第190回配信です。
一、前回配信の補足
小秋元段氏は、
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菅のこの見解には以後少なからぬ反論が出るのであるが、筆者にはそれ以前に、この記事が崇光天皇の受禅を述べたものなのか疑問が残る。というのも、京大本には「東宮」の下に小字双行で「本景◆仁、光厳院」という注記があって、これによるならば、この記事は光厳院(諱は量仁)の重祚について述べたものとして解釈できるからである。もっとも、寛正本ほかの諸本には「去程ニ景◆仁ノ御子受禅アルヘシトテ…」とあって、光厳院の子、崇光天皇の記事であることが明瞭に記されている。しかし、のちに第三章「『梅松論』の構成と『太平記』」で考察するように、『梅松論』は恐らく「原太平記」の影響で、史実とは異なる光厳院重祚の虚構を作品に取り込んでいると考えられる。【後略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b942d75fd1df93f0dca1b8077d6496e9
と言われているが、「寛正本ほかの諸本には「去程ニ景◆仁ノ御子受禅アルヘシトテ…」とあって」は不正確。
「去程ニ景仁ノ御子受禅アルヘシトテ…」は寛正本(古本系)の表現であって、流布本は異なる。
0189 小秋元段氏「『梅松論』の成立」(その3)〔2024-10-09〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6024d87ec216935bc663cf9bb8eb5b98
また、天理本(古本系)は確認中。
小助川元太氏の『行誉編『壒嚢鈔』の研究』(三弥井書店、2006)で翻刻されているらしい。
https://x.com/IichiroJingu/status/1844175558722322779
二、「先代様をめぐる論議」について
資料:小川信「『梅松論』諸本の研究」(その1)(その2)〔2024-10-08〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cb5cea7128848f79c779cee16c70e3fc
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6e12b2c0d65e7b0f14cc8bc6221d5d0e
小川信氏の結論は、
ーーーーーーー
このようにして我々は『梅松論』原本の形態をほぼ復原することが可能となる。それは「ナニカシ法印」を語り手とし、児二人を聞き手、老尼・比丘尼達を書き手とする、鏡物を模倣した体裁を有し、先代様をめぐる論議の部分があり、他方京大本の付加した部分や、天理本・流布本の改作した個所を除去した形態である。かかる原本の性格は、主に流布本に拠っていた本書の著述年代や著者に関する通説にも批判的な材料を提供する筈である。
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というもの。
「先代様をめぐる論議」は諸書の異同を考える上で特に重要なので、少し詳しく検討したい。
小秋元段氏は、
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菅のこの見解には以後少なからぬ反論が出るのであるが、筆者にはそれ以前に、この記事が崇光天皇の受禅を述べたものなのか疑問が残る。というのも、京大本には「東宮」の下に小字双行で「本景◆仁、光厳院」という注記があって、これによるならば、この記事は光厳院(諱は量仁)の重祚について述べたものとして解釈できるからである。もっとも、寛正本ほかの諸本には「去程ニ景◆仁ノ御子受禅アルヘシトテ…」とあって、光厳院の子、崇光天皇の記事であることが明瞭に記されている。しかし、のちに第三章「『梅松論』の構成と『太平記』」で考察するように、『梅松論』は恐らく「原太平記」の影響で、史実とは異なる光厳院重祚の虚構を作品に取り込んでいると考えられる。【後略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b942d75fd1df93f0dca1b8077d6496e9
と言われているが、「寛正本ほかの諸本には「去程ニ景◆仁ノ御子受禅アルヘシトテ…」とあって」は不正確。
「去程ニ景仁ノ御子受禅アルヘシトテ…」は寛正本(古本系)の表現であって、流布本は異なる。
0189 小秋元段氏「『梅松論』の成立」(その3)〔2024-10-09〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6024d87ec216935bc663cf9bb8eb5b98
また、天理本(古本系)は確認中。
小助川元太氏の『行誉編『壒嚢鈔』の研究』(三弥井書店、2006)で翻刻されているらしい。
https://x.com/IichiroJingu/status/1844175558722322779
二、「先代様をめぐる論議」について
資料:小川信「『梅松論』諸本の研究」(その1)(その2)〔2024-10-08〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cb5cea7128848f79c779cee16c70e3fc
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6e12b2c0d65e7b0f14cc8bc6221d5d0e
小川信氏の結論は、
ーーーーーーー
このようにして我々は『梅松論』原本の形態をほぼ復原することが可能となる。それは「ナニカシ法印」を語り手とし、児二人を聞き手、老尼・比丘尼達を書き手とする、鏡物を模倣した体裁を有し、先代様をめぐる論議の部分があり、他方京大本の付加した部分や、天理本・流布本の改作した個所を除去した形態である。かかる原本の性格は、主に流布本に拠っていた本書の著述年代や著者に関する通説にも批判的な材料を提供する筈である。
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というもの。
「先代様をめぐる論議」は諸書の異同を考える上で特に重要なので、少し詳しく検討したい。
資料:京大本・天理本の上巻冒頭〔2024-10-10〕
(1)京大本
登場人物
「御室の御所より出世達、なにがし法印、誰かれの僧都、阿闍梨の御坊や児達」
具体的には、
「法印とをぼしき年鳩仗に及る」
「卅余なる僧」と「廿七八斗なる僧」
「児二人」「一人は廿斗かとみへて」「一人は十五六と覚ゆる」
「房官と見へて七十に及老法師一両輩」
「ひたゐ付の跡みゆる遁世者」
聞き手
「古尼比丘尼一二人」
稚児が「当世何事も誠しく穏便なる事をば先代様と申て貴賤口遊候、何なる謂ぞや承度候」と質問。
最初に「尺八さしたる遁世者」
「鎌倉第一の寺、建長寺の仏殿に地蔵千体、毘盧宝閣に釈迦千体、円通閣に観音千体立給ふ故に、関東には万勝たる事を千体様と申て、仏より起たる詞にて候」
次に「侍法師」
「是も仏の御事とは意得て候へ共、其意はたと替て候也、其故は観音地蔵の二菩薩は闡提神処の悲願に一切衆生を皆成仏せしめん、一人もゝらさじとの誓願也、此二菩薩はかりなき御事なれば左様なる風情をば先代様と意得侍」
次に「七十斗と見る法師事の外に色黒く、つらにくげなる」「覚弁」
「覚弁は更に左様には不意得、面々の仰以外僻事をの給ふ歟、愚僧は武家の人には常に会合の次、承しは、過にし事を後に申事は去年は今年の先代、初花は遅桜の先代、青葉は紅葉の先代、是をこそ申候へ」
次に「法印」
「我等も仏数千体又地蔵観音の二闡提などは不思寄事也、只覚弁の如被申意得候也、其支証は堂社には先別当先座主と申、是程のせうこ何か候べき」
これを聞いて「少人」(稚児)
「面々田舎人などに対して、識者立し給人者、仏千体二闡提は、さては御誤にて御渡候ける」
(法印に打向て)
「御意の先代同候者、能々承候はや」
「法印」
「参籠の間行事もことのぶべし、明日の夜少々可申」
翌日
「法印」
「覚弁被申候先代同事にて候へ共、少は相替たる様を申べし、能々聞給へ、元弘年中に滅亡せし関東の事歟、重て上の其主は誰と申すべきや、答曰、是こそ大事なれ、代の主と可申きは国王にてこそをわしませ、それは昔の公家一統なりし時の事也、治承四年に武家遺跡絶より以来、頼朝の後室二位の禅尼の計として公家より将軍を申下て、北条遠江守時政が子孫等を執権として関東に於て天下を申沙汰せし代也、然に元弘の比高時の執権のきざみ一族等、相供同時に滅亡して当御代安楽の代になる間、御代の先の代なれば先代と申習せる也」
闡提
https://kotobank.jp/word/%E9%97%A1%E6%8F%90-550530
(2)天理本
登場人物
「御室の御所より某の法印の御籠」
具体的には
「法印と覚敷て齢鳩杖に及べる老僧」
「年の程三五二八と覚しき少人二人り」
「出世両人」
「晩出家と覚敷て月代見る禅僧」
「其外侍法師遁世者なんどあまたぞ候ひける」
「折節参詣の者共の無何事共云しろふ中に、先代様の人なんめりと申す声して過にけり」
これを聞いて、
「少人」(稚児)
「只今申つる先代様とは何事にて侍るぞ若し先代と申所の侍て彼こに住む人の風情の世に替て有やらん」
最初に「遁世者」(「粗忽気なる声にて」)
「是は鎌倉建長寺の仏殿に地蔵千体、毘盧宝閣に釈迦千体、円通閣に観音千体立給故に関東様には古めきたる事を先代様と申也、仏より事発て候」
次に「青侍法師」
「仏の御事とは承共、爾<しか>には非ず、地蔵観音の二菩薩は闡提の悲願御座して一切衆生を皆悉成仏せしめむ、若一人も残らば正覚を成じと誓給、此願は実に慈悲深く、忝く侍共余に不審に覚へ候、其故は業より生を受け生より業を重ぬる間、四生六道の輪廻、何をか始とし何をか終りと申べき、就中胎卵湿化の四生より生じて体を受る数卅二億余と説るゝは経文なれば何れの世にか尽べき、然ば此二菩薩を闡提と申様に、世の間に其期無き奔走を致し、或は宿習に依て貧なる人の過分の福徳を願、加様の事を闡提様と申と承り侍る」
次に「若き侍法師」
「只何事も過にし方を先代と申にや去年は今年の先代、初花は遅桜の先代、青葉は紅葉の先代也」
次に「出世」(窈※<なまめい>たる声して)
「何れも意得ず侍り、先づ万づ過行事を皆強ち先代と可申に非ず、往事渺茫として光陰人を不待、花月に昵し旧人多く古墳の苔に埋もれ、風雲流水の客、漕行船の跡の浪に同じ、赤鳥の影移り易く、白兎の光留まり難ければ、行水の帰らぬ年波をかぞふるに仏涅槃も既に二千余廻を隔たり、積し薪の跡も無く、立やもしほの夕煙り昨日の雲の跡の山風、加様に飛鳥の跡無き事を皆先代とは申し侍らじ、誠にいかゝ侍る」
次に「入道」(「少し訛<なま>れる老声にて」)
「元弘年中に滅亡せし関東の事にてぞ候覧」
これに対し「最初に尋給し少童」
「さて其主をば誰とか申候」
「入道」
「此御尋こそ大事に侍れ、代の主と申さば国王にてこそ渡せ給へけれ共、其は昔の公家一等也し時の事也、治承四年に武家遺跡断絶せしより以来、頼朝の後室二位禅尼の計として公家より将軍を申下て北条の遠江守の時政が子孫等執権して、関東に於て天下の事を申沙汰せし時の代なれば、先代をや主と申さむ、然に元弘の比高時の執権の刻み一族等相共に同時に滅亡して、当御代安楽の代に移る間、御代の先たるに依て先代と申習せるにや」