学問空間

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0087 長谷川明則氏「赤橋登子─足利尊氏の正妻─」(その8)

2024-05-11 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第87回配信です。


一、前回配信の補足

https://www.youtube.com/watch?v=ydLSwrtnF5U

※13:00以降で、黒田俊雄氏が「脱権門体制的性格」という表現を用いている、などと言ってしまったが、これは平雅行氏の表現。

第二章の最後(p163)
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 以上、鎌倉時代の国家構造について検討し、これまでの研究をもとにそれを整理してみた。門外漢ゆえの誤解や初歩的誤りもあるだろうが、権門体制論という学説が誤読の中で葬られることを危惧して本稿を執筆した。黒田俊雄氏から受け継いだこのバトンは、未来の世代に託す価値があると考えるからである。
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平氏はもちろんご自身が黒田俊雄の正統なる後継者と自負されているが、客観的には平氏が権門体制論を葬ってしまったのではないか。


二、長谷川論文の続き

p231以下
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●尊氏の娘を産む
 尊氏と登子の子として、ここまでに三人の男子(義詮、聖王、基氏)が登場しているが、『足利系図』(『続群書類従』五上)によれば、そのほかに崇光天皇の「后妃」となった女子がいたとされる。尊氏の娘については、文和二年(一三五三)十一月六日に鶴王の病気平癒のために祈祷が行われたという記録がある。祈祷の甲斐もなく、彼女は九日に死去してしまったという(『門葉記』)。この年には、尊氏に敵対する直冬が西国から京都に攻め上り、その結果、義詮はやむを得ず京都を捨てて美濃国(岐阜県)に逃げた。この頃、尊氏は鎌倉に下向して京都を離れており、義詮は尊氏から留守を預かっていたのである。この時の混乱は鶴王の身辺にも大きな影響を与えたはずであり、その心労が命を縮めたのかもしれない。鶴王の三回忌には、生前無位だったにもかかわらず、異例の従一位を贈られるという特別待遇を受けていることもあり(『園太暦』)、「后妃」は鶴王のことであると考えられる。
 崇光天皇は、観応三年(一三五二)に南朝方の手で拉致され、大和国賀名生(奈良県五條市)に連行されている。鶴王はその翌年にこの世を去っていることから、崇光に嫁いだのが事実だとすれば、拉致される前のはずである。鶴王の享年は十二歳又は十三歳と推定されており[田辺二〇〇二]、当時の婚姻年齢からすれば不自然はない。しかし、彼女が十歳又は十一歳だった観応二年に、尊氏が北朝を見捨てる形で南朝と和睦してしまっている(正平一統)ことから、この時期に鶴王が北朝の崇光に嫁いだのを事実だとするのは難しい。
 このように、登子と尊氏の間には、鎌倉幕府滅亡後に少なくとも二男一女が生まれていた。この事実からは、実家を滅ぼした尊氏に対する深い憎しみを推定することは難しい。建武政権の下では、赤橋守時の後家に伊豆国(静岡県)の所領が与えられており、この決定に尊氏が関与していた可能性が指摘されている[下山二〇一五]。こうした北条一門に対する尊氏の姿勢が、鎌倉幕府滅亡後の登子の心情の緩和に作用したのかもしれない。
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赤橋登子(1306‐65)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%A9%8B%E7%99%BB%E5%AD%90
鶴王(?‐1353)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%B4%E7%8E%8B

登子の人物像にはいくつかの可能性

(1)主体性のない女…すべてにおいて夫に追従。多くの研究者の暗黙の前提?
(2)普通の女……なぜ出家しなかったのか?
(3)主体性のある女…尊氏の倒幕の意志を熟知しながら、兄・守時に伝えず。「鉄の女」?

赤橋種子と正親町公蔭(その1)〔2021-03-08〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/756ec6003953e04915b7d6c2daa6df1a
コメント
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