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「三井寺の甲之上人、腰かがまり、眉白く、誠に徳たけたる有様にて」

2015-01-19 | 網野善彦の父とその周辺

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月19日(月)11時12分22秒

>筆綾丸さん
ウィキペディアの日野資朝の項、

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文保2年(1318年)の後醍醐天皇即位後も院司として引き続き花園院に仕えていたが、元亨元年(1321年)に後宇多院に代わり親政を始めた後醍醐天皇に重用されて側近に加えられた。このことで父俊光が資朝を非難して義絶したという。
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と説明し、注記で『花園院宸記』元亨2年11月6日条と明記しており、なかなかの優良記事ですね。
以前、『徒然草』第154段に関し、「京極派盆栽説」というのを書きましたが、着想のときは冗談のつもりだったのに、書いている途中でまんざら冗談でもないような妙な感じになりました。
今読み返しても、けっこう真面目な議論として通用するのじゃないかなと思います。

京極派盆栽説
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c65abdeea6bfda4faf8d355fcef4b301

『徒然草』第152段も、何だか最近同じようなことを書いたような妙な気分です。

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 三井寺の甲之上人、腰かがまり、眉白く、誠に徳たけたる有様にて、内裏へまゐられたりけるを、昆野寺内大臣伸幸殿、「あなたふとの気色にや」とて、信仰の気色ありければ、小太郎卿これを見て、「年のよりたるに候」と申されけり。後日に、尨犬の浅ましく老いさらぼひて、毛はげたるをひかせて、「この気色尊くみえて候」とて、内府へ参らせられたりけるとぞ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8a5f5d31b7d8616eee31d6fbaf2c046d

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

寓喩? 2015/01/18(日) 23:09:56
小太郎さん
『網野善彦対談集「日本」をめぐって』の、石母田氏のパーキンソン病の話は痛ましいですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8E%E8%B3%87%E6%9C%9D
第百五十段は持明院派と大覚寺派に関する寓喩なのかもしれないですね。前者は「不具に異様なる」「かたは者どもの」や「たぐひきなき曲者」どもの集まりで、後者は「すなほに珍しからぬ」者たちの集まりで、後醍醐は異形な王などではなく常識的な王であった、というような・・・。あるいは、この話は資朝の転向後の自己嫌悪の寓喩なのかもしれず、「さもありぬべき事なり」とは、兼好自身にも何か似たようなことがあったことを暗示しているのかもしれないですね。(あの時代、党派の変更など侍臣にとって転向(conversion)というほどのことではなかったかもしれませんが)

http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163901916
須田桃子氏『捏造の科学者ーSTAP細胞事件』を読み始めましたが、これは面白いです。

『東アジアのなかの建長寺』「蘭渓道隆」(西尾賢隆氏)に、「四川の蘭渓邑生まれの道隆は、地名(ちみん)を道号とする」(166頁)とありますが、彭丹氏のコラム「道隆出蜀」が正しいなら、四川省に「蘭渓邑」などというものは存在しなかったことになりますね。
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