学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

『とはずがたり』の政治的意味(その1)

2022-02-07 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月 7日(月)12時56分15秒

>筆綾丸さん
>金沢貞顕くらい知的であれば、あの方の話はどこまでホントなのか、よくわからなくてねえ、と苦笑していたような気もしますが、

昨日は四分前の御投稿だったので暫く気づかず、失礼しました。
金沢貞顕は弘安元年(1278)生まれなので二条より二十歳下ですね。
永井晋氏の『人物叢書 金沢貞顕』(吉川弘文館、2003)によれば、

-------
 貞顕の名は、得宗北条貞時の「貞」と父顕時の「顕」を組み合わせたものであろう。「顕」の字は、北条顕時が仕えた宗尊親王の後見大納言土御門顕方からきたものと思われる。
-------

とのことなので(p3)、もともと通親流の村上源氏と縁のある人です。
そして、母が摂津国御家人遠藤為俊の娘(入殿)で(p4)、

-------
母方の遠藤氏は、摂津国と河内国にまたがる大江御厨を本領とした一族である。大江御厨には良港として知られた渡辺津(大阪府大阪市東区)があった。渡辺氏は、この港を管理する渡辺惣官を務めていた。また、摂関家とのつながりも深く、為俊は摂家将軍九条頼経の時代に鎌倉に下り、幕府の奉行人を勤めた。
-------

とのことで(同)、貞顕は、いわば生まれた時から東西の政治と文化の接点に立つことを求められていた存在ですね。
ただ、父・顕時の正室が安達泰盛の娘であったため、顕時は弘安八年(1285)の霜月騒動に連座し、出家して下総国埴生荘に隠棲し、貞顕も出世の出鼻を挫かれた形になりますが、八年後の永仁元年(1293)四月、顕時は平禅門の乱の僅か五日後に鎌倉に復帰し、十月、北条貞時が引付を廃して新設した執奏の一人に選任されます。(p12)
そして、

-------
 翌永仁二年十月、顕時は引付四番頭人に移った。顕時が赤橋邸を使い始めたのは、この頃からと思われる。赤橋邸は鶴岡八幡宮赤橋の右斜前、得宗家の赤橋邸とは若宮小路を挟んで正対した位置にあり、鎌倉の一等地である。顕時がこの館を与えられたことは、得宗北条貞時の厚い信頼を得ていたことを示している。
 十二月二十六日、貞顕が左衛門尉に補任され、同日付で東二条院蔵人に補任された。貞顕十七歳である。貞顕が初任とした左衛門尉は、微妙な立場の官職である。
-------

ということで(p13)、この後、武家の官職に関する永井氏の怒涛の蘊蓄が披露されますが、あまりに詳しすぎるので全て省略して、貞顕に関する結論だけ引用すると、

-------
 貞顕の場合、初出仕が遅いのは霜月騒動の影響であろう。また、左衛門尉という初任の官職は父顕時の左近将監よりも低い。これは、庶子の扱いである。低い官職からスタートしたため、右近衛将監転任によってようやく他家の嫡子並の地位に就いている。また、貞顕は東二条院(後深草天皇の中宮西園寺公子)の蔵人を兼務した。女院蔵人は六位蔵人に転任する慣例を持つ役職であるが、この兼務は形式的なものと考えてよい。
-------

とのことです。(p15)
「形式的」とはいえ、貞顕にとって東二条院との関係は名誉であり、嬉しいものではあったでしょうね。
ところで、『とはずがたり』によれば、前斎宮エピソードの直前くらいから東二条院と壮絶なバトルを繰り広げていた二条は、結局、東二条院に完全敗北して弘安六年(1283)頃、宮中を追放されてしまいます。
『とはずがたり』では、巻三の最後、弘安八年(1285)の北山准后九十賀に参加した後の二条の動静は暫らく不明となりますが、『増鏡』「巻十一 さしぐし」には、正応元年(1288)六月二日、三月に践祚したばかりの伏見天皇の許に西園寺実兼の娘(後の永福門院)が入内した際に、

-------
 出車十両、一の左に母北の方の御妹一条殿、右に二条殿、実顕の宰相中将の女、大納言の子にし給ふとぞ聞えし。二の車、左に久我大納言雅忠の女、三条とつき給ふを、いとからいことに嘆き給へど、みな人先立ちてつき給へれば、あきたるままとぞ慰められ給ひける。


という具合いに、「久我大納言雅忠の女」が「二条」ではなく「三条」という名前で登場します。
そして、『とはずがたり』巻四では、正応二年(1289)、既に出家して尼になっている二条が東海道を旅して三月に鎌倉に入り、八月、将軍惟康親王が廃されて京都に送還される場面に「たまたま」立ち合います。


ついで十月、後深草院皇子の久明親王が新将軍として迎えられるに際し、東二条院から贈られた「五つ衣」の裁断の仕方について悩んでいた平頼綱の「御方とかや」の依頼により、二条は嫌々ながら平頼綱邸に出向いて、平頼綱室に適切な指導を行います。
また、将軍御所の内装についても監修を依頼されたので、これも嫌々ながら指導します。
更に二条は久明親王到着後の儀式にも招かれたようで、「御所には、当国司・足利より、みなさるべき人々は布衣なり」(次田香澄『とはずがたり(下)全訳注』、p238)などと、幕府要人を眺めていますね。


ここで「当国司」は北条貞時、「足利」は尊氏・直義兄弟の父、貞氏(1273-1331)と思われますが、この時期の貞氏は十七歳という若年であり、幕府の要職に就いていた訳でもないので、北条貞時との並置は些か奇妙な感じがします。
ただ、二条の母方の叔父・四条隆顕(1243-?)の母親は、鎌倉時代に足利家の全盛期を築いた義氏(1189-1255)の娘なので、足利貞氏は四条家を介して二条の縁者でもあり、そのためにここで特別扱いされているようです。
なお、足利貞氏の正室・釈迦堂殿は金沢顕時と安達泰盛娘の間に生まれた女性なので、貞顕の異母姉(or妹)であり、足利家と金沢北条氏は緊密に結びついていますね。

高義母・釈迦堂殿の立場(その1)~(その3)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

言葉というもの 2022/02/06(日) 13:53:08
小太郎さん
二条の「聞く力」ならぬ「騙す力」は、マルガリータ白聴の影響がまだあるのかもしれませんが、大したものだと感心します。物語作者としては至上の快楽で、本懐と言うべきですね。
ではあるけれども、金沢貞顕くらい知的であれば、あの方の話はどこまでホントなのか、よくわからなくてねえ、と苦笑していたような気もしますが、言葉は魔物だな、とあらためて感じます。
もし二条が『吾妻鏡』を読んでいたら、野暮ねえ、ダラダラ無骨な話ばかりで、sophistication というものがまるでないのね、なんで司馬遷の『史記』のようにキビキビ書けないのかしら、とかなんとか、言ったかもしれないですね。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 佐々木和歌子氏の基本認識(... | トップ | 後深草院二条の「非実在説」... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説」カテゴリの最新記事