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スピーディー過ぎる『梅松論』の日程

2021-04-22 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月22日(木)12時22分16秒

院宣獲得の経緯について、岩佐美代子氏にしては雑なことを言われているなと思ったら、これはおそらく佐藤進一『南北朝の動乱』(中央公論社、1965)の影響ですね。
同書には明確な章立てはありませんが、「公武水火の世」「建武の新政」「新政の挫折」と続いて四番目の「足利尊氏」の章に以下の叙述があります。(p131以下)

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院宣獲得
 第五に注目したい点は、後醍醐・足利両者の人心のつかみかた、時局対処のしかたである。結論からいえば前者の決定的な誤算と立ちおくれであって、その点が一番よくあらわれるのは尊氏の京都敗退から九州の大軍を率いて東上するまでの四ヵ月間である。
 まず尊氏の側について見よう。元弘没収地返付令がいかに機宜の策であったかはすでに述べたが、もう一つ尊氏に勝利をもたらしたものがある。それはかれの持明院統かつぎ出しである。
 尊氏はこれまでつねに後醍醐を敵とよぶことを避けて、義貞相手の戦いであると主張しつづけてきたが、それでも尊氏軍には朝敵とよばれる引け目があった。
「凡そ合戦には旗を以て本とす、官軍は錦の御旗を先だつ。御方〔みかた〕は何〔いづ〕れも是に対向の旗なきゆへに朝敵に似たり」
 尊氏の武将赤松円心(則村)はこういって、持明院統の天子を奉ずることをすすめたという。
 尊氏は丹波から兵庫へ出ようとして三草山を越えたとき、
「天下ヲ君ト君トノ御争ニ成〔ナシ〕テ合戦ヲ致サバヤ」
と考えて、元弘以来日かげ暮らしの持明院統、光厳上皇のもとへ密使をおくった。
 連絡は成功した。そして尊氏が兵庫を落ちて備後の鞆についたとき、京都から光厳の院宣がもたらされた。院宣の使者は醍醐寺三宝院の賢俊。持明院統ともっとも関係の深い日野家の出身で、政治家はだしの僧侶である。賢俊の活躍はいずれまた紹介する機会があるだろう。
 さて、情報伝達ルートをおさえて、兵庫の敗戦を秘したほどの尊氏であってみれば、院宣来たるの朗報を宣伝の武器として最大限に利用したとて不思議ではない。かれは即座に、京都で死んだ大友貞載の遺児にあてて「新院(光厳)の御命令によって、鎮西討伐に下る。おまえたちだけが頼りだ」と手紙を豊後へ送った。諸国の味方に錦の旗を掲げさせたことはいうまでもない。
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「元弘没収地返付令がいかに機宜の策であったか」については、近時は疑問とする研究者が多いようですね。
ま、それはともかく、「凡そ合戦には旗を以て本とす」以下の赤松円心の献策は『梅松論』の丸写しですが、次の「尊氏は丹波から兵庫へ出ようとして三草山を越えたとき、「天下ヲ君ト君トノ御争ニ成〔ナシ〕テ合戦ヲ致サバヤ」と考えて、元弘以来日かげ暮らしの持明院統、光厳上皇のもとへ密使をおくった」は『太平記』の丸写しです。
そして、更にその後の「尊氏が兵庫を落ちて備後の鞆についたとき、京都から光厳の院宣がもたらされた」は『梅松論』の丸写しですね。
ということで、この部分の佐藤著の叙述は『梅松論』『太平記』『梅松論』のまだらの紐状態ですね。
さて、19日の投稿では『太平記』の日程があまりに間延びしているのに対し、「『梅松論』での日程は『太平記』よりも遥かにスピーディーですが、特に無理な展開という訳でもありません」と書いてしまいました。

「持明院殿の院宣」を尊氏が得た時期と場所(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1448ec9e316d69b160f02fd0a47257f2
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c81d4b38849d8de315fc0f14258e8f9d

しかし、よくよく考えてみると『梅松論』の日程はスピーディー過ぎて、こちらも相当に変ですね。
『梅松論』の記述を時系列で整理すると、

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1月晦日 糺河原の合戦、尊氏敗北、丹波篠村へ移動。
2月1日 摂津国兵庫島への移動を決定。
   (三草山、播磨の印南野を経由して)、
3日  兵庫島着。
   赤松円心、第一回目の献策。「摩耶の城」への移動を促すも反対され、円心も了解。
   (大内と厚東の援軍、海路で到来)
10日 新手で都に攻め入ることとし、西宮浜で楠木正成と戦うも決着つかず。
11日 瀬川で新田義貞と戦うも勝てず、被害甚大。
   夜更けに赤松円心、第二回目の献策。西国への移動と「持明院殿」よりの院宣獲得を提案。
   夜中に瀬川の陣を退く。
12日 卯刻(午前6時頃)に兵庫に移動。
   酉刻(午後6時頃)から軍勢が慌ただしく乗船開始。
   戌刻(午後8時頃)、出航。
13日 寅刻(午前4時頃)播磨、室の津着。
   (二日逗留、室津軍議)
15日?備後の鞆着。
   醍醐寺三宝院賢俊を勅使として「持明院」より院宣。
20日 長門の赤間の関着。

http://hgonzaemon.g1.xrea.com/baishouron.html

となりますが、十一日に瀬川で赤松円心の献策(第二回目)を容れて京都に使者を派遣したとしても、十五日に院宣を持参した賢俊が備後・鞆に来るというのはあまりに早すぎます。
タイミング的には二月三日の円心の第一回目の献策の後に京都に使者を送って、十五日に賢俊到来くらいが一番よさそうですが、それは『太平記』はもちろん、『梅松論』からも離れた独自のストーリーですね。
ま、よく分りませんが、一般書とはいえ『太平記』と『梅松論』をまだらの紐にした佐藤著の書き方は相当変ですね。
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