投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月18日(水)12時49分6秒
「15.青野原合戦事」の冒頭、暦応元年(1338)一月に起きた青野原合戦を、今川了俊が「建武四年〔1337〕やらん。康永元年〔1342〕やらんに」という具合いに二つとも間違えている点、特に注目している研究者はいないようですが、私はこれはけっこう重要な問題ではなかろうかと思います。
というのは、この誤解は了俊が手元に『太平記』を置いて、その記載を確認しつつ意見を述べているのではなく、あくまで自分の記憶の中の『太平記』を語っていることを示唆しているからですね。
実は青野原合戦あたりの『太平記』の記述は、個々の事件の発生年次についてはけっこういい加減で、手元に置いていても建武四年(1337)と間違う可能性はありそうです。
しかし、いくら何でも康永元年(1342)と間違うことは考えにくくて、了俊は自分の記憶の中の『太平記』を語っており、そしてそれは一番重要な足利尊氏の「降伏」についても同様なのだろうと思います。
この点は後で改めて論じるつもりです。
さて、『難太平記』で『太平記』に言及している七つの記事の最後、「18.範国欲使貞世刺清氏事」に移ります。
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細川相模守御不審の時。故入道殿随分奉公忠節人に越給ひしかども。彼太平記には只新熊野に入御とばかり書たるにや。其時の事は既及御大事べかりける間。右御所にひそかに故入道殿申給ひて。貞世は清氏に無内外申承者也。かれをめし上せて清氏に差ちがへさせらば。御大事にも及べからず。人をもあまたうしなはるべからずと申請給ひて。其時は我等遠州に有しを。以飛脚めし上せ給ひしかば。参川の山中まで上りしに。清氏若狭国に落けるとて重て飛脚下き。上着の時こそかかる御用にめされつるとは語給ひしか。言語道断の事なりき。此事を故殿申請給ひける故に。清氏野心の事は無実たる間。歎申さむために越州直世を清氏内々よびけるを依怖畏まからざりける時。貞世在京あらばさりとも可来物をと清氏楽所の信秋に申けると聞て。思ひ寄て申出られけるとかや。是は随分故入道忠と存て。子一人に替て此御大事を無為にと存給ひし事無隠しを。などや此太平記にかかざりけん。是も此作者に後に申ざりけるにや。其時の落書に。
細川にかかまりをりし海老名社 今川出て腰はのしたれ
是は相模守に海老名備中守にくまれて無出仕也しかば。如斯よみけるとかや。比興の事なれども。その時の事なれば書の侍ばかりなり。
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「細川相模守御不審の時」とは、康安元年(1361)九月、義詮の執事であった細川清氏が失脚し、若狭に逃げた事件ですね。
細川清氏(生年不詳~1362)
背景事情を知らないと分かりにくい記述ですが、例によって「現代語訳 難太平記」(『芝蘭堂』サイト内)を参照させてもらうと、
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細川相模守(清氏)が御不審をこうむった時、故入道殿はずいぶん奉公忠節を尽くされたけれども、かの太平記には新熊野に入御としか書かれていない。
あの時は既に御大事に及びそうだったので、故入道殿(範国)が密かに右御所(義詮)に、
「貞世(今川貞世。了俊の俗名)が清氏と親しいとうけたまわっております。彼を召し上らせて清氏と刺し違えさせれば、御大事には至らずに済みましょう。人を多数失うこともないでしょう。」
と申し上げられて、その時は遠州にいた我らを飛脚で召し上らされた。
三州の山中まで上ったところで、「清氏は若狭国に落ちた」という飛脚がまた下って来た。どのような御用で召されたのかは、上洛してから教えられた。言語道断のことであった。
清氏の野心のことは無実だったので、清氏は無実を訴え申し上げるために越州直世(今川直世。了俊の弟)を内々に呼んだが、恐れて行かなかったという。その時、清氏が、「貞世が在京であれば、こんな時でも来るだろうに」と、楽所(楽事を教え、事務をとる役所)の信秋に言ったと聞いて、(故入道殿は)思い立って申し出られたという。
これなどは故入道殿(範国)のずいぶんな忠であり、子一人に替えてこの御大事を何事もなく終わらせようと思われたことは明らかなのに、どうして太平記には書かないのだろうか。これも、あとからこの作者に言わなかったからであろうか。
といった状況です。
今川範国は細川清氏の反逆を犠牲なしに治めるために、了俊を清氏のもとに行かせて「清氏に差ちがへ」させるという提案を、当事者である了俊の了解もなしに勝手に義詮にして、了俊に使者を送って上洛を促したが、到着前に清氏が若狭に没落したのでその必要もなくなった、という話ですが、了俊の書き方が妙に淡々としている点、やはり中世の武士だなあ、という感じがして、なかなか味わい深いですね。
文中に「言語道断」という表現がありますが、ここは「とんでもないことだ」といった否定的な意味合いではなく、「言葉で言いようもないほど、りっぱなこと」といった肯定的な意味だと思います。
了俊は父の提案を見事な策だと評価し、弟の直世は躊躇したけれども、自分が在京していたら恐れずに清氏のもとに行って、立派に刺し違えてみせたのだ、と言いたいのでしょうね。
「言語道断」(コトバンク)
さて、この話は今川家関係者だけでなく、広く一般の興味を惹きそうな話題ではありますが、結局のところ関係者の密談に終始し、具体的な結果をもたらさなかった試案であって、『太平記』の「作者」にとっても華々しいストーリー展開は困難です。
了俊は「是は随分故入道忠と存て。子一人に替て此御大事を無為にと存給ひし事無隠しを。などや此太平記にかかざりけん。是も此作者に後に申ざりけるにや」と憤っていますが、仮に今川家関係者が『太平記』の「作者」に提案しても、関係者の密談だけじゃ証拠もないしねー、などといった理由で採用を拒否されたかもしれません。
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