学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

廃仏毀釈に殉教者はいるのか?

2016-01-14 | グローバル神道の夢物語

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月14日(木)10時20分57秒

このところ神仏分離にこだわっていますが、それは日本の宗教的土壌を検討するためには神仏分離が、明治末期の神社合祀(神社整理)と並んで最適の素材だと考えているからです。
元旦に少し書いたように私は「グローバル神道」として論理的にはけっこう一貫した、しかし極めて奇妙なことを言い出す予定ですが、それが日本の風土には合いそうもないことが分かればあっさり引っ込めるつもりです。
そして「かのやうに」の紹介だけでいきなり本題に入ろうかなとも思ったのですが、やはりここは借り物ではなく、自分で分析せねば、と思い直したので、神仏分離・神社合祀を素材として少し丁寧にやろうと考えています。
なお、くどいようですが、私は別に素晴らしい日本の神道を世界に輸出しようなどと思っている訳ではありません。

さて、神仏分離・廃仏毀釈が大変な「宗教弾圧」だったと慨嘆する松岡正剛氏のような人たちに私が抱く素朴な疑問は、いったい神仏分離・廃仏毀釈に殉教者がいるのだろうか、というものです。
織田信長の比叡山焼き討ちの如く、廃仏毀釈で数百人・数千人・数万人の僧侶が殺されているのであれば私だって「宗教弾圧」だと考えますが、例えば参照に便利な安丸良夫氏の『神々の明治維新』(岩波新書、1979)を見ても、仏像を破壊する暴徒に立ち向かって殺された勇敢な僧侶、みたいな典型的な殉教者と呼べる人が出てきません。
有名な日吉山王社の襲撃でも、

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 比叡山山麓坂本の日吉山王社は、延暦寺の鎮守神で、江戸時代には山門を代表する三執行代の管理のもとにあった。この日吉社へ、武装した一隊が押しかけたのは、慶応四年四月朔日(ついたち)の昼前のことだった。彼らは、諸国の神官出身の志士たちからなる神威隊五十人、人足五十人、日吉社の社司・宮仕に住人ほどからなっていた。【中略】
 何回かのやりとりのあと、押しかけた一隊は実力行使にでて、神域内に乱入して土足で神殿にのぼり、錠をこじあけ、神体として安置されていた仏像や、仏具・経巻の類をとりだして散々に破壊し、積みあげて焼き捨てた。仏像にかえて、「真榊(まさかき)」と称する金属製の「古物」がもちこまれて、あたらしく神体に定められた。日吉社は、本殿のほか二宮社以下七社からなりたっていたが、同様の処置は七社のすべてにたいしてもなされた。焼き捨てられた仏像・仏具・経巻などは一二四点、ほかに金具の類四十八点が奪いさられた、と報告されている。そのなかには、大般若経六百巻が一点に数えられている例もあり、五十人の人足を動員しての半日余の作業だったことも考慮すると、全体としてはきわめて厖大な破壊行為がなされたことになる。一隊の指導者樹下茂国は、仏像の顔面を弓で射当て、大いに快哉を叫んだという。
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とのことで(p52以下)、ま、大変だったね、とは思いますが、日吉山王社側に死者はおろか負傷者もいないようです。
ということは、日吉山王社側の僧侶は樹下茂国に率いられた御一行様計120人が半日かけて「厖大な破壊行為」をしているのをボーッと眺めていただけなのでしょうか。
殺されてもよいからと必死の反撃を試みた人はいなかったのでしょうか。
あるいは、暴徒の前で切腹でもして、神域(仏域?)を荒らすのなら俺の屍を超えて行け、などと叫んだ人はいなかったのでしょうか。
ま、いくつか疑問を感じるのでもう少し事実関係を調べてみるつもりですが、負傷者はともかく、死者が出なかったことは確かなようです。
神仏分離・廃仏毀釈は大変な混乱を巻き起こしたことは間違いなくて、暴動のような事例も若干あり、死者はそれなりにいるようですが、それでも典型的な殉教者と呼べる人を私は知りません。
これは同時期に、明治新政府の下で行われたキリシタン弾圧(浦上四番崩れ)で配流信徒3394人中613人の死者が出たことと比較すると驚くべき事態で、これをもって「宗教弾圧」と呼ぶなら、ずいぶん淡々とした、ほのぼのとした「宗教弾圧」だなあと思います。

「浦上キリシタンの流罪」(津和野カトリック教会サイト内)
http://www.sun-net.jp/~otome/kirishitan.html

>筆綾丸さん
>千々和到氏
阪本是丸氏の「神仏分離研究の課題と展望」の注7に、「なお、本章を執筆するに当たり、中世宗教史研究の最高権威である國學院大學・千々和到教授から、最新の神仏分離に関する論考があることをご教示いただいた(神宮滋「一地方神宮寺の明治初期神仏分離史料の研究」、『秋大史学』五〇、二〇〇四年)。」とあったので(p166)、この論文を入手せねば、と思っていたところです。
「中世宗教史研究の最高権威」だと近寄りがたい威厳を感じますが、千々和先生はけっこう親しみやすい風貌をされていますね。

>売買契約による所有権の移転
所有権が放棄され、「無主物先占」(民法239条1項)で「原始取得」されたものも結構多そうですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「仏像の亡命」2016/01/13(水) 10:11:31

余談で恐縮ですが、先月、国際シンポジウム「博物館の国際的ネットワーク形成と日本文化研究」(國學院大學)に出席したのですが、ミシェル・モキュエール(Michel Maucuer)氏がギメ美術館所蔵の写真を示して、これは法隆寺にあった仏像(座像)です、と紹介すると、会場の外国人研究者から、どのように入手したのか、という質問が出ました。わかりません、とモキュエール氏が答えると、会場の千々和到氏が、私から一言申し上げましょう、と次のようなことを言われました(あくまで私の記憶ですが)。同時通訳者は廃仏毀釈をどのように訳すのだろう、とちょっと気になりました。

「御承知のとおり、明治期における仏像の国外流出の背景には廃仏毀釈の影響があるわけですね。もっとも本学関係者が廃仏毀釈と言うと語弊があるのですが(ここで会場から若干の笑い声が漏れ、私もその一人でした)。あの時期の仏像の流出は亡命だったと私は考えております」

『黄金のアデーレ』は実話に基づくそうですが、こんな訴訟がほんとに可能なのか、と映画を観ながら驚いたものです。

法隆寺の件の仏像は、二束三文の叩き売りとはいえ、法的には売買契約による所有権の移転という正式な手続きを経たものだったのでしょうね。

追記
シンポジウム出席者でボストン美術館のアン・ニシムラ・モース Anne Nishimura Morse氏は、大森貝塚のモースの末裔とのことでした。

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5 コメント

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皇居射殺事件を忘れないで (扶桑教吉部稲荷宮司 佐々木丸正)
2018-08-24 23:28:13
私たち、扶桑教として教派神道になる前の、富士講時代の行者や神主や坊さんや山伏たちがデモ隊を率いて廃仏毀釈反対の請願陳情に皇居にいったらライフル銃で撃たれて死んだんだよ
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こんにちは。 (鈴木小太郎)
2018-08-25 08:57:28
私はご指摘の事件を知らないのですが、何時発生した出来事でしょうか。
また、どんな資料を見れば確認できるでしょうか。
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おくれてすみません (佐々木丸正)
2018-09-05 20:30:42
http://d.hatena.ne.jp/inudaisho/touch/20130712

これです。他にも本にもなってたかな
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本の題名 (佐々木丸正)
2018-09-05 20:32:48
『岩波日本近代思想大系5 宗教と国家』にその取り調べの調書が掲載されまさした。
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Unknown (鈴木小太郎)
2018-09-06 09:03:17
ありがとうございます。
岩波日本近代思想大系を確認してみます。
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