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「いったんは成良を征夷大将軍に任じて、尊氏の東下を封じうると判断したものの」(by 佐藤進一氏)

2021-09-03 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月 3日(金)11時05分26秒

私にとって、当面は「惣〔総〕追捕使」と「征夷大将軍」の違いが明確になれば十分なのですが、今まで佐藤進一説を散々批判して来たものの、佐藤説自体を正確に紹介していた訳ではないので、ここでもう少しだけ佐藤氏の見解を引用しておきます。
ということで、続きです。(p110)

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 後醍醐は尊氏のいっさいの要請をしりぞけた。そればかりでなく、尊氏の望む征夷大将軍を成良に与えた。ときに八月一日、すなわち成良が三河の矢作につく前日である。
 翌八月二日、尊氏は公認が得られないままに、兵を率いて東下した。これを聞いて後醍醐は改めて尊氏に征東将軍の号を授けた。いったんは成良を征夷大将軍に任じて、尊氏の東下を封じうると判断したものの、尊氏の行動を見るに及んで、これを追認したのである。これは後醍醐が伯耆から帰京した直後、尊氏を鎮守府将軍に任じて、征夷大将軍を置かない方針を明らかにしながら、護良の要求にあうと、ついに屈して、護良を征夷大将軍に任じたケースと共通性がある。情況判断の甘さだけではなく、一見強気そうでいて、意外に弱気な後醍醐の人柄のせいかもしれない。
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尊氏が征夷大将軍を希望したにもかかわらず、後醍醐が「八月一日、すなわち成良が三河の矢作につく前日」に成良親王を征夷大将軍に任じたのだとすると、この人事はまるで尊氏に対する嫌がらせのようです。
しかし、『梅松論』と『太平記』はいずれも成良が鎌倉に下向した時点で既に征夷大将軍だったとしており、『神皇正統記』は成良が鎌倉に下向した「後にしばらく征夷大将軍を兼させ給ふ」という立場です。

成良親王の征夷大将軍就任時期についての私の仮説
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6e260a5e387875c10aefd0577bab9121

私はこの八月一日説が本当に不思議に思えて成良親王を調べ始めたのですが、意外なことに八月一日説は『相顕抄』という特に良質とも思えない二次史料に出ているだけでした。
それにもかかわらず、『大日本史料 第六編之二』で田中義成が八月一日説を採用して以降、研究者は誰一人この説を疑っていません。
いろいろ調べた結果、私は建武元年(1334)二月五日が成良の征夷大将軍就任日の可能性が高いのではないか、という一応の結論を得ましたが、私見が正しいかどうかはともかく、不動の定説であった建武二年八月一日説(田中義成説)が実際にはかなり脆弱な基盤の上の推論であったことは明らかにできたのではないかと思っています。

四月初めの中間整理(その2)(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/74fe33d19ac583e472e42a86751cac5a
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2d242a4ee17a501ea5162bc48f52180c

さて、佐藤氏は「いったんは成良を征夷大将軍に任じて、尊氏の東下を封じうると判断したものの」とされていますが、これではまるで後醍醐が尊氏に中先代の乱を鎮圧してもらいたくなかったかのような書き方です。
しかし、仮に尊氏が北条時行に負けたら、僅か二年前に親兄弟・一族郎党・知友を皆殺しにされて復讐の念に燃えた鬼のような連中が京都に雪崩れ込んで来る訳で、そうなったら後醍醐だって今度は島流しでは済まされず、処刑されかねません。
後醍醐は尊氏に勝ってほしい、中先代の乱を鎮圧してほしいと切実に願っていたに決まっていて、尊氏の東下に反対したのは、後醍醐なりの合理的判断に基づくものと考えるのが自然です。
西園寺公宗の謀叛発覚以来、京都は、次は誰が裏切るか分からない、という疑心暗鬼の状態に置かれていたはずで、例えば護良親王に与して冷や飯を食らっていた播磨の赤松など、相当に不気味な存在です。
そんな状況下、後醍醐としては、一番頼りにしている尊氏に京都を離れてもらっては困る、当面は尊氏は京都にいて、北条時行への対応は部下にやらせてくれ、というだけの話なのではないか。
他方、尊氏としては、純粋に軍事的な判断として、直ちに自分自身が対処しなければ収拾のつかない事態に発展するだろうとの危機感から、「所詮私にあらず、天下の御為」(『梅松論』)と考えて東下しただけなのではないか。
佐藤氏の「いったんは成良を征夷大将軍に任じて、尊氏の東下を封じうると判断したものの」は尊氏・直義の「三河以東独立政権構想」を阻止することを意味しているようですが、中先代の乱という「今そこにある危機(Clear and Present Danger)」を差し置いて、後醍醐に現時点では存在していない未来の危機を心配する余裕があったとは思えません。
尊氏が勅許なしに離れたことで後醍醐のプライドが若干傷ついたとしても、後醍醐も尊氏の「所詮私にあらず、天下の御為」という気持ちは理解できたはずです。
そこで後醍醐は尊氏軍が「私」の戦争に向かうのではなく、「天下の御為」に朝敵を討伐する「官軍」であることを示すために「征東将軍」の号を与えたのではないか。
この「征東将軍」への任命は決して「一見強気そうでいて、意外に弱気な後醍醐の人柄」を示すものではなく、「公」を体現する後醍醐にしかできない尊氏への現実的かつ効果的な支援ですね。
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