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『五代帝王物語』の「かしこくも問へるをのこかな」エピソード

2018-01-07 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月 7日(日)16時38分26秒

さて、暫く前から『増鏡』の記事が『五代帝王物語』を参考資料としていることに触れてきましたが、『増鏡』で最も劇的な場面のひとつ、東使・安達義景が土御門殿に向かうエピソードにも『五代帝王物語』が大幅に引用されています。
他方、両者の間には重要な違いもあるので、それを具体的に見て行きます。
『五代帝王物語』においては、既に紹介したように、四条天皇が近臣や女房を転ばせて笑おうと思って弘御所の板敷を滑りやすく細工したところ、自分が滑って頭を打ち、四日後に死んでしまったという経緯を露骨に描いた後、かなり長いモノノケ話を挟んで、関東へ使者を出す話になります。

「巻四 三神山」(その3)─四条天皇崩御
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ca597edec3cd8bc67c6d4495b5080308

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………思がけぬ下臈の夢にも、是ほどの御事を見たりける。ふしぎの事也。さて関東へ早馬立て馳下たれば、泰時はおしふし酒宴して遊けるに、かかる御事と聞て、物はいはずつい立て、障子はたとたてて内へ入て、こはいかがせんずる、泰時運すでに極たり。此事を計ひ申さずして、京都の御沙汰ならば、散々の事出きぬべし。計ひ申さんとせば、小量の身あるべき事にもあらず。進退ひはまりたりとて、三日三夜寝食を忘れて案けるが、何ともあれ土御門院の御末をこそとは心中におもひけれども、所詮神明の御計ひに任べしとて、若宮社へ参て孔子をとりたりけるに、土御門院の宮ととりたれば、さればこそ愚意の所案相違なしと思ひて、やがて城介義景を使にて、其よしを申けるほどに、何の岩屋とかやより義景馳帰りければ、又いかなる勝事の出来たるやらんとて、泰時さはぎけるに、義景申けるは、若すでに京都の御計ひにて、順徳院の宮つかせ給たらばいかがあるべきと申けるを、泰時返々感じて、此事を申落たりける。わ殿をのぼするは加様の事の為也。いみじく問たり。何条子細あるまじ。よしさる御事あらばおろしまいらすべしと申含けり。
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ということで、二年前に既に死んでいた北条時房(1175-1240)は登場せず、「小弓射」云々もなく、北条泰時が酒宴の席にいたところに京都からの使者が到着します。
この後、『増鏡』では泰時が単に若宮社で籤を取ったとあるだけですが、『五代帝王物語』では、知らせを聞いた泰時は、京都で勝手に決めさせたら大変な事態が起きる可能性がある、しかし自分のような身分の者が判断するのも躊躇われるとして、三日三夜悩んだ後、内心では土御門院皇子が良いだろうと思いつつ、神様の判断に任せようと思って若宮社で籤と取ったら土御門院皇子と出た、「愚意の所案相違なし」と喜んで安達義景を京都への使者として送り出します。
ところが安達義景が途中から戻ってきて、もし朝廷側で順徳院皇子と決めていたらどうしたらよいか、と質問します。
この質問に泰時は感心し、「そのことを忘れていた。貴殿を使者とするのはまさにそのような事態にもきちんと対応してもらうためだ。よくも問うてくれた。かまうことはない。そんなことがあったら順徳院皇子を引き摺り下ろすまでだ」と言うことで、三日三夜逡巡したにしてはずいぶん大胆な、朝廷側の意向など何とも思っていない独裁者感に溢れる回答をします。
これ、どこかで聞いたような話ですが、古来、『増鏡』屈指の名場面とされている「かしこくも問へるをのこかな」のエピソードにそっくりですね。
『増鏡』「巻二 新島守」で、承久の乱に際し、大将軍として鎌倉を出立した北条泰時が、翌日、たった一人で北条義時のもとに駆け戻ってきて、戦略や戦術については了解したけれども、仮に後鳥羽院自身が最前線に出てきて戦う姿勢を示したらどうすべきか、と質問したところ、義時が「賢くも尋ねたものだ、わが子よ」と答える場面とパターンが全く同じです。

「巻二 新島守」(その6)─北条泰時
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3d4146484cdebdcd9701adc3d2ee5105

まあ、実際には四条天皇急死の情報は、朝廷対応の経験が長く、沈着冷静な六波羅探題北方・北条重時(1198-1261)が、九条道家ら有力者の意向に関する情報とともに、自分の妹を妻とする土御門定通に相談した上で作成した対処案、即ち土御門院皇子案を泰時に提示し、それを泰時が了解したということだと思いますので、別に泰時は三日三夜悩むこともなく、安達義景も途中から引き返すこともなかったはずです。
要するに『五代帝王物語』版の「かしこくも問へるをのこかな」エピソードは作り話でしょうね。
そして『増鏡』作者は『五代帝王物語』版の「かしこくも問へるをのこかな」エピソードを承久の乱ヴァージョンに改作して『増鏡』に取り入れた、ということになりそうです。

北条重時(1198-1261)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E9%87%8D%E6%99%82

『五代帝王物語』では続いて安達義景の通告を受けた朝廷側の人々の反応を描いていますが、こちらは細かい点を除き『増鏡』にそのまま取り入れられていますね。

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京には又いかにも順徳院の宮にておはしますべし。子細あるまじとて内々御装束の寸法までさだめられ、した用意してぞ有ける。此宮をば世には広御所の宮と申。其時はいまだ童体にておはします。後には元服して忠成王とぞ申。御祖母の修明門院の四辻の御所には、今日関東の使つくと聞えければ、人々あまた参聚て只今吉事をきかせんずる気色にてあれば、土御門院御母承明門院の御所には人もまいらず。かいすみたりけるに、もしの事もこそあれとて、土御門内府<定通公>只一人、なえらかなる直衣にてぞさぶらはれける。或人のかたり侍りしは、土御門院の旧臣のあたりの人々、あまりのおぼつかなさに今夜東使つく也。いかがあるとて、三四人つれて、三条河原へ出て見ければ、初夜のほどに義景河原へ打出たりけるが、三条京極にして承明門院の御所へはいづくをまいるべきぞと申をとのしければ、夢かやとおもふ程に、土御門万里小路なれば、京極を上りにて候べしと云ものあり。実否を慥に見んとて、先だちて参たれば、東使まさに土御門殿へまいりてみれば、庭には草おひ茂りて人のふみたるあともなし。門もあかねば扉もゆがみてあかざりけるを、武士ども、とかくひらきて、義景中門の砌に候けるに、内府出あひたれば、土御門院の宮御位につかせ御座すべきよし申入て退出ぬ。面々に只夢の心地してぞありし。後まで尼にて承明門院に候し弁局と申女房は、さればこれはまことかやとて、あしここのめんたうに倒れありきける。理におぼえておかしく侍ける。
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細かい異同の指摘は省略します。

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