学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「明治六年越前大野今立坂井三郡の暴動」

2016-01-25 | グローバル神道の夢物語
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月25日(月)10時10分14秒

辻善之助「神仏分離の概観」の「六、廃仏反抗と地方の暴動」に出てくる三つの暴動のうち、三番目の「明治六年越前大野今立坂井三郡の暴動」ですが、これはネットで公開されている『福井県史』に詳しい説明がありますね。
『福井県史』では「越前真宗門徒の大決起」というなかなか美しい名称に変更されていますが、やっていることは現住建造物放火・建造物損壊・器物損壊・脅迫・強要等ですから、「暴動」の方が適切なような感じもします。

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第一章 近代福井の夜明け
第一節 明治維新と若越諸藩
五 越前真宗門徒の大決起
明治政権の教化政策
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-0a1-02-01-05-01.htm

この事件の発端はなかなか興味深くて、真宗本願寺派の寺に生まれ、還俗して教部省に出仕した石丸八郎という人物の発言が波乱を呼びます。
「耶蘇」云々は三河の菊間藩大浜騒動とも共通しますね。

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「石丸発言」が、「耶蘇」の教法であると喧伝され、その情報が隣接の大野郡に及ぶと、友兼村の専福寺(真宗高田派)住職金森顕順、上据村の最勝寺(本願寺派)住職柵専乗、同村の上層農竹尾五右衛門らを中心に、同月下旬には、およそ六五か村の「護法連判」が行われた。石丸を「耶蘇宗の者」とみなし、「耶蘇」の侵入には、村ごとに「南無阿弥陀仏」の旗を押し立て、断固一揆の強硬手段で対抗することを誓い合ったのである。

石丸発言とその波紋
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-0a1-02-01-05-02.htm

そして「石丸発言」をきっかけに大野・今立・坂井の三郡で合計三万人以上が参加する大暴動が発生します。
鎮台兵が出動して暴動が鎮圧された後、関係者が捕縛され、金森顕順(真宗高田派、41歳)と柵専乗(真宗本願寺派、38歳)の僧侶二人と農民三人・商人一人の合計六人が処刑されることになります。
まあ、浄土真宗側からすれば、この六人は「護法一揆」で活躍して宗門のために犠牲になった「殉教者」なんでしょうね。

大一揆の展開とその顛末
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-0a1-02-01-05-03.htm

暴動参加者の要求を見ると、やはり「耶蘇」という表現がやたら目立ちますね。
『福井県史』の執筆者は、これを

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大一揆の直接の発端に寺院側の大きな働きかけがみられる以上、彼らが護法的立場から民心を掌握する便法として、「耶蘇」の語を機会あるごとに喧伝したものとみてよい。したがって、こうした諸要求事項のなかでは、「耶蘇」の語は教義そのものを問題とするのではなく、単に「反対すべきもの」とか「好ましからざるもの」という、嫌悪意識の表現として掲げられたといえよう。
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と評価します。
大浜騒動に関する諸記録には、「耶蘇」の影響を受けたのは民衆だけで僧侶側は無関係みたいな書き方をしているものが多いのですが、民衆の情報源は僧侶なのですから、大浜騒動でも僧侶が<民心を掌握する便法として、「耶蘇」の語を機会あるごとに喧伝したものとみてよい>のでしょうね。
要は無教養な門徒を暴動に駆り立てるためのアジテーションとして、「耶蘇」という表現が最適だった訳ですね。

一揆勢の諸要求
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-0a1-02-01-05-04.htm

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