学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

和田琢磨氏「今川了俊のいう『太平記』の「作者」:『難太平記』の構成・思想の検討を通して」

2020-11-13 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月13日(金)13時12分43秒

今川了俊の晩年の著作活動の活発さは驚異的で、川添著でも230頁から269頁まで延々と解説が続きますが、『難太平記』に関する記述は前三回の投稿で紹介した六頁分ほどです。
川添氏の古典的研究は今でも新鮮ですが、『難太平記』に関する最近の研究状況を概観するには和田琢磨氏(早稲田大学教授)の「今川了俊のいう『太平記』の「作者」:『難太平記』の構成・思想の検討を通して」(『日本文学』57巻3号、2008)という論文が便利ですね。
この論文はリンク先からPDFで読めますが、全体の構成は、

-------
一、はじめに
二、難太平記の構成
三、了俊の思想
四、恵鎮と玄恵─了俊の認識─
五、「作者は宮方深重の者」の解釈
六、むすび

https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/57/3/57_KJ00009521771/_article/-char/ja/

となっています。
第一節には、

-------
 『難太平記』の研究は、右の記事(以下、「六波羅合戦記事」と称する)を中心に進められてきた。 それは、六波羅合戦記事が『太平記』の作者(作者圏の中心人物を示す場合がある。以下同)・成立に関する貴重な情報を具体的に伝える唯一の資料であるため、『太平記』研究の基礎資料とされてきたからである。
-------

とありますが(p52)、「唯一の資料であるため」に付された注(2)を見ると、近世の『太平記秘伝理尽鈔』には『太平記』の作者・成立に関する記述があるものの、それは『難太平記』の影響を受けている可能性があることが指摘されています。
また、第二節の冒頭に、

-------
 研究史を整理していくと、『難太平記』全体を見渡した論が少ないことに気づかされる。 管見に入った限りでは、寺田弘氏の論を筆頭に、武田昌憲氏・市沢哲氏が作品全体に目を向け検討しているが、それでもまだ応永の乱に関する記事を持つ後半部については、考察の余地が残されているようである。そこで本節では、『難太平記』を政道批判の書として読むべきだという桜井英治氏の提言を踏まえた上で、『難太平記』全体の中での六波羅合戦記事の位置を明らかにすることを目指したい。
-------

とありますが(p53)、「『難太平記』全体を見渡した論が少ないこと」は、確かに『難太平記』の俄か勉強を始めたばかりの私も気になっている点です。
なお、「『難太平記』を政道批判の書として読むべきだという桜井英治氏の提言」は、注(8)をみると『室町人の精神』(講談社、2001)に出ていて、全般的に和田氏は桜井氏の影響を強く受けておられるようです。
ついで、『太平記』の基本的性格については、

-------
『太平記』を足利政権の管理下で成立した公的な史書と認識する了俊が、その『太平記』について言及する最初において、『太平記』の間違いの具体例として六波羅合戦の記事を引いている点に注意したい。足利将軍家にとって最も重要な事件についてさえも間違えがあるとすることによって、以下に指摘・批判する『太平記』に関する自説の信憑性を増そうとする意図が感じられるからである。
-------

とあり(p54)、「公的な史書と認識する了俊が」に付された注(11)を見ると、

-------
(11) 加美宏氏「『難太平記』─『太平記』の批判と「読み」」(『太平記享受史論考』桜楓社、一九八五年。初出一九八四年)参照。
-------

とのことで、和田氏も『太平記』が室町幕府の公的な史書であるとの立場ですね。
この点は、「公的史書である『太平記』には間違いがあるという了俊の主張」(p55)、「『難太平記』所載の「作者」情報を簡潔にまとめると、①了俊は、「近代」書き継ぎ後も作者圏は足利将軍家周辺にあり将軍家が管理していると考えていた」(p57)、そして「「かの」「だに」という言葉からは、以下に語られる今川家の忠節を保証する、足利将軍家の公的史書と信じる『太平記』の作者を重んじる了俊の姿勢が感じ取れる」(p59)という具合いに何度か繰り返されます。
細かいことを言うと、和田氏は『太平記』が公的な史書だと了俊が「主張」しているだけ、即ち客観的に『太平記』が公的な史書であるか否かとは別問題、とされているようにも読めない訳ではありませんが、まあ、客観的にも公的な史書なのだ、と考えるのが和田説なんでしょうね。
さて、私がしつこく検討してきた「降参」については、

-------
 ここで論旨を明確にするために、以上述べてきたことを再度まとめ直しておこう。 A~Cには、足利将軍家の絶対性と、将軍家と今川家の関係を中心とした系譜が語られている。そして、Dで、足利家が天下を取ることが運命づけられた存在であることが再確認され、六波羅合戦も神仏に保証されていた事件であることが述べられている。それを受け、Eでは、それにもかかわらず『太平記』は六波羅合戦で尊氏が「降参」したと間違っていることを批判して、公的史書である『太平記』には間違いがあるという了俊の主張は、客観的事実であることを印象付けようとしている。
-------

とあり(p55)、「降参」に付された注(15)を見ると、

-------
(15)この記事は現存『太平記』にはない。了俊が読んだ本にこの記事があったのか、了俊が読み違えたのか、不明である。
-------

とのことなので、「降参」については和田氏には特別の意見はないようですね。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 今川了俊にとって望ましかっ... | トップ | 日文研シンポジウム「投企す... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

『太平記』と『難太平記』」カテゴリの最新記事