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「もっとも、尊氏が敗走している段階では院宣にもさしたる効果はなく」(by 呉座勇一氏)

2021-04-23 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月23日(金)11時59分29秒

室津軍議については佐藤進一『南北朝の動乱』(中央公論社、1965)に二ページにわたる叙述があって(p125以下)、「こうして室津の軍議でうち出された軍事配備が足利氏今後の守護体制の原型になる」(p126)という結論となっていますが、清水克行氏も「二月十三日、播磨国の室津(現在の兵庫県たつの市)の軍議において、軍事指揮官として「国大将」を中国・四国地方に定める。これにより西国の武士たちが足利方として組織化された」(『足利尊氏と関東』、p60)ということで、相当な高評価ですね。
しかし、室津軍議をさほど重視しない研究者もいて、中でも呉座勇一氏は冷ややかですね。
『戦争の日本中世史 「下剋上」は本当にあったのか』(新潮社、2014)から少し引用してみます。(p112以下)

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 同年二月、尊氏は篠村から兵庫にいったん退き、態勢を整えた上で京都奪回を試みるが、摂津豊島河原(現在の大阪府箕面市・池田市辺り)の合戦で新田義貞・北畠顕家軍に敗れ(『梅松論』では赤松円心の献策により尊氏が自主的に撤退したとあるが、脚色だろう)、兵庫に撤退する。
 この時、直義が血気にはやって兵庫から摂津摩耶城(現在の神戸市灘区摩耶山に所在)に進出し、京都奪回のため決死の突撃を行なおうとした。これを知った尊氏が使者を送って直義を説得したため、直義は兵庫に帰還した(『梅松論』)。普段は冷静な直義がヤケクソになるぐらいだから、この敗戦はよほどショックだったのだろう。
 尊氏はさらに兵庫を出帆し室津に停泊する。ここで尊氏方は善後策を検討する。結論としては、尊氏は九州に渡って再起を図り、態勢挽回までの間は諸将が山陽道各国と四国に散らばって後醍醐方の追撃を阻止するということになった。これは研究者の間では結構有名な作戦会議で、「室津軍議」と呼ばれる。室津軍議の詳細については後述する。
 再起を図るというと聞こえは良いが、九州に渡れば勢いを盛り返せるという確たる見通しがあったわけではないので、なるべく京都から遠く離れた方が安全だろうという程度の漠然とした判断に基づきひたすら逃げたというのが実情であろう。だいぶスケールは異なるが、毛沢東の「長征」のようなものである。
 とはいえ、尊氏はただ逃げていただけではなく、この間、密かに京都の光厳上皇と連絡をとり、院宣を獲得している(『梅松論』)。これまで足利方は後醍醐天皇に逆らう「朝敵」とみなされており、「官軍」である新田・北畠・楠木らと戦う際、精神的な負い目を感じていた。だが光厳上皇のお墨付きを得れば、戦争の構図は<官軍 VS朝敵>ではなく<後醍醐天皇方 VS光厳上皇方>となり、大義名分の上で対等になる。もっとも、尊氏が敗走している段階では院宣にもさしたる効果はなく、この布石が生きてくるのは、少し先のことになる。
 尊氏は九州で少弐頼尚ら地元の武士に迎えられる。同年三月、尊氏は筑前多々良浜(現在の福岡市東区)の戦いで後醍醐方の菊池武敏の大軍を撃破、九州の制圧に成功した。
 私たちは尊氏が最終的に天下を取ることを知っているので、「ああ、ここで態勢を立て直したのね」と軽く流しがちだが、現実には圧倒的に不利な戦況から逆転した奇跡的大勝利であった。尊氏は多々良浜の戦いの前に、地蔵菩薩に窮地を救われる夢を見ており、戦いに勝てたのは地蔵菩薩の御加護があったからだと考えた(『空華日用工夫略集』)。以後、尊氏は地蔵信仰に目覚め、尊氏が描いた地蔵の絵は今でも複数残っている。尊氏の主観でも勝利が"奇跡"だったことが良く分る。
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「室津軍議の詳細については後述する」とありますが、これはp121から四ページ分書かれていて、私にはとても説得的に思われます。
ま、室津軍議自体は専門研究者に任せるとして、私にとって興味深いのは呉座氏が「尊氏が敗走している段階では院宣にもさしたる効果はなく、この布石が生きてくるのは、少し先のことになる」としている点ですね。
前回投稿で『大日本史料 第六編之三』の延元元年二月十二日条から大友文書と三池文書をそれぞれ一点引用しましたが、実は編者が「尊氏直義西下ノ途次、或ハ書ヲ諸氏ニ移シ、或ハ所領ヲ与ヘ、寺領ヲ寄セシコト、又ハ将士ノ来リテ尊氏ニ属スル等ノコト、各文書ニ散見セリ、今其兵庫解纜ヨリ赤間関ニ至ルマテニ係レルモノヲ、左ニ合叙ス」としている多数の古文書のうち、院宣に言及しているのはこの二つだけです。
佐藤進一は、

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さて、情報伝達ルートをおさえて、兵庫の敗戦を秘したほどの尊氏であってみれば、院宣来たるの朗報を宣伝の武器として最大限に利用したとて不思議ではない。かれは即座に、京都で死んだ大友貞載の遺児にあてて「新院(光厳)の御命令によって、鎮西討伐に下る。おまえたちだけが頼りだ」と手紙を豊後へ送った。諸国の味方に錦の旗を掲げさせたことはいうまでもない。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6cf438df2f963061f2b68d436b4dbc63

と言っていますが、『大日本史料 第六編之三』延元元年二月十二日条に掲載された多数の古文書を見ると、別に尊氏は「院宣来たるの朗報を宣伝の武器として最大限に利用した」訳ではなく、院宣が効き目のありそうな、この種の紙切れを有難がりそうな相手にだけ「院宣来たるの朗報」を知らせただけと見るのが素直ではないかと思われます。
普通の武士は恩賞だけに興味があるのであって、それを約束すれば十分そうな相手にはわざわざ「院宣来たるの朗報」を伝える必要はないはずです。
さて、新田一郎氏も院宣の効果に懐疑的のように見えるので、次の投稿で『日本の歴史11 太平記の時代』(講談社、2001)を少し検討したいと思います。
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