投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月 8日(火)21時42分44秒
佐々木和歌子氏は「解説」で、
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ここまで書くと、私たちはずいぶん彼女のことを理解したような気になる。けれども実は、後深草院二条の非実在説なるものが存在する。というのも、作中に多くの歌を残しているのに、勅撰集にその名もなく、家集も存在しない。さらに雅忠の娘であることは確かなのに、系譜や官位を明らかにする『尊卑分脈』の雅忠の項に「女」の記載がない。もし後深草院との間に生まれた皇子が成人していれば母として彼女の名前がどこかに刻まれたかもしれないが、皇子が早逝したせいか、どこにもその記録がない。つまり彼女の存在を示すものは、『とはずがたり』だけなのである。
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と書かれていますが(p465)、「非実在説」が具体的に誰の学説かが分かりません。
ウィキペディアにも「作者の実在性や、その内容にどこまで真偽を認めるかについては諸説ある」などとありますが、「虚構説」の代表として引用されている田中貴子氏の見解も二条の実在まで疑っているようには見えません。
国会図書館サイトで検索しても、「非実在説」らしい論文は見あたらず、「非実在説」が本当に実在するのかが目下の私の疑問なのですが、何か御存知の方は御教示願いたく。
『日本古典への招待』(ちくま新書)
それと、前回投稿では金沢貞顕に深入りしてしまいましたが、共通テストをきっかけに当掲示板・ブログに来られる人が増えた機会に、改めて基礎から『とはずがたり』と『増鏡』の関係を検討しようとしていたにもかかわらず、ちょっと先走ってしまいました。
次の投稿からは前斎宮の場面に戻って、『とはずがたり』と『増鏡』の原文を丁寧に見て行くことにしたいと思います。
なお、二条と金沢貞顕の関係について興味を持たれた方は、以下の記事などを参照してください。
「白拍子ではないが、同じ三条であることは不思議な符合である」(by 外村久江氏)
「白拍子三条」作詞作曲の「源氏恋」と「源氏」
「越州左親衛」(金沢貞顕)作詞の「袖余波」
『とはずがたり』と『増鏡』に登場する金沢貞顕
第三回中間整理(その6)
『とはずがたり』の妄想誘発力
>筆綾丸さん
>佐々木和歌子氏の「『とはずがたり』は疾走している」
佐々木氏の「葬送の車を裸足で追いかける二条は、もうやめようもうやめようと思っても、その足を止めることができない。このくだりはあたかも映画を見るような鮮やかな展開を見せ、中世文学がこの記事で確実にひとつ先に進んだことを読者は知るだろう」という文章は妙に面白いですね。
私自身は別に「中世文学がこの記事で確実にひとつ先に進んだ」とは思いませんが、「あたかも映画を見るような鮮やかな展開」であることは確かで、だったらこの場面は「映画」なんじゃないの、と考えるのが素直なはずです。
舗装道路ではないデコボコ道を裸足で走るのは大変だから、美しい場面だけど、まあ、フィクションだよね、という方向に進みそうなものなのに、佐々木氏は何故にこれが事実の記録だと考えるのか。
「訳者あとがき」を見ると、佐々木氏は自身の出産後の経験と『とはずがたり』の出産記事の比較から、
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作品のすべてに共鳴するのは難しい。だけど、一つだけでも自分とシンクロする部分があれば、作中の人物は立体感を持って目の前に立ちあがってくる。異なる時代の人と一瞬目を交わし合ったような、この感覚。だから私は古典文学が好きだ。
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という具合いに「自分とシンクロする部分」を発見され(p487)、『とはずがたり』の「リアリズム」に魂を撃ち抜かれてしまったようですね。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
嫌々ながら雑巾掛けする女 2022/02/08(火) 17:39:54
小太郎さん
佐々木和歌子氏の「『とはずがたり』は疾走している」の「疾走」は、おそらく、小林秀雄『モーツァルト』の「モーツァルトのかなしみは疾走する。涙は追いつけない」という有名な表現を意識したものだと思います。つまり、後深草院の葬列を裸足で追いかける二条、という場面のBGMには、モーツァルトのシンフォニー第40番がよく似合う、と佐々木氏は考えているような気がします。違う、と私は思いますが。
前回の『鎌倉殿の13人』に、牧の方(宮沢りえ)が伊豆山権現社の欄干で嫌々ながら雑巾掛けするユーモラスなシーンがありましたが、二条って、たぶん、あんな感じの女性だったんじゃないかな、と思いました。
小太郎さん
佐々木和歌子氏の「『とはずがたり』は疾走している」の「疾走」は、おそらく、小林秀雄『モーツァルト』の「モーツァルトのかなしみは疾走する。涙は追いつけない」という有名な表現を意識したものだと思います。つまり、後深草院の葬列を裸足で追いかける二条、という場面のBGMには、モーツァルトのシンフォニー第40番がよく似合う、と佐々木氏は考えているような気がします。違う、と私は思いますが。
前回の『鎌倉殿の13人』に、牧の方(宮沢りえ)が伊豆山権現社の欄干で嫌々ながら雑巾掛けするユーモラスなシーンがありましたが、二条って、たぶん、あんな感じの女性だったんじゃないかな、と思いました。
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