投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月19日(月)13時30分58秒
岩佐美代子氏は【補説】で「太平記によれば尊氏は侍童薬師丸(熊野別当道有)を三草山から京に遣わして、光厳院の院宣を請うた。二月十日打出浜合戦、十一日豊島河原合戦に敗れ、十二日海路九州に落ちるが、その途次、光厳院の院宣を得、四月東上して京を恢復、八月十五日光明天皇を践祚せしめた。すなわち「三草山」は尊氏にとっても光厳院にとっても記念すべき地名」と書かれていますが、ここも『太平記』と『梅松論』を混同した変な記述ですね。
まず『太平記』を見ると、西源院本では第十五巻第九節「「薬師丸のこと」に、前節最後の「二月二日、将軍は曾地を立ち、摂津国へぞ越え給ひける」に続いて、次の記述があります。(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p457)
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この時、熊野山の別当四郎法橋道有、未だ童にて御供したりけるを、将軍、呼び寄せ給ひて、忍びやかに宣ひけるは、「今度の京都の合戦に、御方〔みかた〕毎度打ち負けぬる事、全く戦ひの咎にあらず。つらつら事の心を案ずるに、ただ尊氏徒〔いたず〕らに朝敵なるゆゑなり。されば、いかにもして持明院殿の院宣を申し賜つて、天下を君と君との御争ひになして、合戦を致さばやと思ふなり。御辺〔ごへん〕は、日野中納言殿に所縁ありと聞き及べば、これより京に帰つて、院宣を伺ひ申して見よかし」と仰せられければ、薬師丸、「畏まつて承り候ふ」とて、三草山より暇〔いとま〕申して、即ち京へぞ上りける。
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即ち、「持明院殿の院宣」を得ようとする発想は尊氏自身が「つらつら事の心を案」じた結果出て来たもので、尊氏は二月初めに「日野中納言殿(日野資明)に所縁」がある「薬師丸」に命じて院宣を得ようとしますが、「薬師丸」がいつ戻ってきたのかというと、実は「薬師丸」は『太平記』にただ一ヵ所、ここだけに登場する人物です。
では、いつ誰が「持明院殿の院宣」を尊氏にもたらしたのかというと、それは第十六巻第四節「尊氏卿持明院殿の院宣を申し下し上洛の事」に出てきます。(兵藤裕己校注『太平記(三)』、p49以下)
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さる程に、尊氏卿は、多々良浜の合戦の後、九州の兵一人も残らず付き順〔したが〕ひしかば、靡かぬ草木もなかりけり。【中略】
かかる処に、赤松入道円心が三男則祐律師、得平因幡守秀光、播州より筑紫へ馳せ参つて、「京都より下されたる敵軍、備前、備中、美作に充満して候ふと云へども、これ皆、城を攻めかねて、機〔き〕疲れ粮〔かて〕尽きたる折節にて候ふ間、大勢にて御上洛候ふとだに承り及び候はば、ひとたまりも怺〔こら〕へじと存じ候ふ。御進発延引候ひて、白旗の城攻め落とされなば、自余の城一日も怺へ候まじ。四ヶ所の用害、敵の城になり候ひなば、何十万騎の御勢候ふとも、御上洛は叶ふまじく候ふ。これ、趙王城を秦の兵に囲まれて、楚の項羽が船を沈め釜甑〔ふそう〕を焼いて、戦ひ負けば、士卒一人も生きて帰らじとせし軍〔いくさ〕に候はずや。天下の成功、ただこの一挙にあるべきものにて候ふものを」と、言〔ことば〕を残さず申しければ、将軍、げにもと思ひ給ひて、「さらば、夜を日に継いで上洛すべし」とて、同じき四月二十六日に、太宰府を打つ立ちて、二十八日の順風に纜〔ともづな〕を解きしかば、五月一日、安芸の厳島に船を寄せて、三日参籠し賜ふ。
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「破釜沈船」エピソードは少し創作っぽいものの、他はそれなりにリアルな描写ですね。
このように、いったん九州まで落ちて、三月の多々良浜の戦いで奇跡的な勝利を得た尊氏が、四月、赤松円心の使者・則祐の説得で上洛を決意し、五月、安芸の厳島に入ったところで、「持明院殿の院宣」を持った「薬師丸」ではない人物がやっと登場します。(p50)
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その結願の日、三宝院の賢俊僧正、京都より馳せ下り、持明院殿より成されたる院宣をぞ奉られける。将軍尊氏、院宣を拝見し給ひて、「函蓋〔かんかい〕すでに相応して、心中の所願忽ちに叶へり。向後〔きょうこう〕の合戦に於ては、必ず勝つべし」とぞ、喜び給ひける。去んぬる卯月六日、法皇は、持明院殿にて崩御なりしかば、後伏見院とぞ申しける。かの崩御以前に申し下しし院宣なり。
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ということで、尊氏が三草山で「薬師丸」に命じた三ヶ月後にやっと、日野資明の弟である「三宝院の賢俊僧正」が厳島に来て「持明院殿より成されたる院宣」を尊氏に渡したのだそうですが、その間の三月六日に院宣を発した後伏見院が崩御とのことで、ずいぶんのんびりした、ある意味、間の抜けた展開になっています。
なお、史実では後伏見院崩御は四月六日です。
後伏見天皇(コトバンク)
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%8C%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%A4%A9%E7%9A%87-65906
岩佐美代子氏は【補説】で「太平記によれば尊氏は侍童薬師丸(熊野別当道有)を三草山から京に遣わして、光厳院の院宣を請うた。二月十日打出浜合戦、十一日豊島河原合戦に敗れ、十二日海路九州に落ちるが、その途次、光厳院の院宣を得、四月東上して京を恢復、八月十五日光明天皇を践祚せしめた。すなわち「三草山」は尊氏にとっても光厳院にとっても記念すべき地名」と書かれていますが、ここも『太平記』と『梅松論』を混同した変な記述ですね。
まず『太平記』を見ると、西源院本では第十五巻第九節「「薬師丸のこと」に、前節最後の「二月二日、将軍は曾地を立ち、摂津国へぞ越え給ひける」に続いて、次の記述があります。(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p457)
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この時、熊野山の別当四郎法橋道有、未だ童にて御供したりけるを、将軍、呼び寄せ給ひて、忍びやかに宣ひけるは、「今度の京都の合戦に、御方〔みかた〕毎度打ち負けぬる事、全く戦ひの咎にあらず。つらつら事の心を案ずるに、ただ尊氏徒〔いたず〕らに朝敵なるゆゑなり。されば、いかにもして持明院殿の院宣を申し賜つて、天下を君と君との御争ひになして、合戦を致さばやと思ふなり。御辺〔ごへん〕は、日野中納言殿に所縁ありと聞き及べば、これより京に帰つて、院宣を伺ひ申して見よかし」と仰せられければ、薬師丸、「畏まつて承り候ふ」とて、三草山より暇〔いとま〕申して、即ち京へぞ上りける。
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即ち、「持明院殿の院宣」を得ようとする発想は尊氏自身が「つらつら事の心を案」じた結果出て来たもので、尊氏は二月初めに「日野中納言殿(日野資明)に所縁」がある「薬師丸」に命じて院宣を得ようとしますが、「薬師丸」がいつ戻ってきたのかというと、実は「薬師丸」は『太平記』にただ一ヵ所、ここだけに登場する人物です。
では、いつ誰が「持明院殿の院宣」を尊氏にもたらしたのかというと、それは第十六巻第四節「尊氏卿持明院殿の院宣を申し下し上洛の事」に出てきます。(兵藤裕己校注『太平記(三)』、p49以下)
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さる程に、尊氏卿は、多々良浜の合戦の後、九州の兵一人も残らず付き順〔したが〕ひしかば、靡かぬ草木もなかりけり。【中略】
かかる処に、赤松入道円心が三男則祐律師、得平因幡守秀光、播州より筑紫へ馳せ参つて、「京都より下されたる敵軍、備前、備中、美作に充満して候ふと云へども、これ皆、城を攻めかねて、機〔き〕疲れ粮〔かて〕尽きたる折節にて候ふ間、大勢にて御上洛候ふとだに承り及び候はば、ひとたまりも怺〔こら〕へじと存じ候ふ。御進発延引候ひて、白旗の城攻め落とされなば、自余の城一日も怺へ候まじ。四ヶ所の用害、敵の城になり候ひなば、何十万騎の御勢候ふとも、御上洛は叶ふまじく候ふ。これ、趙王城を秦の兵に囲まれて、楚の項羽が船を沈め釜甑〔ふそう〕を焼いて、戦ひ負けば、士卒一人も生きて帰らじとせし軍〔いくさ〕に候はずや。天下の成功、ただこの一挙にあるべきものにて候ふものを」と、言〔ことば〕を残さず申しければ、将軍、げにもと思ひ給ひて、「さらば、夜を日に継いで上洛すべし」とて、同じき四月二十六日に、太宰府を打つ立ちて、二十八日の順風に纜〔ともづな〕を解きしかば、五月一日、安芸の厳島に船を寄せて、三日参籠し賜ふ。
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「破釜沈船」エピソードは少し創作っぽいものの、他はそれなりにリアルな描写ですね。
このように、いったん九州まで落ちて、三月の多々良浜の戦いで奇跡的な勝利を得た尊氏が、四月、赤松円心の使者・則祐の説得で上洛を決意し、五月、安芸の厳島に入ったところで、「持明院殿の院宣」を持った「薬師丸」ではない人物がやっと登場します。(p50)
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その結願の日、三宝院の賢俊僧正、京都より馳せ下り、持明院殿より成されたる院宣をぞ奉られける。将軍尊氏、院宣を拝見し給ひて、「函蓋〔かんかい〕すでに相応して、心中の所願忽ちに叶へり。向後〔きょうこう〕の合戦に於ては、必ず勝つべし」とぞ、喜び給ひける。去んぬる卯月六日、法皇は、持明院殿にて崩御なりしかば、後伏見院とぞ申しける。かの崩御以前に申し下しし院宣なり。
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ということで、尊氏が三草山で「薬師丸」に命じた三ヶ月後にやっと、日野資明の弟である「三宝院の賢俊僧正」が厳島に来て「持明院殿より成されたる院宣」を尊氏に渡したのだそうですが、その間の三月六日に院宣を発した後伏見院が崩御とのことで、ずいぶんのんびりした、ある意味、間の抜けた展開になっています。
なお、史実では後伏見院崩御は四月六日です。
後伏見天皇(コトバンク)
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