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大杉栄『自叙伝』

2014-03-30 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月30日(日)10時50分28秒

>筆綾丸さん
>フューチュア
勝俣鎮夫氏、ちょっと訛ってますね。
もともと鎌倉時代の貴族社会が好きで中世の勉強を始めた私にとって勝俣氏は全然縁のない人だったので、同氏の著書・論文もあまり読んでいなかったのですが、例の「国民国家」論には呆れてしまいました。
正直、何でこの人が東大教授になれたのだろう、くらいに思っているのですが、でもまあ、勝俣「国民国家」論についての検討を急ぐ必要もないので、同氏をより正確に理解するためにご紹介の論文を含め、いくつかあたってみるつもりです。

>日影茶屋
昔、大杉栄の『自叙伝』を読んだことがありますが、父母とも軍人の家系に生まれた大杉栄はしょっちゅう猫や犬をいじめて殺していたような、本当に変な子供だったそうですね。
長じてからもあまりに自由奔放、というか異常な行動を続け、人に刺されたのも神近市子が初めてではなかったそうですから、NHK大河ドラマにできない有名人番付を作ったら上位入賞は間違いなしですね。
まあ、甘粕事件でも殺されたのが大杉栄一人だけだったら、世間もそれほど騒がなかったかもしれないですね。

ネットで検索したら、大杉栄にずいぶん好意的な人のサイトがありました。

『自叙伝』も今は「青空文庫」で読めますね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

日蔭茶屋事件のあとさき 2014/03/28(金) 21:16:38
小太郎さん
勝俣鎮夫氏『中世社会の基層をさぐる』の中の「バック トゥ ザ フューチュアー」を読みましたが、僭越ながら、素晴らしい論考ですね。
むかし、永井荷風の『つゆのあとさき』を読んだとき、小説の内容はともかく、なぜ「あとさき」で「さきあと」ではないのだろう、と思い、以来疑問でしたが、なかなか難しい問題なのですね。
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(心中して生きのびた二人が)さきにて行あひ、幽霊かと思ひ胆をけし、(「昨日は今日の物語」一六二〇刊)
(中略)
「アトヨリモ見事ナ花が開イタゾ」(「江湖風月集略注鈔二」寛永十年・一六三三年刊)(12頁)
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前者の「サキ」は未来の意、後者の「アト」は過去の意で、戦国時代、特に16世紀に新たな語意が生まれたようだ、と勝俣氏は言われます。「あとさき」という語への言及はありませんが、おそらく、これは戦国時代以後のもので、「つゆのあとさき」は「梅雨の前後」となり、時間の因果がスッキリしますね。
Back to the Future という表現はホメロスの『オデュッセイ』に由来し、背中から未来へ入って行く、というニュアンスがあり、ポール・ヴァレリーもよく同じような文句を好んだ、といような記述が続き、格調の高いエッセーのようですね。こういう洒脱な文章を読むと、中世史はいいなあ、と思いますが、桜井氏の『中世史への招待』では、中世史はつまらんのだろうな、という気になります。

http://www.chaya.co.jp/hikage/hikage_news.html
なお、同署の「あとがき」と桜井氏の「解説」には、葉山の海辺の茶屋に遊び、美味しい料理を楽しみ盃を重ねた、とありますが、これは葉山マリーナに近い日影茶屋なのだろうな、きっと。以前行ったとき、店員さんに、大杉栄が神近市子に刺されたのはどの辺でしたか、と尋ねたら、中庭の灯篭を指して、あの辺だと聞いております、ということでした。茶屋の前の道を三浦方面にしばらく行くと、『吾妻鏡』所載の森戸神社があり、そのさきは葉山の御用邸で、さらに行くと、鏡花の『草迷宮』の舞台ですね。運慶の仏像がある浄楽寺もこの辺ですね。

また、東島誠氏『公共圏の歴史的創造』には、
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・・・詩歌の世界においては、宗末元初の漢詩集『江湖風月集』(松坡宗憩編)が鎌倉末期から愛好されており・・・(274頁)
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と、江湖風月集への言及がありますね。
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