学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

『廻瀾始末』と『明治辛未殉教絵史』

2016-01-23 | グローバル神道の夢物語
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月23日(土)12時04分43秒

辻善之助が「神仏分離の概観」で大浜騒動の参考資料として挙げている『廻瀾始末』『明治辛未殉教絵史』・『仏教遭難史論』のうち、前二者は『明治維新神仏分離史料』の中巻に掲載されているので(p227以下)、読んでみました。
ちなみに『明治維新神仏分離史料』は全5巻、合計5700ページもあって、私も全部読むどころか特別に興味を持った寺社をパラパラ眺めていただけです。
また、同書を所蔵している地元の県立図書館が耐震補強工事中で利用できないという事情があったので、ここ暫くはずいぶん前にコピーした辻の「神仏分離の概観」で間に合わせていたのですが、さすがに今の流れでは読まない訳にはいきません。
さて、その感想ですが、平松理英著『廻瀾始末』(明治23年)は全く駄目な本で、辻が言うように「多少芝居じみた書き方の所もあり、且つその中心人物を回護せんとした為めに、筆を枉げたのではないかと思はるゝ嫌もないではない」どころか、最初から最後まで芝居じみていて、「筆を枉げたのではないかと」思われない箇所がありません。
他方、田中長嶺著『明治辛未殉教絵史』(明治44年)は筆致が冷静かつ客観的で、とても参考になります。

>筆綾丸さん
>「菊間藩の服部純少参事」が無能だった、という印象
『廻瀾始末』では極悪非道の人物とされているのですが、『明治辛未殉教絵史』では意外なことにけっこう好人物として描かれていますね。
その部分を紹介すると長くなるので、次の投稿で書きます。
なお、菊間藩からの処分もないと思います。

>「五年信越の間における土寇蜂起」
これは首謀者のひとりに浄土真宗の僧侶がいるだけで、浄土真宗との関係はあまり深くはないですね。
ウィキペディアでは中心人物の元会津藩士・渡辺悌輔の名を取って「悌輔騒動」として立項されています。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「菊間藩少参事」2016/01/22(金) 14:08:17
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E9%96%93%E8%97%A9
正念寺のサイトに「明治四年二月、三河における所領およそ一万石を統轄するため、大浜に陣屋を構えた菊間藩(旧沼津藩)は」とありますが、ウィキによれば、菊間藩の三河国の領地は「碧海郡のうち16村、幡豆郡のうち5村」なので、一村当り500石前後となり、ごく平均的な村々のようですね。年貢米を差し引くと、21村合わせて何人位の農民が生存できたのか、つまり、騒動の背景というか、分母の規模を知りたいですね。最終的に土寇の数が数千人になるものかどうか。

ご引用の文を読むと、ひとえに「菊間藩の服部純少参事」が無能だった、という印象を受けますが、この人は藩から処罰されなかったのですか。

「本藩より少参事服部純が来任して、・・・各村を巡回して、神前念仏を禁じ、神を拝する作法として、祝詞を読み習はせ」は神道のことでしょうが、それがなぜ、「かの少参事服部某は、耶蘇であらう、・・・仏教徒を耶蘇に引き入れやうとするものであらう」と、耶蘇になってしまうのか、よくわからない話ですね。

辻善之助のいう「明治四年三河大浜の騒擾」と「六年越前今立郡坂井郡に於ける暴動」の背景には、ともに浄土真宗の強い影響があるのでしょうが、「五年信越の間における土寇蜂起」の背景も同じでしょうか。
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