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首級への執着

2016-01-23 | グローバル神道の夢物語

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月23日(土)13時54分46秒

服部少参事の和歌云々の話とは時間が前後しますが、暴徒が逃げ遅れた藤岡薫を竹槍で殺害して首を切る場面と、その首を川に流す場面は興味深いので、これも引用しておきます。(p366以下)

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藤岡薫は殿であつたので、暴徒が群つて竹槍をさし付て、逐ふて来る、暴徒の一人が、薫の背に槍先を付て居る、之を一人が後から推倒した、倒るゝはづみに藤岡の衣服を貫いたので、藤岡も倶に倒れた、此ありさまを見た多数の暴徒は、それ耶蘇が倒れたと、群つて来て、づぶづぶ竹槍をつきさした、目に余る多数の暴徒だから、藤岡も力及ばず、悲惨の最期を遂げた、暴徒は代る代る来て、罵りながら藤岡の死体を竹槍で突きこかしたり、蹴つたりして、後ちには田の中へころがし落した(三浦氏の談による、)
又、藤岡薫は如何にせしか、田の畦の細道を往き、過つて転倒せしといふ説もある、

暴徒藩吏の首級を挙ぐ 附、首級を矢作川に投ず

多数の中に、耶蘇の首を取れといふものがある、気早の一人は、魚切包丁を持ち来て、切りはじめたが、よく切れぬといふので、一人が水を灌けよと、田の水を手に掬ふてかけて、漸く切り落とした、(専修坊一乗の実見談であると伝へてある、)側らの水溜りで血潮と泥とを洗ひ落して、意気揚々と首級を提げ、左右からは堤燈を翳して、蓮成寺へ持込んで来る、多数は口々に、夫れ耶蘇の生首だ、見て置ふと、先を争ふて見物して居る、蓮成寺の玄関に来て、耶蘇の首を打ちとつたと高声に呼ばはつた、二三の僧侶が立出で、呆れて見て居たが、是までやるではなかつたといふて居つた、(三浦氏の談による、)このまゝにしては置かれまいといふので、藁包にして矢作川へ流さした、

柳某氏の談によれば、此流したものは、小川安政の小兵衛といふ者であつたが、小兵衛は自身が捕縛になれば、指図した僧侶の名前を白状せねばならぬと、逃亡して、九ヶ年間行方不明であつたと、

暴徒大浜陣屋を襲はんとす

僧侶は議すらく、一人にても殺害した上は、我々の身命も最早之までゝある、しかじ大挙して大浜を襲はんにはと、直ちに議は一決したが、先頭する者がない、暫く喧々して居つたが、多勢の中から、一人年齢四十許の男が、抽(ぬきで)て、我れが先頭するとて、高張を持ち出した、三十余名の僧侶は、之に従うた、無数の蓑笠竹槍が入乱れて、騒然として繰り出した、稀には銃を持つたのもあつて凄いありさまであつた、(三浦氏の談による、)
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呉座勇一氏の『一揆の原理』(洋泉社、2012)によれば、一般人の「『カムイ伝』(白土三平著)的なイメージ」とは異なり、「竹槍で闘う一揆が登場するのは、実は明治になってからのこと」(p21)で、しかも「こうした竹槍一揆は明治十年代には沈静化し、民衆の反政府運動は自由民権運動へと移行する。よって、竹槍一揆の歴史はわずか十年ちょっとに過ぎない」(p22)そうなので、大浜騒動は時期的にはまさにこの竹槍一揆の時代と重なります。
そして、これも意外なことに、江戸時代の百姓一揆の場合、百姓のシンボルである鎌や鋤は持っても人を殺す武器は持たず、村には鉄砲もあるのに鉄砲を武器として使わなかったそうですが、明治の新政府反対一揆は凶暴で「新政府側の役人が殺されている例が少なくない」(p33)そうです。
ま、ここまでは私も呉座氏の著書で知っていたのですが、凶暴な明治新政府反対一揆の一例とはいえ、大浜騒動ほど残虐に役人を殺した例は他にあるんですかね。
竹槍での殺害は騒乱状態ということでまだ理解できますが、その後、「魚切包丁」で首を切り、寺に持って行って見世物にする経緯は、周りにいる人を含め、かなり冷静に、というか面白半分にやっている感じがします。
何となく「イスラム国」のジハーディ・ジョンを連想させる光景ですね。

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「殉教者」は酔っ払いの集団

2016-01-23 | グローバル神道の夢物語

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月23日(土)13時22分11秒

菊間藩少参事・服部純の人柄は私にとってもかなり意外だったので、『明治辛未殉教絵史』から関係する部分を少し引用しておきます。(中巻、p345以下)

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明治三年十二月、菊間藩大浜出張所(駿州沼津の城主水野出羽守領三河国碧海幡豆両郡中一万石余の管轄庁、元大浜陣屋といひししなり、)は服部少参事が赴任以来、新政を施行し、敬老会を開き、管下の高齢七十歳以上の者を旧陣屋に招待して饗応し、民心を懐け、又藩士及び領民子弟の教育をなすに、新民序塾といふ学校を立て、村童教育短歌といふ勤皇主義の字句三百三十四を編纂せしものを幼童に教へ、年齢に応じて漢籍を授け、教師及び世話掛等周到の方法である、又領民の階級を新製し、或は頼母子講に類したものを興して、公衆貯蓄ともいふべき事を計画して、着々励行し、一方には庄屋或は富豪を挙げ、帯刀を許し、役名を附し、各々任務に就かしめたり、当時の役名は左の人々でありき、(石川三碧翁の記録による、)
【中略】
服部少参事は属吏に対して、敏腕を揮ふので、各々よく服従して勉励し、村民も亦長官が頗る平民的であるのを喜んで、敢て不平もなかつたが、茲に断髪令公布のことで、稍々民心が抗した、又教諭使が巡りて村民を集め、神前のりと文を奨励し、又一般寺院の廃合問題が、民情に反して之が導火となつて、終に火のてはひろがりくる次第である、

或服部少参事に直接した人の説に、服部は決して悪人ではない、又破仏家といふでもない、尊皇主義の至りて早分りの性質であつたが、当時のやり口が急激なので、人民の度に合はず、あたら手腕を挫折(くぢき)たるのみならず、汚名を鷲塚に残したのは、可惜事でありたりと、
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他方、三月八日に「暮戸の会所」に集まった僧侶たちは酒を飲み、武器も揃えていたそうで、どうにも品位に問題のある人達だったようですね。(p253)

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暮戸の会合

三月八日、蓮泉寺台嶺は、暮戸の会所に赴いた、会所の座敷にて、二三の声で、来たのは誰れかと尋ねた、台嶺だと答へて、中に入りて見ると、万国寺依白、専超寺猛了、西方寺(里村)景晃、専修坊弟翔雲等が、酒杯を汲んで居つて、傍らに手槍が一筋立てかけて、依白の風体が白の筒袖襦袢を着て、白布でうしろ鉢巻をして、一見粗暴の有様で、剰へ其の言ふ処が、「平素の学問は勿論、其他渾てが諸士に遠く及ばぬが、護法の赤心に至りては他に一歩も譲らぬ」と、腕を撫して居る、台嶺は戒しめた、護法の随喜は悦ぶべきだが、粗暴の行は決して悦ぶ処でないと、二階の別間に居らしめた、(台嶺口書による、)
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この後も、騒動の参加者が酒を飲む場面が出てきます。(p363)

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暴徒蓮成寺の鐘を乱打す

九日も日没になつた、多数の集合は、朝来の騒擾で空腹になつた、食を求めて居る、時はよし酒樽を舁ぎ込んだものがある、忽ち樽の鏡をはねて、我れ勝ちに飲みかけた、一方では握り飯を運んで来た、腹はふくれる、酔はまはる、談判はまだぐずぐずして居るか、推しかけて潰して仕舞へと、騒ぎたつた、ソレといふので、鐘を撞き初めた、蓮成寺は驚いた、台嶺初め談判に苦辛して居る最中、障礙となつては大変だと、役僧をやつて、しゆもくの縄を切らしめた、他に屯ろして居た連中は、先きに一大事には早鐘を撞くと触れてあつたから、スハ事だと騒ぎ立てゝ、仕舞には麦打槌を持つて来て乱打した、騒擾は殆ど極に達した、(三浦氏の談による、)
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ということで、談判の場である庄屋屋敷を取り囲んでいた人々は、酔っ払いの集団でもあった訳ですね。
どうも「殉教者」と呼ぶにはいささか躊躇いを感ぜざるをえない品のない人が多いようです。
さて、騒動も終盤になって、服部少参事に関する妙な記述があります。
大浜陣屋に押しかけようと気勢を挙げる暴徒に対し、大浜陣屋側が反撃に出ようとする場面です。

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暴徒は益々騒擾して、鷲塚を根拠として居り、鐘を撞く、銃声を放つ、如何に思ふも、僅か十数名の少人数では、無謀に飛び込む訳にもゆかぬので、或は畑畦或は土手江溝によりて、追々進む中、鷲塚の村端れに、高張をさし上げて多数の襲来を認めた、勝呂は側らの地蔵堂に依ることを命令した(杉浦氏の談による、)

服部少参事が、当夜一首の和歌を詠じたといふ説がある、
 花散らば花なき里に花見せん雨ふらばふれ風ふかば吹け
人評して、勇はあるが義がないといひしと、(大浜の某氏の書記による、)
又服部少参事は、当夜屠腹するといひしを、皆々推し止めたといふ、(名倉某氏の談による、)
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屠腹(切腹)はまだ分かりますが、ここで和歌を詠んだのが本当だとしたら、何じゃそれ感が漂います。

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『廻瀾始末』と『明治辛未殉教絵史』

2016-01-23 | グローバル神道の夢物語
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月23日(土)12時04分43秒

辻善之助が「神仏分離の概観」で大浜騒動の参考資料として挙げている『廻瀾始末』『明治辛未殉教絵史』・『仏教遭難史論』のうち、前二者は『明治維新神仏分離史料』の中巻に掲載されているので(p227以下)、読んでみました。
ちなみに『明治維新神仏分離史料』は全5巻、合計5700ページもあって、私も全部読むどころか特別に興味を持った寺社をパラパラ眺めていただけです。
また、同書を所蔵している地元の県立図書館が耐震補強工事中で利用できないという事情があったので、ここ暫くはずいぶん前にコピーした辻の「神仏分離の概観」で間に合わせていたのですが、さすがに今の流れでは読まない訳にはいきません。
さて、その感想ですが、平松理英著『廻瀾始末』(明治23年)は全く駄目な本で、辻が言うように「多少芝居じみた書き方の所もあり、且つその中心人物を回護せんとした為めに、筆を枉げたのではないかと思はるゝ嫌もないではない」どころか、最初から最後まで芝居じみていて、「筆を枉げたのではないかと」思われない箇所がありません。
他方、田中長嶺著『明治辛未殉教絵史』(明治44年)は筆致が冷静かつ客観的で、とても参考になります。

>筆綾丸さん
>「菊間藩の服部純少参事」が無能だった、という印象
『廻瀾始末』では極悪非道の人物とされているのですが、『明治辛未殉教絵史』では意外なことにけっこう好人物として描かれていますね。
その部分を紹介すると長くなるので、次の投稿で書きます。
なお、菊間藩からの処分もないと思います。

>「五年信越の間における土寇蜂起」
これは首謀者のひとりに浄土真宗の僧侶がいるだけで、浄土真宗との関係はあまり深くはないですね。
ウィキペディアでは中心人物の元会津藩士・渡辺悌輔の名を取って「悌輔騒動」として立項されています。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「菊間藩少参事」2016/01/22(金) 14:08:17
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E9%96%93%E8%97%A9
正念寺のサイトに「明治四年二月、三河における所領およそ一万石を統轄するため、大浜に陣屋を構えた菊間藩(旧沼津藩)は」とありますが、ウィキによれば、菊間藩の三河国の領地は「碧海郡のうち16村、幡豆郡のうち5村」なので、一村当り500石前後となり、ごく平均的な村々のようですね。年貢米を差し引くと、21村合わせて何人位の農民が生存できたのか、つまり、騒動の背景というか、分母の規模を知りたいですね。最終的に土寇の数が数千人になるものかどうか。

ご引用の文を読むと、ひとえに「菊間藩の服部純少参事」が無能だった、という印象を受けますが、この人は藩から処罰されなかったのですか。

「本藩より少参事服部純が来任して、・・・各村を巡回して、神前念仏を禁じ、神を拝する作法として、祝詞を読み習はせ」は神道のことでしょうが、それがなぜ、「かの少参事服部某は、耶蘇であらう、・・・仏教徒を耶蘇に引き入れやうとするものであらう」と、耶蘇になってしまうのか、よくわからない話ですね。

辻善之助のいう「明治四年三河大浜の騒擾」と「六年越前今立郡坂井郡に於ける暴動」の背景には、ともに浄土真宗の強い影響があるのでしょうが、「五年信越の間における土寇蜂起」の背景も同じでしょうか。
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