
興福寺のばあい、慶応四年四月に「一山不残還俗」し、僧侶の一部は春日社に神勤し、多くは離散した。しかし、決定的な打撃を与えたのは明治四年の寺領上知(じょうち)の方で、翌年には、伽藍仏具などの一切が処分された。五重塔が二十五円で売却され、買主は金具をとるためにこれを焼こうとしたが、付近の町家が類焼を恐れて反対し、そのために五重塔は残った、という。神社として独立した春日社を残して、興福寺自体はほとんど廃滅したわけで、僧たちはなんの抵抗もしめさなかった。
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という具合です。(p57)
そもそも興福寺の場合、僧侶一同の還俗決定の時期が奇妙なほど早くて、実に太政官の「別当・社僧復飾令」の布告前なんですね。
阪本是丸氏の「神仏分離研究の課題と展望」(『近世・近代神道論考』、弘文堂、2007)によれば、
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〔『明治維新神仏分離史料』の〕大屋の報告によれば、興福寺の門跡が「今般御一新之折柄に付、神仏格別之旨被仰出候御模様有之、依之両御門主様、一寺一体復飾願出候に付、其仲ヶ間如何有之候哉心得方無憚申出候様」と一山の衆議に附したのが慶応四年三月二十二日のことであったという。前述した通り、これよりわずか五日前の三月十七日付けの「別当・社僧復飾令」は太政官から正式には布告されていないのであるから、常識的には両門跡が「御模様」とはいえ、それを察知していたことは不可解ともいえよう。しかしながら、これまでの興福寺の権勢と新政府支援の実績からするならば─興福寺は両本願寺同様に新政府への金穀貢納や軍事的活動も行っており、寺領二万石以上を誇る日本最大級の宗教的封建領主でもあった─、政府要路の何者かが情報をもたらすことは十分に推測できる。それに大乗院門跡隆芳は九条尚忠の、一乗院門跡応昭は近衛忠煕のそれぞれ男子である摂家門跡であったから、朝廷における神仏分離の一環たる宮門跡の復飾については、慶応三年十二月の仁和寺宮の復飾ですでに知っていた可能性は高い。このように推察するならば、両門跡にとって「還俗」したほうが得策と思慮されるならば、何の頓着もなく還俗できたのだろう。
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ということで(p158以下)、正式な太政官布告が出る前に、政府からの強制など全くない状態で興福寺がさっさと自主廃業を決めたんですね。
これをもって「仏教弾圧」と主張するのはさすがに無理が多かろうと思います。
そして、興福寺のような大寺院のほか、松岡氏が列挙する限られた地域以外では、神仏分離は概ね驚くほど平静に、実に淡々と進行した訳で、数量的に見れば神仏分離は「仏教弾圧」ではないと考えるのが素直です。
では、何故にそんなに淡々と進行したのかが次の問題です。
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月 9日(土)10時26分41秒
森鷗外が生まれた津和野が神仏分離に関して独特な意味を持つ土地だということはそれなりに有名だと思いますが、「津和野」&「神仏分離」で検索してみたら『松岡正剛の千夜千冊』が出てきました。
松岡氏は佐伯恵達氏の『廃仏毀釈百年』(鉱脈社、1988)の書評の中で、津和野藩について次のように述べます。
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こうして明治元年9月18日(明治に改元され、一世一元が定められたのは9月8日のこと)、「先日、神仏を混淆しないように布告を出した」という念押しが重ねて通達された。
ともかく矢継ぎばやの神仏分離令であり、電光石火の神仏混淆禁止令だった。お上のお達しだから、反論の余地はない。しかも、まだ版籍奉還も廃藩置県もおこなわれていない時期なので(版籍奉還は明治2年9月、廃藩置県は明治4年4月)、この新政府の命令を寝耳に水で受け取るのは藩主か、各地の神社仏閣のリーダーたちだった。一方ではたちまちさまざまな藩内で混乱がおこり、他方ではこうした下命を待ち望んでいたようなところでは、神仏分離や廃仏毀釈に着手する乱暴な動きがさっそくおこった。この日を待ちわびていた藩もあった。
津和野藩には養老館という藩校があり、嘉永期から国学が重んじられていた。とくに幕末には大国隆正(後述)や福羽美静(後述)といった平田国学のごりごりの直流の門下生が教授となって、新政府の王政復古イデオロギーの準備と確立に加担していた。そうした空気ができあがっていたなか、藩主の亀井茲監(後出)は「封内衰類ノ仏寺ヲ廃合シ、釈侶ノ還俗」を敢行し、総霊社を設立して葬祭を神社主導でとりしきることを決めた。これは全国にさきがけた祖霊社のモデルとなった。
http://1000ya.isis.ne.jp/1185.html
私は佐伯恵達氏の『廃仏毀釈百年』は未読ですが、松岡正剛氏が参考文献として列挙する本はある程度読んでいて、神仏分離・廃仏毀釈の概要は一応把握しているつもりです。
さて、
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明治維新における「神仏分離」と「廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく)の断行は、取り返しのつかないほどの失敗だった。いや、失敗というよりも「大きな過ち」といったほうがいいだろう。日本を読みまちがえたとしか思えない。「日本という方法」をまちがえたミスリードだった。
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と考える松岡氏は、まるで西欧中世の異端審問官並みの執拗さで神仏分離・廃仏毀釈を弾劾し、その熱意は徐々にヒートアップして、こんなに興奮していたらそのうち泡を吹いて倒れるのでは、と心配になるほどです。
ウィキペディアによれば松岡氏は1944年生まれだそうですが、1922年に神職の家に生まれた佐伯彰一氏が神仏習合の「ごった煮」状態について強烈な「気恥しさ」を感じていたのと対照的に、松岡氏は、
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日本をいちがいに千年の国とか二千年の歴史とかとはよべないが、その流れの大半にはあきらかに「神仏習合」ないしは「神仏並存」という特徴があらわれてきた。神と仏は分かちがたく、寺院に神社が寄り添い、神社に仏像がおかれることもしょっちゅうだった。そもそも9世紀には“神宮寺”がたくさんできていた。
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という具合に、むしろ神仏習合こそが日本の伝統であったと考え、「神仏習合だったこの国に、本来の神仏和解をとりもどすには、どうすればいいのか」という問題意識を基軸に据えておられるようですね。
ま、人それぞれだなとは思いますが、佐伯彰一氏の述懐が生活実感に満ちているのに対し、松岡氏の発想は特定の傾向を持ついくつかの書物から得た、ずいぶん頭でっかちなもののような印象を受けます。
松岡氏の見解には若干の疑問があって、例えば松岡氏は「お上のお達しだから、反論の余地はない」と書いていますが、松岡氏が廃仏毀釈が激しかったとして具体的に列挙する地域を見ると、津和野藩・隠岐・佐渡、松本・土佐・平戸・延岡藩といった具合に地域的な偏りが大きいですね。
逆に言うと、「お上のお達し」にもかかわらず、適当に受け流した地方もけっこう多いはずです。
少し長くなったので、ここでいったん切ります。
『神道のこころ─見えざる神を索めて』(日本教文社、1989)を図書館で借りて読んでみました。
佐伯氏はアメリカ文学者ですから文章は軽快で、決して書名から予想されるような辛気臭い本ではありませんが、各種雑誌に掲載された文学的なエッセイを雑然と配列しているだけで、理論的な書物ではないですね。
唯一書き下ろしの「日本人を支えるもの」というエッセイでは、「日本人の宗教的態度における内と外、表面と深層との間の大きなギャップ」が生まれた歴史的事情として、「その一つは世俗化という名の宗教離れが、いち早く、おそらく世界に先がけて進行したことであり、もう一つは、『神仏習合』という名の、いわば宗教的ドッキング現象」を挙げます。
最初の江戸時代の宗教的世俗化については、
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ともかく、文学、芸能における表現について見るなら、江戸時代において、宗教が等しなみに、風刺と皮肉、いや笑いとからかいの対象とされていること、驚くばかりだ。じつに気軽、お手軽に、笑い物にされ、パロディ化されている。今、正確に題名が思い出せないのだが、釈迦と孔子とが、吉原へ女郎買いに出かけたらという設定の演物(だしもの)に出くわして、欧米の同時代を思い合わせて、肝をつぶさんばかりの驚きに打たれた覚えがあった。いわゆる涜神、涜聖といった概念すら、ここでは用をなさないかに見えた。江戸時代のわが国における世俗化の度合いと範囲は、どうやら世界に比類のないもので、かの宗教批判の大立者、フランス啓蒙期の舌鋒鋭い速筆家のヴォルテールさえも、驚き、青ざめかねないだろう。
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と指摘します。(p51)
釈迦と孔子云々は江戸時代の『聖☆おにいさん』みたいなものですかね。
佐伯氏は次に神仏習合を論じますが、これは佐伯氏の出自にも関係してきます。(p53)
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もう一つは、これはわが宗教史上つとに悪名高い神仏習合である。わが国ではたしかに神道、仏教とが、いわば奇妙に馴れ合った格好で、共存してきた。寺院の中に神社があったり、たとえばわが家は、かなり古くからの神道、代々、山嶽信仰を守ってきたのだが、中核的な信者である三十六軒をそれぞれ「坊」の名(わが家は吉祥坊)で呼び主人の居間を「方丈」と呼びならわしていた。冬期に、この三十六坊、全国をそれぞれ手わけして、布教、伝道に出むいたのだが、その際たずさえてゆく立山曼荼羅なる画幅は、立山開山のいわば神道縁起を詳しく書きこみながら、その全体としての意匠・結構は、「称名の滝」、「地獄谷」、「弥陀ヶ原」、「大日山」といった地名が示すように、つよく仏教色に染め上げられていた。全くの神仏混淆、奇妙なごった煮の宗教であり、若い頃のぼくは、正直言って、これがひどく気恥しかった。二つの異なった宗教を、こんな具合に、ごった混ぜにして、平然とやって来たなんて、余りにも一貫性、純粋性が欠けている。宗教として見れば、明らかに三流、四流、あれもこれも借り物だらけ、主体性、独自性の欠如そのものではないか、と。ぼくが大学に入る際、英文学、アメリカ文学といった一家の伝統とはまるで無縁な専門を、大して迷いもせずに選びとったのも、じつはこうした気恥しさ、自己嫌悪が裏側で一役買っていたのかも知れない。
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「原質、原型への眼ざし」というエッセイによれば、「吉祥坊」の担当地域は「武蔵と江戸」だそうで(p84)、そのような重要地域を任されるからには「吉祥坊」は「佐伯三十六坊」の中でも相当の名門なんでしょうね。
最近は神仏習合に関する評価もかなり多様になってきて、決して「悪名高い」一色ではありませんが、1922年生まれの佐伯氏にとっては、ひたすら「気恥しい」ものだった訳ですね。
ま、引用からも明らかなように、全く理論的な本ではないので、この本自体の検討は行わず、神道に対するひとつの見方として紹介しておきます。
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月 8日(金)09時56分1秒
>筆綾丸さん
>芥川の『神神の微笑』
青空文庫にはそれなりの見識があるのでしょうけど、これも「神々の微笑」でないと、ちょっと雰囲気が出ないように感じてしまいます。
>井上毅(1844-1895)
ボアソナードとは直接関係ありませんが、去年、「立憲主義」関連の論文を調べている際に九州大学准教授の南野森氏が井上毅を絶賛している文章を読み、ちょっと奇妙な印象を受けたことがありました。
特に重要な論文ではなかったのでざっと眺めただけでしたが、西園寺公望の井上毅に対する評価を知ると南野氏が井上のどこを誉めていたのかが改めて気になるので再読してみるつもりです。
南野氏は元AKBアイドルの内山奈月さんと『憲法主義 条文には書かれていない本質』(PHP、2014)という共著を出している人で、以前の投稿で「そんな本を読むのはたぶん人生の無駄遣いなので、読みたいとは思いません」などと書いたことがありますが、その後、読まずに批判するのは良くないなと反省して一応読んでみました。
ま、わざわざ感想を書く必要もなかったので、この掲示板では何も触れませんでしたが、内山奈月さんは非常に頭の良い子だという南野氏の意見には私も賛成したものの、南野氏に賛同できるのはその点くらいでした。
「是非ご教示賜りたい」(by 南野森)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/14f17705810ae8d2c7a4ecada003a1dd
「長谷部先生は、世の中の上澄みの部分を見ておられる」(by 南野森)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8ce8b37462a3ca44ee103a929f86883d
「客観的な現象として神話というものの重要性はあるのです」(by 樋口陽一)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e4e72172425d547d8e4eab04f33b7137
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「神神の微笑と万神殿」2016/01/07(木) 13:34:33
小太郎さん
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/68_15177.html
大久保泰甫氏『日本近代法の父 ボワソナアド』の序章に、芥川の『神神の微笑』に触れて、以下のような記述がありますが、五條父子の間に西園寺公望(1849-1940)や井上毅(1844-1895)を置いてみると、「かのやうに」も味わい深くなりますね。
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ところで、ボワソナアドが来朝した直後から、日本には「大日孁貴」が存在するから、ヨオロッパ法も「造り変える」必要があると主張してやまぬ者がいた。やがて明治憲法や教育勅語の起草者となる井上毅が、その人である。この「色が蒼ざめた、頭髪の漆黒な痩せこけた男」は、一個の漢学先生然として、ただ眼光だけが炯々としていた。この人物は、ボワソナアドの最初の弟子の一人であり、またボワソナアドが明治二八年、遂に日本を去るにあたり、死の床にあって「ボアソナード君の帰国を送る詞」を書き、直後に死去した。二人は、人間的には理解しあいながらも、考え方の上では火花をちらした、まことに因縁浅からざる関係にあった。
しかるに井上が、自ら起草した明治憲法について「我が国の憲法は、欧羅巴の憲法の写しにあらずして、即遠つ御祖の不文憲法の今日に発達したるものなり」とのべたのに対して、フランス的教養人であった西園寺公望は、「欺己欺人語」と書き、さらに井上の議論を『野狐禅』とか、『幼稚』とか評し、「『通例特性と名づくるものは、一国に在ても、一人に在ても、大抵は其短処なり。其僻処なり。殊に今日教育家の吾邦の特性などと蝶々する所は、多くは識者をして眉に皺せしむ。是思はざるべからず』と書き、最後に、『余此書(井上の『梧陰存稿』)を読んで甚失望す。梧陰徹底の見解なく学問なきを自白せり。梧陰遂に一種の偽君子たるを免れず』と酷評したという。それでは、実は「大日孁貴」は敗れていたのだろうか?(5頁~)
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同書のあとがきに、パリ大学法学部校舎にあるボアソナアドの胸像は、「一九三四年、東京大学のフランス法講座担当教授杉山直治郎博士らが中心となり、日仏朝野の協力のもとに、日本側が、ボアソナアドのわが国に対する比類のない貢献に感謝の微意を表すために、贈呈したもの」(207頁)とありますね。パリ大学法学部の学生達にボアソナアドのことを尋ねても、Je ne sais pas、としか言わないでしょうが。
或る日の会話。
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「偉い人なの?」
「うん。日本近代法の父さ」
「そんなに偉ければ、目の前にパンテオンがあるよ。もっとも、どんなに日本に貢献しても、フランスに貢献しなければ、パンテオン入りは不可能だけどね」
「万神殿ではなく、モンパルナス墓地の近くに Boissonade 通りというのがあって、あれはこの胸像の父親の名に因むそうなんだよ」
「Et alors?」
「邪魔して悪かった。勉強を続けてくれ」
「パンテオンにはもう行ったの?」
「いや、まだ」
「僕の祖先も入っていてね」
「え、ほんと?」
「故郷の海辺の墓地に改葬してやろうと、エリゼ宮と交渉しているんだが、一度入ったら、二度と出られない、普通の墓とは違う、英雄の墓だ、の一点張りでね」
「誰の子孫なの?」
「日本人なんかには教えてあげない」
「・・・・・・」
続きです。
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昔の人が真実だと思つてゐた、神霊の存在を、今の人が嘘だと思つてゐるのを、世間の人は当り前だとして、平気でゐるのではあるまいか。随つてあらゆる祭やなんぞが皆内容のない形式になつてしまつてゐるのも、同じく当り前だとしてゐるのではあるまいか。又子供に神話を歴史として教へるのも、同じく当り前だとしてゐるのではあるまいか。そして誰も誰も、自分は神話と歴史とをはつきり別にして考へていながら、それをわざと擣き交ぜて子供に教へて、怪まずにいるのではあるまいか。自分は神霊の存在なんぞは少しも信仰せずに、唯俗に従つて聊復爾り位の考で糊塗して遣つてゐて、その風俗、即ち昔神霊の存在を信じた世に出来て、今神霊の存在を信ぜない世に残つてゐる風俗が、いつまで現状を維持してゐようが、いつになつたら滅亡してしまはうが、そんな事には頓著しないのではあるまいか。自分が信ぜない事を、信じてゐるらしく行つて、虚偽だと思つて疚しがりもせず、それを子供に教へて、子供の心理状態がどうならうと云ふことさへ考へてもみないのではあるまいか。倅は信仰はなくても、宗教の必要を認めると云ふことを言つてゐる。その必要を認めなくてはならないと云ふこと、その必要を認める必要を、世間の人は思つても見ないから、どうしたら神話を歴史だと思わず、神霊の存在を信ぜずに、宗教の必要が現在に於いて認めてゐられるか、未来に於いて認めて行かれるかと云ふことなんぞを思つて見やうもなく、一切無頓著でゐるのではあるまいか。どうも世間の教育を受けた人の多数は、こんな物ではないかと推察せられる。無論この多数の外に立つて、現今の頽勢を挽回しようとしてゐる人はある。さう云ふ人は、倅の謂ふ、単に神を信仰しろ、福音を信仰しろと云ふ類である。又それに雷同してゐる人はある。それは倅の謂ふ、真似をしてゐる人である。これが頼みにならうか。更に反対の方面を見ると、信仰もなくしてしまひ、宗教の必要をも認めなくなつてしまつて、それを正直に告白してゐる人のあることも、或る種類の人の言論に徴して知ることが出来る。倅はさう云ふ人は危険思想家だと云つてゐるが、危険思想家を嗅ぎ出すことに骨を折つてゐる人も、こつちでは存外そこまでは気が附いてゐないらしい。実際こつちでは、治安妨害とか、風俗壊乱とか云ふ名目の下に、そんな人を羅致した実例を見たことがない。しかしかう云ふことを洗立をして見た所が、確とした結果を得ることはむずかしくはあるまいか。それは人間の力の及ばぬ事ではあるまいか。若しさうだと、その洗立をするのが、世間の無頓著よりは危険ではあるまいか。倅もその危険な事に頭を衝つ込んでゐるのではあるまいか。倅は専門の学問をしてゐるうちに、ふとさう云ふ問題に触れて、自分も不安になつたので、己に手紙をよこしたかも知れぬ。それともこの問題にひどく重きを置いてゐるのだらうか。
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執筆時期が明治末期、というか大正改元の直前なので、危険思想云々には大逆事件(1910)、神話云々には南北朝正閏論争(1911)の影響があることは当然ですが、「かのやうに」に関する評論を見ると、そうした思想的問題ばかり論じているものがけっこう多くて、宗教を正面から論じている人が意外に少ないようにも感じます。
ま、以上、五条子爵が「秀麿の手紙を読んでから、自己を反省したり、世間を見渡したりして、ざっとこれだけの事を考えた」内容を紹介しましたが、これ自体を議論することは予定しておらず、現代の日本人を取り巻く宗教的環境は百年前とあまり変わってはいないよね、という確認に止めます。
さて、次に息子の手紙を受け取った五條子爵が宗教について考える場面が出てきます。
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西洋事情や輿地誌略の盛んに行われていた時代に人となつて、翻訳書で当用を弁ずることが出来、華族仲間で口が利かれる程度に、自分を養成しただけの子爵は、精神上の事には、朱子の註に拠つて論語を講釈するのを聞いたより外、なんの智識もないのだが、頭の好い人なので、これを読んだ後に内々自ら省みて見た。倅の手紙にある宗教と云ふのはクリスト教で、神と云ふのはクリスト教の神である。そんな物は自分とは全く没交渉である。自分の家には昔から菩提所に定まつてゐる寺があった。それを維新の時、先代が殆ど縁を切つたようにして、家の葬祭を神官に任せてしまつた。それからは仏と云ふものとも、全く没交渉になつて、今は祖先の神霊と云ふものより外、認めてゐない。現に邸内にも祖先を祭つた神社だけはあつて、鄭重な祭をしてゐる。ところが、その祖先の神霊が存在してゐると、自分は信じてゐるだろうか。祭をする度に、祭るに在すが如くすと云ふ論語の句が頭に浮ぶ。しかしそれは祖先が存在してゐられるやうに思つて、お祭をしなくてはならないと云ふ意味で、自分を顧みて見るに、実際存在してゐられると思ふのではないらしい。ゐられるように思ふのでもないかも知れない。ゐられるやうに思はうと努力するに過ぎない位ではあるまいか。さうして見ると、倅の謂ふ、信仰がなくて、宗教の必要丈を認めると云ふ人の部類に、自分は這入つてゐるものと見える。いやいや。さうではない。倅の謂ふのは、神学でも覗いて見て、これだけの教義は、信仰しないまでも、必要を認めなくてはならぬと、理性で判断した上で認めることである。自分は神道の書物なぞを覗いて見たことはない。又自分の覗いて見られるような書物があるか、どうだか、それさへ知らずにゐる。そんならと云つて、教育のない、信仰のある人が、直覚的に神霊の存在を信じて、その間になんの疑をも挿まないのとも違ふから、自分の祭をしているのは形式丈で、内容がない。よしや、在すが如く思はうと努力してゐても、それは空虚な努力である。いやいや。空虚な努力と云ふものはありやうがない。そんな事は不可能である。さうして見ると、教育のない人の信仰が遺伝して、微かに残つてゐるとでも思わなくてはなるまい。しかしこれは倅の考へるやうに、教育が信仰を破壊すると云ふことを認めた上の話である。果してさうであろうか。どうもさうかも知れない。今の教育を受けて神話と歴史とを一つにして考えてゐることは出来まい。世界がどうして出来て、どうして発展したか、人類がどうして出来て、どうして発展したかと云ふことを、学問に手を出せば、どんな浅い学問の為方をしても、何かの端々で考へさせられる。そしてその考へる事は、神話を事実として見させては置かない。神話と歴史とをはつきり考え分けると同時に、先祖その外の神霊の存在は疑問になつて来るのである。そうなつた前途には恐ろしい危険が横わつてゐはすまいか。一体世間の人はこんな問題をどう考へてゐるだらう。
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ま、長々と引用しましたが、今から百年前の文章ではあっても、現在の日本人の大半が思っている宗教観は大体こんなものじゃないですかね。
五條子爵の見解の中で若干特殊なのは神葬祭に触れた部分で、「自分の家には昔から菩提所に定まつてゐる寺があった。それを維新の時、先代が殆ど縁を切つたようにして、家の葬祭を神官に任せてしまつた。それからは仏と云ふものとも、全く没交渉」とのことですが、これは鷗外の生まれた津和野が神仏分離を徹底した土地柄であることの反映なんでしょうね。
神葬祭の普及率は現在でも微々たるもので、多くの人は葬式のときだけ仏教徒である「かのやうに」振舞っていますが、では、お経を聴いて意味が分かるかというと、殆どの人は理解していないはずですね。
もちろん私も理解していません。
続きです。
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ロシアとでも比べて見るが好い。グレシア正教の寺院を沈滞の儘に委せて、上辺を真綿にくるむやうにして、そつとして置いて、黔首を愚にするとでも云ひたい政治をしてゐる。その愚にせられた黔首が少しでも目を醒ますと、極端な無政府主義者になる。だからツアアルは平服を著た警察官が垣を結つたやうに立つてゐる間でなくては歩かれないのである。一体宗教を信ずるには神学はいらない。ドイツでも、神学を修めるのは、牧師になる為めで、ちよつと思うと、宗教界に籍を置かないものには神学は不用なやうに見える。しかし学問なぞをしない、智力の発展してゐない多数に不用なのである。学問をしたものには、それが有用になつて来る。原来学問をしたものには、宗教家の謂ふ「信仰」は無い。さう云ふ人、即ち教育があつて、信仰のない人に、単に神を尊敬しろ、福音を尊敬しろと云つても、それは出来ない。そこで信仰しないと同時に、宗教の必要をも認めなくなる。さう云ふ人は危険思想家である。中には実際は危険思想家になつてゐながら、信仰のないのに信仰のある真似をしたり、宗教の必要を認めないのに、認めてゐる真似をしてゐる。実際この真似をしてゐる人は随分多い。そこでドイツの新教神学のやうな、教義や寺院の歴史をしつかり調べたものが出来てゐると、教育のあるものは、志さへあれば、専門家の綺麗に洗ひ上げた、滓のこびり付いてゐない教義をも覗いて見ることが出来る。それを覗いて見ると、信仰はしないまでも、宗教の必要丈は認めるやうになる。そこで穏健な思想家が出来る。ドイツにはかう云ふ立脚地を有してゐる人の数がなかなか多い。ドイツの強みが神学に基づいてゐると云ふのは、ここにある。秀麿はかう云ふ意味で、ハルナツクの人物を称讃している。子爵にも手紙の趣意はおおよそ呑み込めた。
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ま、私も別にキリスト教神学を論じたいと思っている訳ではなく、またそもそもアドルフ・フォン・ハルナックの思想を理解して引用している訳ではありませんが、こういう立場は後にカール・バルトに厳しく批判されるようになる程度のごく表面的な知識は一応あります。