学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

悌輔騒動

2016-01-24 | グローバル神道の夢物語
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月24日(日)09時56分56秒

悌輔騒動については、とりあえず辻善之助の「神仏分離の概観」から関係部分を引用しておきます。
この辻の文章には参考文献が全く挙げられていませんが、実は『明治維新神仏分離史料』下巻に掲載されている「初瀬川健増氏報」の「信越地方土寇蜂起」〔<自文久二年八月 至明治五年>年次私記〕(p1011以下)と全く同文です。
事情は分かりませんが、辻にしてはちょっと奇妙な書き方ですね。

------
明治五年信越の間土寇蜂起

明治五年四月、信越の間に土寇が蜂起した、是より先、旧会津藩渡部悌輔、近藤慶治、吉田藤太郎、村上藤治、及旧庄内藩吉川大介、米沢藩竹田何某等、奥羽鎮定の後、信越の間に流寓して居つた、会々信濃川を北海へ疎鑿の土工の工事起り、官より地方民に課して、湟渠を鑿つて居た、又訛言あり、官廃仏を決すと、土民是を信用し、相屯集し、課役を停め、仏教を興し、或は新潟港を鎖し、租税法を復する等を県庁に請うた、官吏は諭して潰散させんとした、土民等肯ぜず、是に於て、渡部以下四人機に乗じ、密に月岡村安正寺の僧月岡帯刀と謀つて、其党を煽動した、土民大に勢を得、遂に渡部以下月岡を推して主将とし、渡部等徳川氏回復の五文字の籏章を樹て、共に一隅に拠らんとした、其徒殆ど二万人に及んだ、是月二日、遂に大河津の川口に向ひ、沿道の民家を火き、進んで新潟港に迫らうとした、時に松平参事南部権参事等賊中に入り、説諭したけれども、賊徒益猖獗を極め、官吏を傷け、大道盈伊之に死し、県庁、鎮台兵四小隊を請ひ平島村に派し、急に賊を砲撃し、賊辟易四散し、事平いだ、後渡部月岡以下数人を斬つた。
-------

新潟県新発田市に月岡温泉というそれなりに高級な温泉街がありますが、「月岡村安正寺」の月岡は月岡温泉とは全然関係なくて、現在の三条市ですね。
地図を見たら、信濃川に架かる三条大橋の近くに安正寺という寺があります。
たまたま私は悌輔騒動の関係地域に土地カンがあって、新潟県に住んでいた頃、信濃川や大河津分水路沿いの道を何度もドライブしました。
悌輔騒動から52年後の1924年に完成した大河津分水路は、春になると雪解け水が怒涛の勢いで川幅一杯に流れ下り、じっと水面を眺めていると怖いようでしたね。
ま、そんな個人的感懐はどうでもよいことですが、「神仏分離の概観」を見る限り、会津戦争の敗北者が煽動した「徳川氏回復」を主たるスローガンとする暴動において、雑多な要求の中に仏教維持もある程度の話のようで、これが「護法一揆」の代表例というのもちょっと変な感じがします。

検索したところ、「信濃川大河津資料館」サイト内の「大河津分水の歴史」に「1872(明治5)年大河津分水工事反対などを掲げた渡辺悌輔騒動が起きる」とありますね。

http://www.hrr.mlit.go.jp/shinano/ohkouzu/toha/toha-history.htm
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする