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網野善彦氏の「みずみずしい感性」と後深草院二条

2015-01-15 | 網野善彦の父とその周辺

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月15日(木)12時47分43秒

筆綾丸さんご紹介の毎日新聞のコラム、記念に『問はず語り』関係のみ保存しておきます。

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余録:鎌倉時代に書かれた「問はず語り」によれば…
毎日新聞 2015年01月14日

鎌倉時代に書かれた「問はず語り」によれば、女たちに組みつかれた後深草上皇は粥杖(かゆづえ)でさんざんたたかれたという。粥杖とは正月15日の粥を煮る時の薪(たきぎ)を削った杖。その日貴族たちは女も男もいり交じって、その杖でお尻をたたき合った▲平安時代の「狭衣物語」は書いている。「十五日には若い人たちが集まり、美しい粥杖を後ろに隠しながら互いの隙(すき)をうかがい、打たれまいと身構える姿やどうにかして相手を打とうと思っているさまが何ともおかしい」▲粥杖は邪気を払う呪力があると考えられ、お尻を打たれると子宝に恵まれるとの俗信があったそうな。後の世で嫁のお尻を柳の枝などでたたいて子宝が授かるよう願う小正月の風習のルーツらしい。その昔、多くが正月14日の夜から15日に行われた小正月の諸行事だ▲
http://mainichi.jp/opinion/news/20150114k0000m070102000c.html

『問はず語り』と『狭衣物語』に着目するとは、このコラムの執筆者はなかなかの古典通ですね。
『問はず語り』の粥杖の場面は網野善彦氏の『蒙古襲来』にも大量に引用されていますが、これは1974年という出版の時点を考えると驚くべきことです。
『問はず語り』の発見後、家永三郎氏が非常に早い段階で『問はず語り』に着目したのを唯一の例外として、生真面目な歴史学者たちは『問はず語り』など無視していたのですが、永原慶二氏の弟子である田沼睦氏が和知の場面を地方武士の生態を知ることのできる貴重な史料として紹介し、それに見た網野善彦氏が、おそらく当時参照できた唯一の注釈書である富倉徳次郎氏の筑摩叢書『とはずがたり』(1969、筑摩書房)を入手し、これは素晴らしい「史料」だと考えて『蒙古襲来』で大量に引用したのだろうと推測できます。

宮廷の左義長
http://web.archive.org/web/20150830053422/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/amino.htm
『とはずがたり』巻2.粥杖の報復に作者院を打つ
http://web.archive.org/web/20150517011437/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa2-2-kayuduenohoufuku.htm

『現代思想 総特集網野善彦』における呉座勇一氏の『蒙古襲来』書評によれば、五味文彦氏は『蒙古襲来』を「概説書であるが、鎌倉時代末期の社会をみずみずしい感性と精力的な実証で明らかにした」と賛辞を寄せているそうですが(五味文彦『大系日本の歴史5 鎌倉と京』)、この粥杖事件に関する記述など、まさに網野善彦氏の「みずみずしい感性」が伺われる部分ですね。
ただ、それが「精力的な実証」に基づいているかは別問題で、1970年頃、相生山の「生駒庵」において、自らが普通の学者莫迦に見られる程度の朴念仁や唐変木のレベルを超越した純粋なアンポンタンであることを実証した網野善彦氏が性悪女に騙されているだけのようにも見えます。
網野善彦氏は四十半ばになっても少年の心を持ち続けた人なので、『問はず語り』のような複雑な性格の書物を扱うのには無理が多かったのだろうなあと、不遜にも私は思います。
なお、網野氏は粥杖事件だけでなく、二条が鎌倉に下って平頼綱とその妻、息子たちと交流する場面も、全くの史実として『蒙古襲来』に取り上げていますね。

「得宗御内人の専権」-御内人と尼僧二条
http://web.archive.org/web/20061006211202/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/amino-yoshihiko-tokusou-miuchibito.htm

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

粥杖と納豆と黍団子 2015/01/14(水) 18:35:32
小太郎さん
http://mainichi.jp/opinion/news/20150114k0000m070102000c.html
http://www2.ntj.jac.go.jp/unesco/kabuki/jp/5/5_04_18.html
毎日新聞の一面下欄の「余録」に、『とはずがたり』の粥杖の話が引用されているので、びっくりしました。後深草院の名が全国紙の一面に載ったのは、もしかすると、空前の出来事かもしれませんね。『三人吉三廓初買』ではありませんが、こいつぁ春から縁起がいいわえ(?)。

http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG13HAQ_T10C15A1CR0000/
歌会始の選者(篠弘)の歌ですが、新年に宮中で「古本市」を詠む感覚は遁世者のようで、なかなか凄味がありますね。また、入選歌のなかには「本」を詠み込まないルール違反で意味不明の歌がありますが、雉と云い鬼と云い島と云い、新年に何故なのかということはさておき、これは桃太郎の鬼退治の話でしょうか。(「桃太郎の鬼退治」という「絵本」が「日本」にはある、ということか。なぜこの歌が選ばれたか、新年の謎です)

http://www.nikkei.com/article/DGXKZO81829260Q5A110C1EL1P01/
http://www.akitafan.com/special/detail.html?special_id=80
日経新聞で初めて知ったのですが、真偽はともかく、納豆の発祥には後三年の役の八幡太郎が関係していたのですね。
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