学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学の中間領域を研究。

「薄明のなかの青春」との比較

2021-03-21 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月21日(日)11時52分44秒

尊氏周辺の「新しい女」たちを検討することで、私の想定する尊氏像が清水克行氏の描く「八方美人で投げ出し屋」とは全く異なることも、より明確になってきました。
『臥雲日件録抜尤』享徳四年(1455)正月十九日条の「「尊氏毎歳々首吉書曰、天下政道、不可有私、次生死根源、早可截断云々」は未だに理解できておらず、臨済禅に詳しい人の意見を聞いてみたいところですが、登子との関係を考えると、後半は何だか妙に生々しく感じられてきます。
尊氏は倒幕によって一族の繁栄を得ましたが、登子は家族・一族郎党・友人・知人の大半を失った訳で、それは自身の「生死根源」を自らの手で「截断」したとも言えそうです。
あまりに深読みに過ぎるかもしれませんが、少なくとも登子にとっては、尊氏が毎年「吉書」として書いていた「生死根源、早可截断」は穏やかならざる響きを持った言葉だったように思われます。

「八方美人で投げ出し屋」考(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7312b65bef08f78765acf6cd0cc0242d

さて、清水克行氏の描く尊氏は「病める貴公子」、即ち精神的に複雑に屈折した血統エリートですが、尊氏周辺の「新しい女」たちの存在は、尊氏を恵まれた環境でのびのびと育った教育エリートと把握する私見を補強してくれるものと思います。

(その2)(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/403beb692df2ec12c498dfce1454beda
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6071e3967e92f5fe4f0e9a887bf88d38

(その3)で引用した「十代から二十代前半にかけての多感な年頃に尊氏がおかれた中途半端な立場は、その後の彼の人格形成に少なからぬ影響を与えているように、私には思えてならない」と「そして、彼のもうひとつの心の支えとなったのが、小さいながらも彼が初めて築いた家族であった」の間には、

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 こうした不安定な立場にあったときの尊氏の心の慰めになっていたもののひとつが、和歌の世界であった。尊氏のつくった和歌は、嘉暦元年(一三二六)六月に成立した勅撰和歌集(『続後拾遺集』)に採られており、すでに二十二歳のときに彼は勅撰歌人になっていたことが知られる。しかも、元応元年(一三一九)の『続千載集』のときにも、彼はわずか十六歳で作品を撰者に送っていたらしい。残念ながら、そのときは入選にはいたらなかったが、鎌倉幕府の最末期には尊氏は和歌の世界では、それなりの知名度を得るほどの人物になっていたようだ。
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という文章が入ります。(p25)
清水氏は尊氏にとって和歌が単なる「心の慰め」だとされる訳ですが、私は全く賛成できません。
この点はこれから詳しく論じて行きます。
なお、細かいことですが、『続千載集』の成立は元応二年(1320)ですね。
十六歳は正しくて、僅か十六歳で勅撰歌人を目指すというのは本当に早熟であり、尊氏は自身の能力に相当な自負があったのだろうと思われます。
ところで、(その4)では尊氏と赤橋登子の婚姻時期について少し検討しましたが、尊氏に討幕の意志があることを登子が熟知していたと考える私の立場からは細川重男説が正しいように思われます。
二人の間に「同志」とでも呼ぶべき極めて緊密な信頼関係が築かれるのには、やはりそれなりの時間が必要だったはずです。

(その4)(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/add1b0715d2a158d9168afb12c5230fa
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0027728f59f2a6c06d243ac42a4a2be4

清水氏は「尊氏は生涯にわたり彼に父親としての愛情を示すこともなく、終始、冷たくあしらい続ける。これにより叔父直義の養子とされてしまった直冬は、胸中に尊氏に対する強い憎悪の念を秘め、やがて実の父を死ぬまで追いつめる運命を背負うことになる」とされますが、この点は亀田俊和氏の新説に相当の説得力があり、再検討が必要と思われます。

「尊氏が庶子の直冬を嫌っていたと書かれているのは、『太平記』だけなのです」(by 亀田俊和氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5c4483d8a1c0320d5b998c34598e873a

結論として、清水氏が描いた「薄明のなかの青春」は大半が単なる妄想ではないか、という私見は全く変わっていません。

(その6)(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/60ed2bacbac4c2bf121d2f1dfa4a4c7c
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e2b7abf83ef195fb7cf2f8fefd739935

清水氏が「妾腹の二男坊」という表現を繰り返すことは、釈迦堂殿が頼ったであろう金沢貞顕の経歴と比較しても、やはり適切とは思えません。

「貞顕は、生まれながらの嫡子ではなかったのである」(by 永井晋氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2c9bb3e0633c321b445e4c7d5946e87a

ということで、次の投稿から、尊氏にとって和歌は単なる「心の慰め」ではなかったとの立場から歌人としての尊氏を検討して行きます。
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