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羽咋市の思い出

2015-01-08 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月 8日(木)23時18分33秒

>筆綾丸さん
>中沢・赤坂両氏
ちょっと思い込みの激しいところは共通していますね。

>能登一ノ宮気多大社
私も一度だけ参詣したことがあります。
神社本庁離脱を図り、文科省と裁判で争ったので一部で有名な神社でしたが、ウィキペディアを見たら、結局、気多大社側が勝訴したようですね。

ご紹介の羽咋市のページには「(折口が)歌人としても得意な才能を発揮しました」とありますが、これは「特異」ですかね。
私にとって羽咋市で一番印象に残ったのは気多大社でも折口父子でもなく、「日本で唯一車で走れる砂浜 千里浜(ちりはま)なぎさドライブウェイ」でした。
普通車で砂浜を走る爽快さは今でも忘れ難いですね。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

土田杏村 2015/01/08(木) 22:09:24
小太郎さん
中沢・赤坂両氏は網野氏に関心があるのに、網野氏の関心の対象であった網野町の所在地に無頓着というのは、不思議なことですね。

石川公彌子氏の『〈弱さ〉と〈抵抗〉の近代国学』を所々読んでみたのですが、どうも、あまり面白くありません。
氏は、大学時代、ある事件に巻き込まれて精神的に病み、休学して廃人のような日々を過ごした(「あとがき」246頁)という経験から、近代国学の<弱さ>の表象ともいうべき折口信夫のテキストを詠み込んだそうです。

http://www.city.hakui.ishikawa.jp/sypher/www/info/detail.jsp?id=2256
「折口の墓がある能登一ノ宮気多大社はオオクニヌシを祀っており、地形的にも出雲大社と類似性がある」(註 第三章74、242頁)とありますが、これだと、折口の墓が大社の境内にあるように読めてしまいます。むかし訪ねたときの記憶では、折口の墓は大社のすぐ近くにありましたが、境内ではなかったですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E8%B0%B7%E5%BE%A1%E6%9D%96
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2013/06/102222.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E7%94%B0%E6%9D%8F%E6%9D%91
冨士谷御杖の「言霊倒語論」を象徴主義とする土田杏村の説が紹介されていますが(96頁)、清水真木氏の『忘れられた哲学者』を読んでみようかと思います。帯文の「現象学と華厳思想に定位する「象徴主義」の哲学」に惹かれます。

以下の、篤胤神道へのキリスト教の影響(「註 序章8」224頁)は、面白いですね。
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篤胤の未定稿『本教外篇』は利瑪竇(Matteo Ricci、一五五二~一六一〇年)の『天主実義』『畸人十編』や艾儒略(Giulio Aleni)『三山論学紀』などのイエズス会宣教師たちの天主教書からの翻案であり、篤胤の死生観にはキリスト教の影響がみられる(村岡典嗣「平田篤胤の神学に於ける耶蘇教の影響」[一九二〇年、『日本思想史研究』、岡書院、一九三〇年所収])
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