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石川泰水氏「歌人足利尊氏粗描」(その13)

2021-04-21 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月21日(水)11時07分54秒

建武三年(1336)八月十五日、尊氏から治天の君に推戴された光厳院の院宣により、比叡山に登ったままの後醍醐を無視する形で光厳院の同母弟・豊仁親王が践祚(光明天皇)します。
その二日後の十七日、尊氏は「この世は夢の如くに候」という例の有名な願文を清水寺に奉納します。
そして約一か月後、「住吉社法楽和歌」が催されますが、その概要を石川論文から見て行きたいと思います。(p16以下)

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 光明天皇践祚約一ヵ月を経た九月十三日夜、「住吉社法楽和歌」が催行された。時期を考慮すればその目的意識は明瞭であろう。五首題を詠んだ前半と法華経詠三首を詠んだ後半に分かれ、前半の五題は九月十三夜・月前虫・月前擣衣・見月増恋・社頭月。尊氏・直義兄弟を始め、高師直・冷泉為秀ら計十九人が出詠しており、

  玉垣も光そふらしくもりなき御代には月も住吉の浦
                        (尊氏・社頭月)
  いにしへのかしこき御代にたちかへるこの秋やなほすみのえの月
                        (直義・社頭月)
  くもりなき世のしるしとや長月の月も名たかき影をそふらん
                      (為秀・九月十三夜)
  国をまもる光をそへて住吉の宮ゐひさしきよろづ代の月
                        (寛性・社頭月)

等、月に言寄せて新しい御代・時代の訪れを言祝ぐ詠が多く見られ、また

  この秋のなかばを御代の初めとてすゑまではるる月ぞ名高き
                      (広秀・九月十三夜)
  今年しも二夜くもらぬ月の名は明らけき世をてらすなりけり
                      (重茂・九月十三夜)

といった、八月十五日に光明天皇が践祚した事実を踏まえて八月十五日夜と九月十三日夜を並列させたものもあり、

  月にうつ砧の音もなほそひぬをさまりそむる世のしるしとて
                      (直義・月前擣衣)

のような、通常ならば祝意と結び付きにくい題材にまで祝儀性を込めた歌も詠まれている。二夜を均等に並列させた重茂の九月十三夜詠は果たして題意を正確に表し得ているのかいささか覚束なく感じられるし、直義の月前擣衣詠も「砧の音」が何故「さまりそむる世のしるし」になるのか納得しにくいが、これらは祝意を優先させようとするあまりに生じた瑕疵なのであろう。当然の事であろうが、尊氏のみならず、参加者達がこの法楽和歌の意義・目的意識を理解し共有しているのである。
 またここで既に冷泉為秀が加わっている点にも注目される。尊氏と為秀の関係については前掲小林氏の論に詳細であるが、後醍醐天皇との敵対から必然的に大覚寺統寄りの二条家とも疎遠にならざるを得なかった尊氏と、都に進出する上での確実な地盤・権力を求めていた冷泉家の為秀とが、相互の利害関係によって早くも結び付いたという事だろう。但し為秀が大病でも患ったのか、連携が直後から継続するには至らなかったが。
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「住吉社法楽和歌」については、後で井上宗雄氏の『中世歌壇史の研究 南北朝期』に即して参加者等をもう少し詳しく紹介するつもりですが、とりあえず雰囲気だけでも知っておいていただければと思います。
この中で一番可笑しいのは「直義の月前擣衣詠も「砧の音」が何故「さまりそむる世のしるし」になるのか納得しにくい」点で、政治家としては冷静沈着・理路整然といった堅い印象のある直義も、歌人としてはいささか頓珍漢、おっちょこちょいの面があったようです。
また、冷泉為秀は為相の二男で、長子・為成が元徳二年(1330)に没したため、冷泉家を継いだ人です。
二条為家の末子で阿仏尼を母とする為相(1263-1328)は関東を中心に活動し、武家歌人の弟子が多くて、井上氏は「為相において基礎が据えられた冷泉歌学(便宜上、狭義の歌学、歌風、歌論を含めていう)は、為秀というよき後嗣をえて了俊に伝えられ、正徹・心敬へと連なるのであって、この点からみても為相の中世和歌史上における地位は重いものであったといえる」と言われています(『中世歌壇史の研究 南北朝期』p328)。
また、井上氏は「住吉社法楽和歌」に関連して、為秀は「あるいは関東という地縁で足利氏とは旧知の仲であったかと思われる」(p384)とされていますね。
さて、石川論文の続きです。(p17)

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 ところで親後醍醐派の廷臣達が次々と吉野に参仕する中で、二条家は都に留まる方策を選択した。一三三八年に為世が没し、為定の時代になっても、長く大覚寺統に親炙してきた二条家には北朝の持明院統政権下で活躍するチャンスは容易に与えられなかったにも拘わらず、である。彼らを京都に留まらせたさまざまな事情・思惑があったのであろうが、最も大きかったのはやはり「今一度勅撰集の撰者になりたい為」(井上氏)つまり勅撰集編纂に対する執念、或いは勅撰集編纂を任されるのは我々でなければならないという矜持であったと思う。持明院統か大覚寺統かは皇室側の事情に過ぎない。いかなる政権であろうと、その命を受けて勅撰集編纂に当たるのは我々二条家しかあり得ない、そんな思いが彼らを支えていたのではなかったか。
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