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明治維新で帳尻合わせ?

2014-03-30 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月30日(日)13時31分18秒

桜井英治氏の「中世史への招待」では、「腕のよい職人たちのそろった下請け町工場」 に所属する職人さんの名前を 具体的に挙げてはいませんが、桜井氏が本文中や注記で取り上げるに値すると思った人は基本的には「職人」ではない、ということですかね。
法史学関係では、新田一郎氏の『日本史リブレット19 中世に国家はあったか』は(注)14に登場しますね。
本文p13以下に、

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 一方、これは過去との連続性を強調する議論に往々にしていえることだが、かつて石井進も注目した三上次男の日本文化の累積性に関する発言をいま一度想起してみる必要はないだろうか。
 文化には移り変わる文化と累積する文化があり、日本の歴史はたしかに多くの点で後者の特徴を示していると思われる。そこでは古い要素が保存される傾向が強い。過去に使える皮袋があれば、わざわざ新調したりはせず、古いものをそのまま使いつづける傾向があるのだ。(14) そのようなタイプの文化においては、社会や制度のなかに古い要素、過去との連続性を見つけだそうと思えばいくらでも見つけだすことが可能である。それは当然のことだろう。
 しかしそれには代償がともなう。過去との連続性を強調することは、不可避的に変化の画期を先送りすることにつながるのだ。その先のどこかに別の画期、しかもひじょうに大きな画期を設けないことには帳尻が合わなくなるわけである。その先のどこかとは秀吉の太閤検地であったり、さらにはずっと下って明治維新であったりするのだろうが、本人にその意図がなくても、結果的にはそれらの革新性を強調せざるをえなくなるだろう。その結果描き出される歴史像は、漸進的に変化するイメージではなく、長い停滞とドラスティックな変化とをくり返す革命史的なイメージとなることが必至だが、はたしてそのことは自覚されているだろうか。
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とあって、注記に、

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(14)三上次男『日本の美術 別巻 陶器』平凡社、一九六八年、註4石井文献。なお、新田一郎『日本史リブレット19 中世に国家はあったか』(山川出版社、二〇〇四年)のいう「政治的資源」も、このような「皮袋」のひとつに数えられよう。
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とあります。
秀吉の太閤検地で帳尻合わせをするのは、古くは「中世を家父長的奴隷制社会と見る安良城盛昭説」(p10)、新しくは「室町・戦国期における荘園制の存続を強調する」見解(p11)でしょうが、明治維新で帳尻合わせしようとする学説とは何なのか。
中世史の研究者で明治維新まで言及する人自体が極めて稀であることを考えると、もしかしたらこれは水林彪氏の『天皇制史論 本質・起源・展開 』(岩波書店、2006年)への批判ですかね。
桜井氏が水林氏の描く歴史像は「漸進的に変化するイメージではなく、長い停滞とドラスティックな変化とをくり返す革命史的なイメージ」だと捉えているとすれば、それはたぶん誤解だと思いますが。

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