学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

真宗大谷派・正念寺「殉教記念会」の見解

2016-01-21 | グローバル神道の夢物語

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月21日(木)12時06分56秒

単なる「人殺し」じゃないのかな、というのはもともと浄土真宗があまり好きではない私の個人的感想で、浄土真宗側の見方はもちろん違います。
検索してみたら、大浜騒動の舞台、愛知県西尾市の真宗大谷派(東本願寺)正念寺のサイトに、同寺に事務局を置く「殉教記念会」の見解が掲載されていました。

http://www.shonenji.jp/jyunkyo.html

同会によれば、まず事件の前提として、

-------
維新政府は、天皇崇拝を核とする国家神道によって、国民の思想教育をはかった。
その神道国教化のの第一歩として「神仏判然令」が発せられた。
これは、仏と神が混然となった信仰の姿から、神道を独立・純化させ、それまでの仏が主で神が従という関係を、逆転させる狙いのものであった。
従って、ただちに仏教の弾圧を意味しなかったが、実際には江戸時代を通して保護された仏教に対する反発や、急進的な国学者・地方官吏の指導により、全国各地で寺院や仏像の破壊などの仏教排撃運動、いわゆる廃仏毀釈が展開された。
--------

という状況があったそうです。
「神仏判然令」は文字通り神と仏を分離せよ、と言っているだけで、別に「仏が主で神が従という関係を、逆転させる狙い」はないように思いますが、ま、そういう狙いが見える人もいるんでしょうね。

-------
明治四年二月、三河における所領およそ一万石を統轄するため、大浜に陣屋を構えた菊間藩(旧沼津藩)は、管内の寺院・領民に対し、天拝・日拝(歴代天皇・天照大神の神霊を拝す)の強要や、神前念仏の禁止等の政策を打ち出した。
これらは、神道国教化を強力に推し進める維新政府の方針に忠実に従ったものであった。
-------

キクマハンは歴史に詳しい人でもあまり聞かない名前だと思いますが、ウィキペディアによれば「明治維新期の短期間、上総国に存在した藩。1868年に駿河沼津藩の水野家が移封され、1871年の廃藩置県まで存続した。石高は5万石で、越後国や三河国にも領地があった。藩庁は上総国市原郡菊間村(現在の千葉県市原市菊間)の菊間陣屋」だそうです。
「日拝」について、私は圭室著に、騒動が鎮圧された後、菊間藩の服部純少参事が東本願寺に出した文書に「一 朝日を拝むことはもとよりなかったこと」云々とあったので(p203)、日拝=朝日を拝むこと、だと思っていましたが、この点は改めて調べてみます。
さて、上記引用部分では何故か寺院統廃合についての言及がありませんが、圭室著によれば2月15日に服部純少参事が大浜出張所に参集した各宗僧侶に提示した「十二か条の問題」は全て寺院合併についての話で(p201)、僧侶側からも「合寺・廃寺があたかもきまったような話であるがそれはおかしい。十二か条の下問はすでに合寺・廃寺を前提としているのではないか」という質問が出たそうです。
「殉教記念会」は何故この寺院統廃合の問題に言及しないのですかね。

--------
同年三月九日未明、台嶺をはじめ三十数名の有志が血誓し、政策に同意を示した二ヶ寺の糾弾と、菊間藩との談判を目的に、暮戸会所から大浜へ向かった。
途中門徒農民が次々と一行に加わり、鷲塚へ到着した時には数千人に達していた。
菊間藩はこの動きを知り、急遽杉山少属以下五名を鷲塚へ派遣した。
そして、庄屋片山俊次郎宅で台嶺ら護法会代表との談判が行われたが、双方の主張は日暮れになっても平行線のままで、帰りを待つ僧侶・門徒は次第に殺気立ってきた。
やがて、蓮成寺の鐘を乱打し、片山邸へなだれ込み、逃げ出そうとした役人を襲い、そのうちの一人、藤岡薫を殺害してしまった。
--------

一連の事件の経緯には何故か「耶蘇」のことが出てきません。
圭室著と辻善之助の「神仏分離の概観」を見ると、大浜騒動の特徴は浄土真宗側が終始一貫「耶蘇」への強烈な敵愾心を持って行動した点にあります。
着任当初から「少参事服部某は、耶蘇であらう」と噂され、「血判志士」の僧侶三十数名に同行した門徒は「耶蘇退治の為めならば、我等も助勢に加わらん」と思って参加し、「袋の中の鼠」の一人、「杉浦某」が脱出を図ると「それ耶蘇が出た、ぶち殺せ」と竹槍が突き出され、倒れた藤岡薫は「ヤソが倒れたぞ!」と叫ぶ群衆から次々と竹槍で刺された挙句、その首は藁包み状態で矢作川に流され、「興奮した人々の中にはさらにヤソの本拠地である大浜陣屋を襲おうと檄をとばす者もいた」のですから、「耶蘇」のない大浜騒動なんて、まるでクリープのないコーヒーのような感じがします。
昭和のCMのフレーズです。
気にしないで下さい。

--------
翌十日、台嶺をはじめ事件に加わった者は逮捕され、取調べを受けた。
四月末に岡崎城で裁判が行われ、判決は十二月二十七日に申し渡された。
事件の中心人物である台嶺と藤岡薫殺害犯とされる榊原喜代七が死刑、以下血誓僧に懲役刑が課せられた。
--------

榊原喜代七はやはり「藤岡薫殺害犯」なんですね。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「耶蘇退治の為めならば、我... | トップ | 『廻瀾始末』と『明治辛未殉... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

グローバル神道の夢物語」カテゴリの最新記事