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0111 木下竜馬氏「治承・寿永の内乱から生まれた鎌倉幕府─その謙抑性の起源」(その1)

2024-07-01 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第111回配信です。

小川剛生氏『「和歌所」の鎌倉時代』に移る前に、権門体制論の最近の動向として、木下竜馬氏(東京大学史料編纂所助教)と下村周太郎氏(早稲田大学准教授)の見解を少しだけ検討しておきたい。

有富純也・佐藤雄基編『摂関・院政期研究を読みなおす』(思文閣出版、2023)
https://www.shibunkaku.co.jp/publishing/list/9784784220663/

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 第5章 治承・寿永の内乱から生まれた鎌倉幕府─その謙抑性の起源

はじめに
第一節 地頭─研究史の概観
(1)石母田正
(2)大山喬平
(3)川合康
(4)川合説の周辺
第二節 御家人制
(1)御家人制の性格
(2)平家家人制とくらべてみる
おわりに
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p132
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 現代の鎌倉幕府論の大きな論点は、中世の国制において部分的な存在である幕府が、いかなる外延をもっていたかということである[高橋典幸二〇一三]。鎌倉幕府は、東国、ないし地頭・御家人といったみずからの領域を定め、概していえば、その外への関与は消極的であった。かかる鎌倉幕府の謙抑性(自己抑制の傾向をもつこと)は、院政期の諸権門や後続の室町幕府などとくらべても特異である[本郷二〇一〇]。この性格はなにに由来するのか。謎を解く鍵は、幕府成立時にあるのではなかろうか。
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[高橋典幸二〇一三]…「鎌倉幕府論」(『岩波講座日本歴史6 中世1』岩波書店)
[本郷二〇一〇]…本郷恵子『室町将軍の権力』(朝日新聞出版、二〇二〇)

(私見)
国家の本質は正当的暴力の独占。
幕府は東国では正当的暴力を独占しており(従って「国家」であるが)、西国では正当的暴力を独占していない。
朝廷は承久の乱を経て直接的な暴力装置を失ったが、西国では権門寺社も、また本所一円地の武士も朝廷由来の「正当的暴力」をなお分有している。
従って、東国では全く謙抑的ではないが、西国では謙抑的にならざるを得ない。

「中世の国制において部分的な存在である幕府」
 →木下竜馬氏は権門体制論者。「国家」の定義はせず。

「朝幕関係が一変したとか、幕府が朝廷を従属下に置こうとしたというわけではない」(by 高橋典幸氏)(2021年 9月29日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8fc879a7e15b24002c5aa3efd256d232
東京大学教授・高橋典幸氏に捧ぐ「隠岐にて実朝を偲ぶ歌(後鳥羽院)」〔2021-10-01〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/715897be49d108c681eb0c462e2af4f8

p137
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(3)川合康
 一九八〇年代後半から、荘郷地頭の研究史を塗り替えたのが川合康である[川合二〇〇四b]。川合は、治承・寿永の内乱において、現地の鎌倉方が、敵方(たとえば平氏やその一族など)とみなしたものの所領を独自に占領し、その地の地頭としてのちに追認されるパターンを見いだし、地頭成立の典型とみなした。戦争行為としての敵方所領没収という新視点を端緒に、既存の研究を根底からみなおしていったのである。
 川合はみずからの研究の画期性として二つの視角をあげる。
 第一が、公権移譲論批判である。【中略】
 第二が、戦争論である。【中略】
 川合説の特徴は、政治過程などの上部構造や生産関係などの下部構造とは異なる、戦争という独自の運動原理をもつ次元を設定し、そこで規定されたものとして内乱期の諸現象を解釈したことである。すると当然、戦争そのもの、すなわち、武器、戦闘法、軍事施設、兵士の動員方法などが検討の正面に据えられる。川合説が画期的であったのは、治承・寿永の内乱を検討するにあたり、承久の乱や、南北朝期あるいは戦国期における戦争状況での類例を積極的に採用した点である。つまり、中世の戦争においては、およそ似通ったことが起こりうるということである。
 そして、戦争特有の展開として、戦時と戦後という軸で、治承・寿永の内乱の過程を整理しなおした。すなわち、戦時には敵の撃破と軍事行動の遂行が第一とされる。一方、戦争に勝利したのちは平時への移行を目指した戦後処理が進行しつつ、戦時に獲得したもののの一部を平時に定着させる試みも行われる。
【中略】
 以上のような認識の枠組みを、<拡大→整理>モデルと名付けたい。このモデルにおける主なモチーフは、発展か後退かではなく、周期的反復〔リフレイン〕である。
 整理局面について、特に川合が検討の俎上にあげたのが、御家人制の再編である。戦時に獲得したものを平時に定着させる「頼朝の「政治」」をここに見いだし、文治五年(一一八九)の奥州合戦の画期性を評価することになる。
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[川合二〇〇四b]…『鎌倉幕府成立史の研究』(校倉書房)

0011 川合康氏の奇妙な権門体制論(その1)(その2)〔2024-01-14〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/221f61f251ba8c0ddcf555d01673cef9
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9d60347b2ce27855fc69002e121f7368

川合康氏「鎌倉幕府研究の現状と課題」を読む。(その1)~(その5)〔2023-03-08〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8d3942ccef43904d40d2affb13acd1ce
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9dbdd561993661b7528b012cd846bc1d
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c86ac9836376b48ac6ffc692e720e03a
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/445055e235c4074de2517fb032953962
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/605611b8db9d85327161d4bce4139188
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15 コメント

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Unknown (筆綾丸)
2024-07-02 12:48:39
小太郎さん
権門体制に関係するような、しないような話で恐縮ですが。
『「和歌所」の鎌倉時代』に、
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「南朝・北朝の撰者、共に在京し勅撰の沙汰有り・・・」(明月記天福元年七月二十八日条)。・・・後堀河(南朝)と後鳥羽(北朝)と、二つの勅撰集計画が同時に進んでいるとの認識である。(90頁~)
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とあります。
定家独特の表現なのか、廷臣共通の表現なのか、知らないのですが、都を南朝、隠岐を北朝とする政治認識があった、あるいは、ありえた、ということになりますか(順徳の佐渡は北朝の一部?)。鎌倉幕府を捨象したような、してないようなエクリチュールです。
室町期の南北朝しか知らない私はびっくりしてしまいました。地理的には、都を東朝、隠岐を西朝としたほうがよいのでしょうが(とすると、都の東の方にある鎌倉に抵触してしまう)、中国の南北朝時代を踏まえた表現なのでしょうね。南宗と北宗も意識しているかもしれません。
この論法でゆけば、後白河の北朝、崇徳の南朝という認識もあったのかな、あるいは、ありえたのかな、と思いました。
なお、蛇足ながら、桃崎有一郎氏は「治承・寿永の内乱」という、最近流行の中途半端な「学界用語」を批判しています(ちくま新書『平安王朝と源平武士』第一章)。
返信する
Unknown (筆綾丸)
2024-07-03 13:37:05
追記
南朝と北朝は、定家の嫌味(シニスム)にすぎないのでしょうね。
返信する
Unknown (筆綾丸)
2024-07-04 15:35:21
雑記
勅撰集(続後拾遺和歌集)に初めて入集した足利尊氏の歌、
かきすつる藻屑なりともこの度は かへらでとまれ和歌の浦波
をめぐって、小川氏は、
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武士たちの卑屈なほどの謙遜の詠みぶりは、いかに約束事とはいえ、驚くばかりである。(『「和歌所」の鎌倉時代』272頁)
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と書き、垣根氏は、
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(直義は)心底呆れた。・・・歌道での猟官運動のようなもので(恥知らずで、武士として許されるものではない)。(『極楽征夷大将軍』44頁 文藝春秋2023年)
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と書きます。
仏界入り易く魔界入り難し、ではないけれども、勅撰集は魔物ですね。
返信する
「宇治川集」 (鈴木小太郎)
2024-07-05 11:01:23
>筆綾丸さん
>「南朝・北朝の撰者、共に在京し勅撰の沙汰有り・・・」
承久の乱後の南朝・北朝という表現には私も吃驚しました。

「宇治川集」の渾名について、小川氏は、

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 ところで、新勅撰集は武士を多く入集させたために、「宇治川集」の異名を取ったという話は著名である(井蛙抄)。
 この異名は、人麻呂の名歌「もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波の行く方知らずも」(万葉集・三・二六四)による。「もののふの八十氏」は、朝廷に仕える官人の多族多姓のありさまで(「やそ」は数の多い喩え)、「うじ」の響きから「宇治川」を導いた序詞であるが、「もののふ」はまた武士の意にもなっていたから、武士の数が多いことをあてこすっているのである。
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と書かれていますが(p86)、承久の乱の最大の激戦地で、多くの「もののふ」が流された宇治川の戦いもまだまだ生々しい記憶であったろう時期においては、「宇治川」から人麻呂の歌以外の響きも聞こえてきたような感じもします。
返信する
『極楽征夷大将軍』 (鈴木小太郎)
2024-07-05 11:19:50
p91に「為家も順徳院の近臣で、配所まで供奉するつもりが、定家に阻まれている」とありますが、為家が佐渡に渡ろうとしたことは流布本『承久記』にも、

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同廿ニ日、新院、佐渡国へ被移させ給。御供には、冷泉中将為家朝臣・花山院少将茂氏・甲斐兵衛佐教経、上北面には藤左衛門大夫安光、女房右衛門佐局以下女房三人参給ふ。角〔かく〕は聞へしかども、冷泉中将為家朝臣、一まどの御送をも不被申、都に留り給。
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と出ています。
私はこの為家エピソードは流布本の成立時期がけっこう早いことの証拠のひとつと考えているのですが、この話が決して単なるうわさではなく、事実の記録であることが分かったのはありがたいですね。

慈光寺本は本当に「最古態本」なのか。(その5)〔2023-02-12〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0e968d1055c6c4e148ff37749449f6f6

>『極楽征夷大将軍』
私は「討伐軍の総大将には、二名が就くことになった。高氏と共に、北条一門から名越高家という、二十歳そこそこの若者が内定した。つまり御家人と御内人から、それぞれ一人ずつという総大将の人選だ」(p124)という表現が気になって、けっきょく挫折してしまいました。

https://x.com/IichiroJingu/status/1682369954568605696
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Unknown (筆綾丸)
2024-07-05 15:47:10
小太郎さん
『極楽征夷大将軍』には、赤橋登子に関して、
「この鎌倉でも三指に入る美人で・・・(見合いの時)高氏は、半ばぽかんと口を開け、相手の美貌に見入っている(79頁~)」
とかなんとかあるものの、彼女の内面描写が全くなくて残念です。幕府滅亡期において、立場上、もっとも秘教的で韜晦的な女性ではありますが、作家の力量が試されるところです。

源具親は新古今への入集は六首とありますが(90頁)、もしかすると、こんな夫婦の会話があったかもしれません。
具親「おい、六首、入集したぞ、Freude!」
姫の前(旧姓)「(なんだ、たった六首なの、とがっかりしながらも)御機嫌麗しう祝着至極に存じます」

定家が重時を「勅撰地頭」と揶揄したというところで(91頁)、思わず吹き出してしまいました。とともに、「勅撰地頭」にすらなれなかった朝時は、やはり、弟よりデキが悪かったのだな、と思いました。ちなみに、同書の北条氏系図(9頁)には、故意か過失か、朝時は名前すら記されていません。
なお、何の関係もない話ですが、昨今、GAFAを荘園領主に見立て、日本人(日本企業)は小作料を払い、結果として、日本国のデジタル赤字が膨張している(約6兆円)、という議論があります。松田優作「蘇る金狼」風に倣えば、現代版「蘇る荘園」とでもなりますか。

勅撰和歌集は普通名詞なのに、「新勅撰和歌集」とは奇妙名前である(79頁)、といろいろ考察して、「結果的に名は体を現すことになったのである」(94頁)とあるのは、いつもながら鋭い分析ですね。
暫定的な仮名が正式名称になってしまったのは、カトリック世界において、赤ん坊が洗礼前にぽっくり死んでしまって、洗礼名(baptismal name)がない、というような事情に似ているのかもしれません。
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Unknown (筆綾丸)
2024-07-05 20:46:01
鯵と鮎
後拾遺集の異称「小鯵集」と続拾遺集の異称「鵜舟集」との間には、鵜の獲物は鮎なので、前者は海の魚で後者は川の魚だ、という洒落があるのかもしれず、また、六波羅探題を鵜匠とすれば篝屋の武士は鵜だ、という揶揄もあるのかもしれないですね。
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歌人としての名越朝時 (鈴木小太郎)
2024-07-06 12:57:45
>筆綾丸さん
>「勅撰地頭」にすらなれなかった朝時は、やはり、弟よりデキが悪かったのだな、と思いました。

藤原秀能の『如願法師集』には朝時と秀能との贈答歌が載っていて、朝時が歌好きであったことは間違いないですね。
以前、私は歌人としての朝時に関してちょっと妙なことを考えたことがあります。

渡邉裕美子論文の達成と限界(補遺、その8)(補遺、その9)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fa2ac19bfd65a3917c319b314732f44c
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bf6e5a653652f7daa6e6852d717be708
返信する
Unknown (筆綾丸)
2024-07-06 15:59:30
小太郎さん
小川著に、宇治川集入集の北条氏は、
泰時3 重時2 政村1
で、この三兄弟は実名という殊遇であり、他の北条氏は、
資時(真昭)5 時村(行念)5
で、法名で採られた、とあります(89頁)。
朝時を露骨に冷遇するのは、得宗に対する名越流の政治的立ち位置の反映なのか。
宇都宮頼綱3
は、為家の岳父への配慮なんでしょうね。
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Unknown (筆綾丸)
2024-07-06 18:50:49
宇治川集に朝時の歌がない理由として考えられるのは、荒唐無稽なものも含めて、ざっと、
① 入集できるレベルの歌がなかった
② 定家と犬猿之仲であった
③ 定家が耄碌して忘れた
④ 心付けが足りなかった
⑤ 藤原範茂処刑の責任者なので忌避された
⑥ 「勅撰作者感悦の由」(89頁)の泰時に対抗して、入集を自ら拒否した
⑦ 勅撰集の権威を認めなかった
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