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「法隆寺の受難」

2016-01-17 | グローバル神道の夢物語
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月17日(日)10時30分51秒

前回投稿で少し紹介した高田良信氏の『「法隆寺日記」をひらく─廃仏毀釈から百年』(NHKブックス、1986)から、今日は平田国学の浸透に関係する部分を引用してみます。(p24以下)

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Ⅱ 廃仏毀釈の嵐の中から
 1 明治維新と奈良の寺々【中略】
 2 法隆寺の受難

 法隆寺でも、明治維新という大変革によって、まったく予期しなかった現象が起こっている。
 それは、幕末まで法隆寺は聖域として寺僧が境内を歩く時も、法衣に五条袈裟を着し、威儀を正すことが義務づけられていたことからも分かるように、伽藍は清浄なる場所と考えられていた。しかし、維新以後は、村人が牛馬を廻廊につなぐなど、まったく想像を絶する状況の変動に寺僧たちは困惑している。それまでの封建的な寺のありかたに対する、村人の反動から生じたのかもしれない。【中略】
 また多くの古物や経巻類が売却されたのもそのころである。寺の悲惨な姿を目の当りにした法隆寺の寺僧たちは、高まる不安の中で、この苦難をいかに乗り越えようかと苦慮していた。とくに幕末のころから寺僧の間に平田篤胤風の国学が浸透して、その影響を受け退寺する寺僧もあり、法隆寺にとっても、決して安穏な時代ではなかった。
 千早定朝管主が、明治維新の時に経験した法隆寺の激動の様子を明治二十八、九年ごろに語ったものを速記した「参考の演説」の中で次のように語っている。

抑モ我法隆寺ニ於テ今ヨリ三十六・七年前、安政、万延年中ノ頃破仏家平田篤胤風ノ国学大ニ流行ス 我本寺若輩ノ僧等モ之レヲ学ブ
彼ノ破仏之説ヲ深ク信シ仏法ハ浅間敷者ト思ヒ誤マリ甚敷ニテハ我等坊主ニナリシハ自分ノ本心ヨリ出シニ非ズ 父母師匠ニ誘ハレ父母ノ進メニヨリ坊主ニ成シナリ
今想ヘハ国家ノ罪人 今父母ノ誤リヲ速ニ帰俗シテ之ヲ謝罪セント 遂ニ退寺離散ス 又朝野ニモ廃寺廃仏ノ論ニ立テリ

 幕末の混乱期に国学の破仏的考えが法隆寺にまでおし寄せ、寺僧たちがそれに惑わされ、大いに動揺した様子がわかる。このような難局に当って、聖徳太子以来の、法統を護らねばとのかたい決意のもとに、法隆寺の一大改革の必要性を強く唱えたのが、中院の住持千早定朝師であった。
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ということで、この後、千早定朝師の活躍が描かれる訳ですが、それは聞くも涙、語るも涙の物語ですね。
明治四年の上知令で「伽藍の建物の雨落ち以外は全て官有地となり、裏山までも全て上地と」なり、「奈良の寺々の中では二万五千石の興福寺、三千二百石の東大寺に次いで多い方であった」寺禄千石は明治七年に全廃。
また、明治五年の太政官布告で、独立本山としての認可をあえなく拒否され真言宗の所管となり、明治十一年には伝来の宝物の大半を皇室に献納して、その見返りに一万円の下賜金をもらうことになります。
さて、「参考の演説」に、平田国学の影響を受けて離山した僧侶の言い分が出ていますが、「坊主になったのは自分の本心ではない、父母・師匠に誘われて父母の勧めで坊主になっただけだ、坊主など国家の罪人であり、早く還俗して父母の誤りを謝罪したい」というのはちょっと凄いですね。
誰に謝罪するのかというと、文脈からして「国家」なんでしょうね。
僧侶としての存在自体が「国家の罪人」なのだから、これは一日も早く離脱しなければならないのは当然ですね。
ま、これが幕末における法隆寺のような名門寺院の実態であって、もちろん興福寺や東大寺にもこのような自己の存在自体を否定する僧侶が次々に出てきたんでしょうね。
そして興福寺の場合、指導的立場にいた高僧たちが寺の動揺を鎮めるどころか、自ら寺の存在自体を全否定し、他から圧力も何もない段階で廃業してしまった訳ですね。
興福寺が崩壊する具体的様相は、泉谷康夫氏の『興福寺』(吉川弘文館、1997)を参照して、次の投稿で書きます。

>筆綾丸さん
法隆寺の仏像ですが、高田良信氏の上掲書によれば、法隆寺から「流出した宝物は、法隆寺自体のものよりも、むしろ各塔中に伝わる寺僧の私有物的なものが多数を占めていたようである。法隆寺自体の宝物は、明治初年の政府による宝物調査を皮切りに、たびたびその調査を行っており、それらの流出は極めて不可能な状況下にあった」(p43)そうです。
そして、それら「法隆寺自体の宝物」の大半は明治11年に皇室に献納されてしまう訳ですが、その後、仏像の盗難がけっこうあったそうで、上掲書には明治14年から明治44年までの8件が列挙されていますね。(p47)

>菅原通済
私も以前少し気になって調べたことがあるのですが、得体の知れない奇妙な人ですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「法相宗の成れの果て」2016/01/16(土) 12:58:30
小太郎さん
「焼払つて金物だけ取つても二百円にならない」とか、「三重塔は自分が三十円で買つて遊び場所に」とか、面白すぎる話ですね。法相宗の成れの果てというか、「遊び場所」というのは斬新なアイデアです。諌めた兄にしても、宗教的な冒瀆という理由ではなく、たんに無駄遣いだからやめておけ、くらいのことだったのでしょうね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E5%8E%9F%E9%80%9A%E6%B8%88
小津の映画に、この人が場違いな感じでときどき出てくるのですが、なかなか大物なんですね。知りませんでした。

https://www.youtube.com/watch?v=F0ikQUQKos4
http://home.u06.itscom.net/mitake/newpage73.html
これは『彼岸花』(1958年)における蒲郡の旅館での旧制中学のクラス会の場面で、菅井と呼ばれているのが菅原通済です。
笠智衆の詩吟は、賊将は誰ぞや高師直、で終わります。会話に、さりげなく呉という言葉があり、何人かは海軍兵学校の出身と思われ、この詩吟は戦死した旧友へのレクイエムにもなっているらしく、高師直にマッカーサーやニミッツでも連想すればいいのかもしれませんね。(笠智衆の背後にある掛軸の絵柄、坪庭にある九重(十三重?)塔、囃子などが気になります。他の場面に出てくる数点の絵画の作者がわかりません)
映画の中では彼岸花など何処にも出てこないのですが、題名は案外、詩吟で詠われた向こうの世界に手向けたものかもしれません。映画の主要なテーマとは無関係ですが。最後は広島に向かう汽車のシーンで終るものの、過剰な意味付けはしない方がいいのでしょうね。

http://www9.nhk.or.jp/kaigai/foyle/
『刑事フォイル』「癒えない傷」(前編)の劇中歌のパロディに、the great Hirohito without Japan という表現があり、字幕は「日本のない天皇」となっていました。このドラマは1941年2月という設定なので、その時点で果たしてそんな痛烈な風刺がありえたろうか、と疑問に思いました。パールハーバー以後ならともかく。1941年2月時点であれば、Hitler without Nazi(Das Dritte Reich )くらいが相応しい。
コメント
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