学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「耶蘇退治の為めならば、我等も助勢に加はらん」(その2)

2016-01-20 | グローバル神道の夢物語

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月20日(水)13時32分57秒

続きです。

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夜に入つて群集は、庄屋の宅を囲み、折々鬨の声を挙げて示威運動を起し、終に瓦や石を投げ込むものあり、乱暴狼藉に及んだ、一方吏員と僧侶の談判は、終に破裂して、法沢等は斯まで歎願しても御聴入れなくば、最早これまでなりと座を立つた、是時に当り吏員五名は恰も袋の中の鼠の如くであつた、
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辻は「吏員五名」としていますが、圭室著では六人になっていますね。
ま、「袋の中の鼠の如」き状況の点では特に違いはありませんが。

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杉山は大浜に急を告げんと欲し、杉浦某を遣すことゝとした、杉浦は、袴の裾を高く括り、襷をあやどり、後鉢巻をし、玄関に現れた処、群集はそれ耶蘇が出た、ぶち殺せと、竹槍を突出すを、杉浦は刀を抜いて、無二無三に囲を衝いて、近傍の天満宮の石橋の下に隠れて、辛うじて難を免れた、民衆は庄屋の屋内に乱入し、杉山は随員と共に刀を抜いて躍り出で、逃れたが、その中一人の随員は、終に竹槍で突殺された、暴徒はその首をあげ、藁包みにして矢作川に流した、
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「それ耶蘇が出た、ぶち殺せ」という具合に、この騒動の場合、「神仏分離」も「廃仏毀釈」も正面からは問題とされず、終始一貫「耶蘇」にこだわっていますね。
辻は竹槍で突き殺された「その中一人の随員」の名前を出していませんが、圭室著には「藤岡薫」とあります。
この人は単に殺されただけでなく、首を切られて「藁包みにして矢作川に流」されてしまったとのことなので、ちょっと「イスラム国」っぽいですね。

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是に於て、三十余名の僧侶は、無数の群集を従へ、大挙大浜に向ふた、菊間藩出張所にては、急を聞いて、少属一人をして、士二人農兵十余人を引率して、出張せしめ、鷲塚の村端に於て、群集に遭うた、藩兵狙撃して、民衆の内負傷漸く多く、終に右往左往に散乱し、藩兵その二十余人を捕へた、三十余名の僧侶も亦逃れて自坊に匿れた、
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圭室著では「大砲二門を引き出したり」とありますが、辻はその点は特に記述していません。

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既にして岡崎、西尾、刈屋等近隣諸藩の援兵続て至り、暴徒の嫌疑者数百人を捕へ、其巨魁蓮泉寺台嶺、専修坊法沢等を始め、悉く岡崎に移され、審判あり、同年十二月に至り罪科を宣せられた、台嶺は斬罪に処せられ、法沢は准流十年、其他三十余名各差あり、俗人刑せらるゝもの九名、中一人絞罪、其他差あり、明治廿二年大赦を行はれ、これ等の罪名は悉く消滅した、
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辻の大浜騒動に関する記述はここまでです。
処罰については圭室著に詳しく、

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死罪斬罪 三河国碧海郡小川村蓮泉寺住職 石川了英養男 石川了円(二九)
死罪絞罪 三河国碧海郡城ヶ入村 農民 榊原喜与七(三七)
准流十年 三河国碧海郡高取村専修坊住職 星川勇精(三八)

この三人が最も重く、そのほか、

懲役三年 僧侶二人
懲役二年半 僧侶一人
懲役二年 僧侶六人
懲役一年半 僧侶一八人 農民二人
懲役一年 農民一人
禁錮十ヶ月 僧侶二人
杖百 農民五人

以上合計四十人が処刑されることになった。榊原喜与七は十二月二十七日、西端藩の絞台において命終し、石川了円は十二月二十九日西尾藩の獄舎において斬刑に処せられた。残りの者たちも悪条件の牢舎で病におかされ、翌年から六年にかけて、順静(三七)・徹観(二九)・了順(三一)・法沢(三八)の四人があいついで没した。
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とあります。
「法沢」は星川勇精の法名ですから、星川勇精は「准流十年」の刑であっても、結局は死んでしまったんですね。
農民で一番重い「死罪絞罪」となった榊原喜与七は、あるいは藤岡薫殺害に関与した程度が最も重い人だったのでしょうか。
ま、結局のところ、大浜騒動の死者は菊間藩側が1名、浄土真宗側が死罪2名、牢屋での病死4名の合計7名ですが、果たして浄土真宗側の6名は「殉教者」なんですかね。
もともと浄土真宗があまり好きではない私の目からは、単なる「人殺し」のような感じがしないでもありません。
少なくともこの浄土真宗の門徒たちは、「耶蘇」ならば殺して当然、という宗教的信念を持っていたことは間違いないですね。

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「耶蘇退治の為めならば、我等も助勢に加はらん」(その1)

2016-01-20 | グローバル神道の夢物語

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月20日(水)10時58分36秒

圭室文雄氏(明治大学名誉教授、1935-)が42歳の頃に書かれた『神仏分離』(教育社歴史新書、1977)は神仏分離・廃仏毀釈の全体像をコンパクトにまとめて分かりやすく解説した良書なのですが、「民衆」の捉え方に生ぬるいところがあって、ちょっと物足りないですね。
もう少しリアルな「民衆」像に近づくため、内容的にはかなり重複しますが、『明治維新神仏分離史料』上巻(東方書店、1926)の辻善之助「神仏分離の概観」から大浜騒動(辻の表現によれば「三河大浜の騒擾」)の部分を紹介してみます。(p58以下)

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六、廃仏反抗と地方の暴動
 一、明治四年三河大浜の騒擾
 ニ、五年信越の間における土寇蜂起
 三、六年越前今立郡坂井郡に於ける暴動

 明治四年三河大浜の騒擾については、夙く明治廿三年に平松理英氏の廻瀾始末といふ四六版凡二百頁許りの書が著されてある、この書の内容については、多少芝居じみた書き方の所もあり、且つその中心人物を回護せんとした為めに、筆を枉げたのではないかと思はるゝ嫌もないではない、その後、明治四十四年十月に、田中長嶺氏の明治辛未殉教絵史が出版せられた、これには廻瀾始末に見えぬ事も多く載せられ頗る詳かなものである、また近頃、滋賀県堅田の羽根田文明氏が編せられた仏教遭難史論には、稍異聞もある、これは同氏がその地へ出張して、古老について聞き、親しく其実地に臨んで調べたものださうである、こゝにこの一件の経過の大略を一言しやう、
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『廻瀾始末』『明治辛未殉教絵史』・『仏教遭難史論』は未読ですが、辻が紹介する内容と「殉教」「遭難」というタイトルから、いずれも浄土真宗側の立場から事件を描いたものなのでしょうね。
この後、辻は一切改行せず、句点も打たずに4ページほど文章を続けるのですが、さすがに読みづらいので適宜分割して紹介します。

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駿河沼津城主水野出羽守の領地が、三河碧海幡豆両郡にあつて、碧海郡大浜に陣屋を設けて支配して居た、維新の際菊間藩大浜出張所といひ、本藩より少参事服部純が来任して、新政を施行すと称し、称名寺藤井説冏、光輪寺高木賢立二名を教諭使に任命し、各村を巡回して、神前念仏を禁じ、神を拝する作法として、祝詞を読み習はせた、三河の国は数百年来殊に真宗の勢力最盛なる地であるから、この事を聞いて、信徒等は頗る喜ばなかつた、或は曰く、かの少参事服部某は、耶蘇であらう、彼の教諭使なるものは、其れと一しよになつて、仏教徒を耶蘇に引き入れやうとするものであらうと、其噂でもちきつた、
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ということで、浄土真宗が勢力を誇る大浜に来た服部純は最初から「耶蘇であらう」と疑われ、「教諭使」もその表現がどこかキリスト教的な印象を与えたのか、「仏教徒を耶蘇に引き入れやうとするものであらうと」疑われてしまうんですね。

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明治四年二月十五日、服部少参事は、大浜部内一般各宗寺院の僧徒を呼出して、寺院の併合及僧尼の制限について、下問書を出し、強制的に其請書を差出しめた、真宗僧侶は、本山へ伺の上にしたいと日延を願出たが、許されなかつた、僧侶は夜を日にかけて奔走し、三月二日、暮戸会所に集合して議を凝した、蓮泉寺台嶺専修坊法沢の二人が、其盟首となつた、
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「蓮泉寺台嶺」は圭室著には裁判判決の部分に「三河国碧海郡小川村蓮泉寺住職 石川了英養男 石川了円(二九)」と出て来る人物で、「死刑斬罪」となります。
また、「専修坊法沢」は圭室著では「三河国碧海郡高取村専修坊住職 星川勇精(三八)」で、「准流十年」です。

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三月八日に、再暮戸会所に集合して、最後の所決をしやうとした、当日参集の僧侶は百有余名に及んだ、衆議は、大浜西方寺、棚尾光輪寺が擅に合寺の請書を差出したのを難じた、台嶺は先ず大浜に赴き、両寺に問責の上、当局に論議に及ばうといふ、衆僧之に賛成するもの多く、直に連判帳を作りて、之に署名捺印しやうとした、時に如意寺源到は今騒ぎ立るは却て不利である、本山を経て堂々と出るが得策であらう、今大挙大浜に赴けば、真宗僧侶の乱一揆を起すと見られては、却て為めにならぬと、かたく之を止めた、之が為めに連判する者が減少した、台嶺は之にも屈せず、血判志士三十余人と共に、翌暁七つ時(午前四時)出発して、大浜に向うた、途中信者が三人五人と加はり、耶蘇退治の為めならば、我等も助勢に加はらんと漸く増して数十人となつた、
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ということで、集会に集まった僧侶の多数派(7割程度?)は「真宗僧侶の乱一揆」と思われるような行動に出るのは駄目と考えたけれども、台嶺(石川了円)はそれを押し切って「血判志士三十余人」とともに大浜に向かい、その途中、「耶蘇退治の為めならば、我等も助勢に加はらん」と考えた信者が加わって総勢「数十人」となった訳ですね。

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夜があけて三月九日、群集は米津村龍讃寺に繰込み、休息した、台嶺は衆に対し、決して暴徒に類する振舞のなきやうにと注意した、同日午後には、夜の用意にと、提灯を高張に造る為めに、近傍の藪に入つて、竹を切つた所、中には、この竹を竹槍に凝して、振つて居るものがあつたのを群集が見てわれもわれもと之に習うて、竹槍を作り終にその藪を切り尽くしたといふ、其日没に、鷲塚村に至り蓮成寺外二寺に分屯した、
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台嶺(石川了円)が「決して暴徒に類する振舞のなきやうにと注意した」のが仮に事実としても、その後、「藪を切り尽くし」たほどの数の竹槍を持参することは容認していた訳ですから、裁判では注意云々はあまり重視されなかったのでしょうね。

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この日、大浜出張所からは、杉山少属をして、四五の随員を従へて鷲塚村の庄屋の宅へ派出せしめた、専修坊法沢は、台嶺及び七八名の僧侶と之に会して、願意を陳述したが、杉山等はたゞ成らぬ出来ぬと答ふるのみであつた、その中に、僧侶の数は次第に増して、四十名近くとなり、加ふるに鷲塚には、信徒の集団があつて、声援をして居る、その日日没に至り、群集の気勢益々張り、談判はまだか、押かけてぶち殺せなどゝ叫び、終に蓮成寺の鐘をつき始めた、住僧が之を制すれども、聴かず、終にその撞木の縄を切り放つた処、今度は※打槌を以て乱打し、騒擾は極点に達した、
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ということで、菊間藩の役人六人は庄屋宅で「談判はまだか、押かけてぶち殺せ」などと叫ぶ群衆に取り囲まれてしまうことになります。
ここでいったん切ります。

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廃仏毀釈に殉教者はいるのか?(その2)

2016-01-20 | グローバル神道の夢物語

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月19日(火)15時00分35秒

1月14日の投稿で書いた廃仏毀釈の「殉教者」の問題ですが、廃仏毀釈に関係する死者は間違いなく出ていて、有名なのは「三河国大浜騒動」です。
ただ、この事件での死者を「殉教者」といえるかは相当微妙なんですね。
圭室文雄氏『神仏分離』(教育社歴史新書、1977)の説明が分かりやすいので、「第三章 神仏分離の実態」から少し引用してみます。(p199以下)

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三河国大浜騒動

 次は明治四年三月、三河国(愛知県)碧海郡大浜を中心とした浄土真宗信徒の廃仏毀釈反対運動である。一万人が蜂起したといわれているが、数は定かではない。
 明治三年九月菊間藩大浜出張所に少参事服部純が派遣され、彼の平田学的発想にもとづいて廃仏毀釈政策が断行された。
 明治四年二月十五日五ツ時菊間藩大浜出張所に出頭すべし、必ず住職本人が出頭のこと。
という命が下った。当日領内の寺院の住職が集まると、服部少参事は寺院合併のことについて十二か条の問題をあげ、僧侶たちの意向をきいている。【中略】
しかし僧侶側としてもすぐには答えられず、そのうち何人かの僧侶から、
 合寺・廃寺があたかもきまったような話であるがそれはおかしい。
 十二か条の下問はすでに合寺・廃寺を前提としているのではないのか。
という質問がなされた。しかし本来何が議論されるのか全く知らずに集まった僧侶たちにとって、この場で早計に結論を出すことは無理であった。そのため本山との打合わせを理由に日延を願い出たが許されず、三月二十日をもって廃寺・合寺政策を行うむね宣言された。
 これに対して反対する浄土真宗寺院は三月八日に暮戸の会所に集まり、寺院廃合問題について相談する会をひらいた。ところが勢のおもむくところは、菊間藩の処置に賛同の意を示した西方寺・光輪寺を詰問する形になり、さらには菊間藩の廃仏政策に抗議書を渡す集会へと発展していった。その抗議書の内容はどのようなものであったかというと、
 第一、私共の宗派では神前での呪文や日拝などの事は、きびしくいましめて
おりますので藩の命令とはいえお断りします。
 第二、寺院廃合のことは見合わせて下さるようお願い申し上げます。
 第三、宗門人別帳の取り扱いはいままでどおり寺にさせてほしいと思います。
と、三か条からなっていた。
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抗議書第一条の「日拝」とは朝日を拝むことですね。
浄土真宗は神祇不拝ですからもともと神仏習合とは全く無関係で、従って神仏分離とも関係ないはずです。
しかし、仏教嫌いの平田学徒が機に乗じて強引に浄土真宗を含む寺院一般の統廃合を狙ったので大騒動が起きる訳ですね。
さて、圭室文雄氏の説明は若干不正確で、この時点ではまだ菊間藩側は具体的な「廃仏毀釈政策」を「断行」しておらず、また暴力的な行動も一切ありません。
ところが次のような展開になります。

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 この抗議書をもった僧侶約三十人はその足で鷲塚村庄屋宅に押しかけ、ここで藩側の役人六人に面会、抗議書をつきつけた。しかし役人側は強硬で「すべて布達のとおり」としてゆずらず、僧侶たちの抗議を突っぱねた。長時間にわたって激論がかわされたようであった。外で交渉の様子を待ちうけていた僧侶や信徒たちも、討論がながびき九日の夜に入ってもいつはてるとも知れぬ状況になり、かなりあせっていた。僧侶たち三〇人が「御聞い入れなければもはやこれまで」と席を蹴ったのを合図に、外で待ちうけていた者たちがとびこんできた。役人たちは夜陰にまぎれて脱出したが、その内の一人、おくれた藤岡薫が竹槍で惨殺されてしまうという事態が発生した。この時藤岡が倒れると「ヤソが倒れた!」といってつぎつぎに竹槍で突いたという。興奮した人々はさらにヤソの本拠地である大浜陣屋を襲おうと檄をとばす者もいたが、大浜陣屋のほうでも大砲二門を引出したり、隣接の西尾藩・岡崎藩・重原藩・刈谷藩・西端藩などにも応援をたのんでかけつけてもらったりした。このため決起したものたちは散りぢりになり、結局騒ぎは鎮圧された。
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ということで、結局、同年十二月の裁判で死刑2名(斬罪1名、絞罪1名)、准流十年1名を含む合計40人が処罰されて、さしもの大騒動も終息することになります。
そして、「結果からみれば、菊間藩は最初の計画をすべて引き込めてしまい、東本願寺側は全面勝利を得ることになった」(p205)訳です。
以上の経緯を見ると、浄土真宗はやっぱり他宗派とひと味違いますね。
国家から命令されれば唯々諾々と従う宗派が大半の中で、中には興福寺のように国家からの何の強制もない段階で率先して僧侶が全員還俗し、後になってちょっと後悔するようなみっともない大寺院もある中で、浄土真宗の宗教的情熱の強さは燦然と光ります。
ま、私は個人的にはあまり浄土真宗が好きではないのですが、廃仏毀釈の圧力に敢然と抗して国家の政策を改めさせた実績は誰も否定できないでしょうね。
それにしても「ヤソ」が倒れれば竹槍で何度も突き刺して殺し、「ヤソの本拠地」と看做した大浜陣屋を襲おうとする浄土真宗門徒の宗教的情熱には、なかなか背筋にゾゾッと来るものがあります。
この「ヤソ」に対する感覚は現代人には理解しがたいものがありますが、この後、浄土真宗はキリスト教への防壁となることに自己の存在意義を見出して、それを明治政府に強烈にアピールして行く訳ですね。

「廃仏毀釈に殉教者はいるのか?」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/07a09e60902e246fbb8816c149dcc3c2

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