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「巻三 藤衣」(その2)─安喜門院・鷹司院・藻璧門院

2018-01-04 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月 4日(木)12時53分57秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p172以下)

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 さきの御門は四つにて廃せられ給ひて尊号などの沙汰だになし。御母后<東一条院>も山里の御すまひにていと心細くあはれなる世を、つきせず思し嘆く。この宮は故摂政殿<後京極良経>の姫君にてものし給へば、歌の道にもいとかしこう渡らせ給へど、大方奥深うしめやかに重き御本性にて、はかなきことをもたやすくもらさせ給はず。御琴なども限りなき音をひきとり給へれど、をさをさかきたてさせ給ふ世もなく、余りなるまで埋もれたる御もてなしを、佐渡の院も限りなき御心ざしの中に、あかずなん思ひ聞えさせ給ひける。かの遠き御別れの後は、いみじう物をのみ思し砕けつつ、いよいよ沈み臥しておはしますに、古く仕うまつりける女房の、里にこもりゐたりけるもとより、哀れなる御消息を聞えて、十月一日の頃、御衣がへの御衣を奉りたりける御返事に、

  思ひ出づる衣はかなしわれも人も見しにはあらずたどらるる世に

また御手習ひのついでに、からうじてもれけるにや、

  消えかぬる命ぞつらき同じ世にあるも頼みはかけぬ契りを

さこそはげに思し乱れけめ。おろかなる契りだに、かかる筋のあはれは浅くやは侍る。いかばかりの御心の中にて過し給ふらんと、いとかたじけなし。
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京極良経の娘、立子が入内する際の様子は先に紹介しました。

「巻一 おどろのした」(その4)─順徳天皇
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/17a180bcfe7ca48f321ac3dc15711280
九条立子(東一条院、1192-1248)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E7%AB%8B%E5%AD%90

さて、次は後堀河天皇の後宮の様子となります。

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 はかなく明け暮れて、貞応もうち過ぎ、元仁・嘉禄・安貞などいふ年も程なくかはりて、寛喜元年になりぬ。この程は光明峰寺殿<道家>また関白にておはす。この御むすめ、女御に参り給ふ。世の中めでたくはなやかなり。これより先きに三条の太政大臣<公房>のおとどの姫君参り給ひて后だちあり。いみじう時めき給ひしをおしのけて、前の殿<家実>の御女いまだ幼くておはする、参り給ひにき。これはいたく御覚えもなくて、三条后宮、浄土寺とかやにひきこもりて渡らせ給ふに、御消息のみ日に千度といふばかり通ひなどして、世の中すさまじく思されながら、さすがに后だちはありつるを、父の殿、摂籙かはり給ひて、今の峰殿〈道家、東山殿と申しき〉なりかへり給ひぬれば、又この姫君入内ありて、もとの中宮はまかで給ひぬ。めづらしきが参り給へばとて、などかかうしもあながちあらん。唐土には三千人など侍ひ給ひけりとこそ伝へ聞くにも、しなじなしからぬ心地すれど、いかなるにかあらん。後にはおのおの院号ありて、三条殿の后は安喜門院、中の度参り給ひし殿の女御は鷹司院とぞ聞えける。今の女御もやがて后だちあり<藻璧門院>。藤壺わたり今めかしく住みなし給へり。御はらからの姫君も、かたちよくおはする、ひきこめがたしとて、内侍のかみになし奉り給ふ。
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後堀河天皇(1212-34)の後宮ですが、最初に太政大臣・三条公房(1179-1249)の娘、有子(1207-86)が貞応元年(1222)に入内、翌年に中宮となり、嘉禄二年(1226)に皇后、そして翌安貞元年(1227)に「安喜門院」の院号宣下があります。
二番目に猪隈関白・近衛家実(1179-1243)の娘、長子(1218-75)が嘉禄二年(1226)に入内、同年中宮となりますが、寛喜元年(1229)、「鷹司院」の院号宣下があります。
三番目として、安貞二年(1228)に関白が九条道家(1193-1252)に替ったことを受けて、道家の娘、竴子(1209-33)が寛喜元年(1229)に入内、翌年中宮となり、天福元年(1233)に「藻璧門院」の院号宣下があります。
御堀河天皇と比べると三条有子が五歳上、近衛長子が六歳下、九条竴子は三歳上で、天皇自身は三条有子を慕い、近衛長子に追い出された形の三条有子が「浄土寺とかやにひきこもりて渡らせ給ふに、御消息のみ日に千度といふばかり通ひなどし」たのだそうですね。
「世の中すさまじく思されながら」はちょっと意味が取りにくいのですが、井上氏は岩波・日本古典文学大系版の頭注(木藤才蔵氏)に従い、後堀河には好かれなかった近衛長子が「世の中を味気なく思いながら」(それでも父が関白なので中宮にはなった)と解されています。
以上、さながら中宮の玉突き状態で、「めづらしきが参り給へばとて、などかかうしもあながちあらん」(新しい方が入内なさったからといって、どうしてこんな風に無理なことになるのだろうか)という『増鏡』作者の感想はもっともな感じがします。

三条有子(安喜門院、1207-86)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E6%9C%89%E5%AD%90
近衛長子(鷹司院、1218-75)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E9%95%B7%E5%AD%90
九条竴子(藻璧門院、1209-33)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E3%81%97%E3%82%85%E3%82%93%E5%AD%90

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