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松岡正剛氏の悲憤慷慨(その1)

2016-01-09 | グローバル神道の夢物語

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月 9日(土)10時26分41秒

森鷗外が生まれた津和野が神仏分離に関して独特な意味を持つ土地だということはそれなりに有名だと思いますが、「津和野」&「神仏分離」で検索してみたら『松岡正剛の千夜千冊』が出てきました。
松岡氏は佐伯恵達氏の『廃仏毀釈百年』(鉱脈社、1988)の書評の中で、津和野藩について次のように述べます。

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 こうして明治元年9月18日(明治に改元され、一世一元が定められたのは9月8日のこと)、「先日、神仏を混淆しないように布告を出した」という念押しが重ねて通達された。
 ともかく矢継ぎばやの神仏分離令であり、電光石火の神仏混淆禁止令だった。お上のお達しだから、反論の余地はない。しかも、まだ版籍奉還も廃藩置県もおこなわれていない時期なので(版籍奉還は明治2年9月、廃藩置県は明治4年4月)、この新政府の命令を寝耳に水で受け取るのは藩主か、各地の神社仏閣のリーダーたちだった。一方ではたちまちさまざまな藩内で混乱がおこり、他方ではこうした下命を待ち望んでいたようなところでは、神仏分離や廃仏毀釈に着手する乱暴な動きがさっそくおこった。この日を待ちわびていた藩もあった。
 津和野藩には養老館という藩校があり、嘉永期から国学が重んじられていた。とくに幕末には大国隆正(後述)や福羽美静(後述)といった平田国学のごりごりの直流の門下生が教授となって、新政府の王政復古イデオロギーの準備と確立に加担していた。そうした空気ができあがっていたなか、藩主の亀井茲監(後出)は「封内衰類ノ仏寺ヲ廃合シ、釈侶ノ還俗」を敢行し、総霊社を設立して葬祭を神社主導でとりしきることを決めた。これは全国にさきがけた祖霊社のモデルとなった。

http://1000ya.isis.ne.jp/1185.html

私は佐伯恵達氏の『廃仏毀釈百年』は未読ですが、松岡正剛氏が参考文献として列挙する本はある程度読んでいて、神仏分離・廃仏毀釈の概要は一応把握しているつもりです。
さて、

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明治維新における「神仏分離」と「廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく)の断行は、取り返しのつかないほどの失敗だった。いや、失敗というよりも「大きな過ち」といったほうがいいだろう。日本を読みまちがえたとしか思えない。「日本という方法」をまちがえたミスリードだった。
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と考える松岡氏は、まるで西欧中世の異端審問官並みの執拗さで神仏分離・廃仏毀釈を弾劾し、その熱意は徐々にヒートアップして、こんなに興奮していたらそのうち泡を吹いて倒れるのでは、と心配になるほどです。
ウィキペディアによれば松岡氏は1944年生まれだそうですが、1922年に神職の家に生まれた佐伯彰一氏が神仏習合の「ごった煮」状態について強烈な「気恥しさ」を感じていたのと対照的に、松岡氏は、

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日本をいちがいに千年の国とか二千年の歴史とかとはよべないが、その流れの大半にはあきらかに「神仏習合」ないしは「神仏並存」という特徴があらわれてきた。神と仏は分かちがたく、寺院に神社が寄り添い、神社に仏像がおかれることもしょっちゅうだった。そもそも9世紀には“神宮寺”がたくさんできていた。
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という具合に、むしろ神仏習合こそが日本の伝統であったと考え、「神仏習合だったこの国に、本来の神仏和解をとりもどすには、どうすればいいのか」という問題意識を基軸に据えておられるようですね。
ま、人それぞれだなとは思いますが、佐伯彰一氏の述懐が生活実感に満ちているのに対し、松岡氏の発想は特定の傾向を持ついくつかの書物から得た、ずいぶん頭でっかちなもののような印象を受けます。
松岡氏の見解には若干の疑問があって、例えば松岡氏は「お上のお達しだから、反論の余地はない」と書いていますが、松岡氏が廃仏毀釈が激しかったとして具体的に列挙する地域を見ると、津和野藩・隠岐・佐渡、松本・土佐・平戸・延岡藩といった具合に地域的な偏りが大きいですね。
逆に言うと、「お上のお達し」にもかかわらず、適当に受け流した地方もけっこう多いはずです。
少し長くなったので、ここでいったん切ります。

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