学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

松岡正剛氏の悲憤慷慨(その2)

2016-01-10 | グローバル神道の夢物語
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月10日(日)11時38分24秒

松岡正剛氏は、

-------
 神仏分離・廃仏毀釈は岩倉具視や木戸孝允や大久保利通からすれば、王政復古の大号令にもとづく「日本の神々の統括システム」を確立するための政策の断行だった。薩長中心の維新政府からすれば、神権天皇をいただいた国体的国教による近代国家をつくるための方途だった。
 が、これはあきらかに仏教弾圧だったのだ。仏教界からすればまさに「排仏」であり、もっとはっきりいえば「法難」あるいは「破仏」なのである。
--------

という具合に神仏分離=廃仏毀釈=仏教弾圧だと強調される訳ですが、実際には別に弾圧も何もないのに自主的に仏教から離れた大寺院がけっこう多いんですね。
その代表例が松岡氏も、

--------
有名な話であるが、やはり廃仏毀釈の波が早くに襲った奈良県では、興福寺が寺院塔頭が維持できなくなって、五重塔を25円で売り払おうとしたことさえあった。
--------

と触れる興福寺です。
この点、事実認識に若干問題はありますが、入手しやすい安丸良夫氏の『神々の明治維新─神仏分離と廃仏毀釈』(岩波新書、1979)の記述を引用すると、

-------
 慶応四年三・四月の段階で、社僧などの還俗と神仏分離があっさり実施されたのは、興福寺、石清水八幡宮、北野神社などの大寺社の場合である。
 興福寺のばあい、慶応四年四月に「一山不残還俗」し、僧侶の一部は春日社に神勤し、多くは離散した。しかし、決定的な打撃を与えたのは明治四年の寺領上知(じょうち)の方で、翌年には、伽藍仏具などの一切が処分された。五重塔が二十五円で売却され、買主は金具をとるためにこれを焼こうとしたが、付近の町家が類焼を恐れて反対し、そのために五重塔は残った、という。神社として独立した春日社を残して、興福寺自体はほとんど廃滅したわけで、僧たちはなんの抵抗もしめさなかった。
-------

という具合です。(p57)
そもそも興福寺の場合、僧侶一同の還俗決定の時期が奇妙なほど早くて、実に太政官の「別当・社僧復飾令」の布告前なんですね。
阪本是丸氏の「神仏分離研究の課題と展望」(『近世・近代神道論考』、弘文堂、2007)によれば、

------
〔『明治維新神仏分離史料』の〕大屋の報告によれば、興福寺の門跡が「今般御一新之折柄に付、神仏格別之旨被仰出候御模様有之、依之両御門主様、一寺一体復飾願出候に付、其仲ヶ間如何有之候哉心得方無憚申出候様」と一山の衆議に附したのが慶応四年三月二十二日のことであったという。前述した通り、これよりわずか五日前の三月十七日付けの「別当・社僧復飾令」は太政官から正式には布告されていないのであるから、常識的には両門跡が「御模様」とはいえ、それを察知していたことは不可解ともいえよう。しかしながら、これまでの興福寺の権勢と新政府支援の実績からするならば─興福寺は両本願寺同様に新政府への金穀貢納や軍事的活動も行っており、寺領二万石以上を誇る日本最大級の宗教的封建領主でもあった─、政府要路の何者かが情報をもたらすことは十分に推測できる。それに大乗院門跡隆芳は九条尚忠の、一乗院門跡応昭は近衛忠煕のそれぞれ男子である摂家門跡であったから、朝廷における神仏分離の一環たる宮門跡の復飾については、慶応三年十二月の仁和寺宮の復飾ですでに知っていた可能性は高い。このように推察するならば、両門跡にとって「還俗」したほうが得策と思慮されるならば、何の頓着もなく還俗できたのだろう。
-------

ということで(p158以下)、正式な太政官布告が出る前に、政府からの強制など全くない状態で興福寺がさっさと自主廃業を決めたんですね。
これをもって「仏教弾圧」と主張するのはさすがに無理が多かろうと思います。
そして、興福寺のような大寺院のほか、松岡氏が列挙する限られた地域以外では、神仏分離は概ね驚くほど平静に、実に淡々と進行した訳で、数量的に見れば神仏分離は「仏教弾圧」ではないと考えるのが素直です。
では、何故にそんなに淡々と進行したのかが次の問題です。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 松岡正剛氏の悲憤慷慨(その1) | トップ | 神仏分離をめぐる悲憤慷慨の連鎖 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

グローバル神道の夢物語」カテゴリの最新記事