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相生山「生駒庵」の謎(その1)

2015-01-08 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月 8日(木)23時21分42秒

網野町のことは中沢新一氏の単なる知識不足で、まあ、どうでも良いような話ですが、中沢氏が『網野善彦を継ぐ。』(講談社、2004年6月)の次に出された『僕の叔父さん 網野善彦』(集英社、2004年11月)には(私見では)本当に深刻な勘違いがありますね。
しかも、中沢新一氏のみならず、網野善彦氏とその一家を巻き込んだ壮絶な勘違いで、結果的に網野善彦氏の学問にも大きな影響を残したように思えます。
そこで長文になってしまいますが、関係部分を少し丁寧に引用してみます。(p20以下)
なお、引用文中、いささか当掲示板の品位にかかわる表現があるので、その部分は伏字とします。
興味を持たれた方は、どうぞ『僕の叔父さん 網野善彦』を購入して自ら確認していただきたいと思います。

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 大学生になると、私と網野さんのつきあいはいっそう深まっていった。都立北園高校の先生をしながら書き上げた『中世荘園の様相』(一九六六年)を出版したあと、網野さんは名古屋大学に職を得ることになった。最初は単身赴任だったが、一年ほどして家族みんなで名古屋に住むようになった。昭和区(現天白区)相生山の広漠とした丘陵地帯に建てられた新しい団地アパートが、今度の住まいである。
 私は大学生になってから、沖縄や奄美や、鹿児島の南方に点在する離島に、足繁く旅をするようになった。たいていは夜行列車と船を利用しての旅だったから、九州からの帰り道にはかならず名古屋で途中下車して、いそいそと相生山の団地へ向っていった。
(4ページ中略)
 その頃の名古屋の郊外の丘陵地に続々とつくられていた住宅地は、どこも潅木の生い茂る原野の只中に立っているような、じつに殺風景な風情をしていた。風が舞い上がると、乾燥した白っぽい砂埃が、目に飛び込んできた。いたるところで土地の掘り崩しや地ならしがおこなわれていた。癖の強い美濃の世界が切り崩されて、かわってその上に平均に地ならしされた福祉社会がつくられようとしていた。網野さんの一家と私は、その日曜日の午後、団地の周辺に広がる潅木の林を抜けながら、激しい勢いで変貌をとげつつあるこの郊外の丘陵地帯の散策を行った。
 歌を歌ったり冗談を言い合ったりしながら、潅木の林の中を歩いていると、突然目の前に古い小さな日本家屋が出現した。民家のようでもあるけれど、どことなく水商売風の雰囲気も漂っている。見ると入り口には「生駒庵」という看板が掛けてあり、その脇に「焼き鳥、野鳥もあります」と染め抜いた旗が、風になびいている。こんなところに焼き鳥屋があるのも不思議だったが、網野さんは何かピンときたらしく、お腹もすいたし、どうだい、焼き鳥を食べてみようよ、とずんずんその庵に入っていってしまうのだった。

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