投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月11日(月)08時55分10秒
前回投稿で私が「淡々」という表現を使ったのを意外に思った人も多いでしょうが、これは阪本是丸氏(国学院大学神道文化学部教授)の論文から借用したものです。
もちろん阪本氏は「淡々」一色だったと言われている訳ではなくて、「神仏分離研究の課題と展望」の最後は、
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この淡々とした「神仏分離」と、そうではない「過激」どころか「過酷」としかいいようのない「神仏分離」が、何故同時代に並存したのか、この実態解明こそが今日における「神仏分離研究」の最大の課題だと思慮するのだが…。
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となっています。
従来の神仏分離研究に決定的な影響を与えたのは辻善之助・村上専精・鷲尾順敬編の『明治維新神仏分離史料』(東方書院、1926-29)ですが、この史料集は神仏分離に悲憤慷慨した人たちが資金を出して、神仏分離に悲憤慷慨した人たちが編集したものです。
そして、『明治維新神仏分離史料』を中心に研究した研究者も神仏分離に悲憤慷慨するようになり、更にそうした研究者の著書・論文を読んだ読者も神仏分離に悲憤慷慨し、松岡正剛氏と同じような義憤にかられてブログに書いたりツイートしたりする、という見事に一貫した悲憤慷慨の連鎖が生まれる訳ですね。
しかし、神仏分離の全体像は『明治維新神仏分離史料』をいったん離れて、そこには描かれなかった神仏分離の諸側面をきちんと分析した上でないと掴めない、というのが現在の学説の到達点で、このような方向に学説を主導したのが阪本是丸氏ではなかろうか、というのが私の素人なりの見立てです。
>筆綾丸さん
>『東大駒場寮物語』
書店で手に取ってはみたのですが、古臭い大正教養主義の世界みたいなのがけっこう好きな私にとっては、若干予想と違う記述が多いように感じました。
ま、今は読まなければならない本が山のようにあるので、少し落ち着いたら読んでみます。
1955年生まれの野田秀樹も駒場寮にいたことがあるそうですが、私が寮生だったころ、『劇団夢の遊眠社』はメジャーになりかけていて、寮食堂で公演があるときは普段は全く見かけないお洒落な女子大生が大勢集まっていましたね。
当時、私は演劇に興味がなかったので、『劇団夢の遊眠社』も如月小春の『劇団綺畸』も全く観ておらず、今から思えばもったいないことをしました。
ただ、劇団の人達は寮の中庭で小汚い格好をして「アアー、エエー、ウウー」とか発声練習をしていたりして、寮生にとってはかなり迷惑な存在でしたね。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「捨て駒」2016/01/10(日) 15:44:31
小太郎さん
http://www.kadokawa.co.jp/product/321503000158/
松本博文氏の『ルポ 電王戦人間vs.コンピュータの真実』は良い本なので、『東大駒場寮物語』もきっと面白いでしょうね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8C%E5%85%A8%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%88
昨日、『Pawn Sacrifice』を観ましたが、期待外れでした。「完全なるチェックメイト」という邦訳も悪すぎます。
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本作の原題「Pawn Sacrifice」は「ヘンリー・キッシンジャーとリチャード・ニクソンにとって、ボビー・フィッシャーはポーンのような手駒の一つに過ぎなかった。レオニード・ブレジネフとKGBにとってのボリス・スパスキーも、同じような存在だった。つまり、2つの大国にとって、チェスプレイヤーは相手に取られてもいいポーンのような存在でしかなかった。」という意味が込められている。
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というウィキの説明はまさにその通りですが、フィッシャーの狂気や奇矯を強調しすぎたため、天才もただの捨て駒にすぎないという政治の非情さがぼやけてしまった映画でした。
佐伯彰一氏『近代日本の自伝』を読み始めました。
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