学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

0186 『梅松論』における反逆を正当化する論理

2024-10-06 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第186回配信です。


「反逆を正当化する論理」という観点から『梅松論』を検討。

(1)承久の乱における北条義時と泰時の対話

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泰時:「身にあたつて今勅勘を蒙る事、なげきても猶あまりあり。たゞ天命のがれがたき事なれば、所詮、合戦をやめ降参すべきよしをしきりにいさめける」

義時:「此儀、尤〔もつとも〕神妙なり。但それは君主の御政道正しき時の事也。近年天下のをこなひをみるに、公家の御政古にかへて実をうしなへり。其子細は朝に勅裁有て夕に改まるに、一処に数輩の主を付らる間、国土穏なる処なし。わざわひ未及処はおそらく関東計也。治乱は水火の戦に同じきなり。如此の儀に及間〔およぶあひだ〕、所詮、天下静謐の為たるうへは、天道に任て合戦を可致、若〔もし〕、東士利を得ば、申勧たる逆臣を給て重科に行べし。又、御位におひて彼院の御子孫を位に付奉るべし。御向あらば冑をぬぎ弓をはづし頭をのべて参るべし」

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3464c89bc02637fba5899bee7de9af0a


(2)幕府への反逆

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是非なく持明院の御子の光厳院立坊の間、後醍醐院逆鱗にたへずして、元弘元年の秋八月廿四日、ひそかに禁裏を御出有て山城国笠置山へ臨幸あり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8d366f209c7533ddae11465d5385f680

後醍醐は幕府が「後嵯峨院の御遺勅」に反して皇位を定めることに「逆鱗」して笠置山に向かう。
足利家は反逆の正当性は全面的に後醍醐に依存し、独自の正当化論理なし。


(3)後醍醐天皇への反逆

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 をよそ合戦には旗をもて本とす。官軍は錦の御旗をさき立つ。御方は是に対向の旗なきゆへに朝敵にあひにたり。所詮持明院殿は天子の正統にて御座あれば、先代滅亡以後、定て叡慮心よくもあるべからず。急て院宣を申くだされて、錦の御はたを先立らるべきなり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5d164a25f2380cbd3581775fddd2d8df

後醍醐(大覚寺統)の権威を持明院統で相殺する。
「朝敵」ではない形をとる。
しかし、まだ積極的に足利家の支配を正当化するには至っていない。

足利家独自の支配の正当性の論理は何か。
末尾の夢窓疎石を引用しての事書→結局は足利尊氏と直義のカリスマ性か。
「カリスマ的支配」

資料:『梅松論』の終わり方〔2024-10-06〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9ae308a32a563f87488e056fcba76899
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資料:『梅松論』の終わり方

2024-10-06 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
矢代和夫・加美宏校注『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』(現代思潮社、1975)
http://www.gendaishicho.co.jp/book/b527.html

序文
p36以下
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 何〔いづ〕れの年の春にや有けん。二月〔きさらぎ〕廿五日を参籠の結願に定て北野の神宮寺毘沙門堂に道俗男女群集し侍りて、或は経陀羅尼を読誦し、或は坐禅観法を凝し、あるひは詩歌を吟じけるに、更闌夜寂にて松の風梅の匂何れもいと神さびて心すみわたり侍りけり。
 角〔かく〕て暫く念珠の隙有けるに、有人の云、かゝる折節申せば憚あれども御存知ある方もやあるとおもひ侍て、多年心中の不審を申也。知召かたもあらば御物語あれかし、抑〔そもそも〕、先代を亡して当代御運を開かれて、栄曜代に越たる次第、委く承度候。誰にても御語り候へかしと申し侍りければ、良〔やや〕静返りてありけるに、なにがしの法印とかや申て、多智多芸の聞えありける老僧出て申けるは、とし老ぬるしるしに古よりの事ども聞をき侍しをあら/\かたり申べき也。失念定て多かるべし、其をも御存知あらん人々、助言も候へと申されければ、本人は申に不及、満座是こそ神の御託宣よと悦の思をなして聞侍けるに、法印いはく、爰に先代と云は元弘年中に滅亡せし相模守高時入道の事なり。承久元年より武家の遺跡絶えてより以来、故頼朝卿後室二位禅尼のはからひとして、公家より将軍を申下りて、北条遠江守時政が子孫等を執権として、於関東天下を沙汰せしなり。



p136以下
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 かゝるところに、越前の国金崎は翌年建武四年三月六日没落す。義貞は先立て囲みを出で、子息越後守自害しければ、一宮も御自害あり。春宮をば武士むかへとりたてまつりて、洛中へ入進〔いれまゐ〕らせけり。見たてまつる上下、むかしもいまも、いまだかゝる御事はなしとて、涙をながさぬ者ぞなかりける。此城に兵糧尽て後は、馬を害して食し、廿日あまり堪忍しけるとぞうけ給はる。いきながら鬼類の身となりける後生、をしはかられて哀なり。
 かゝりし間、東西南北の御敵、将軍の御旗のむかふ所に、誅罰くびすをめぐらさず、日月を追てぞ静謐しける。

一、ある時、夢窓国師談義の次〔ついで〕に、両将の御徳を条々褒美申されけるに、先〔まづ〕将軍の御事を仰られけるは、国王大臣、人の首領と生るゝは、過去の善根の力なるあいだ、一世の事にあらず。ことに将軍は君を扶佐し、国の乱を治むる職なれば、おぼろげの事にあらず。異朝の事は伝〔つたへ〕きくばかりなり。我朝の田村・利仁・頼光・保昌、異賊を退治すといへども、威勢国に及ず。治承より以来、右幕下〔うばくか〕頼朝卿兼征夷大将軍の職、武家の政務を自専にして、賞罰私なしといへども、罰の苛〔からき〕故に仁の闕〔かく〕るかとみえ、今の征夷大将軍尊氏は仁徳をかね給へるうへに、なを大なる徳在なり。
 第一に、御心強にして、合戦の間、身命を捨給ふべきに臨む御事、度々に及といへども、笑を食【含】で怖畏の色なし。第二に、慈悲天性にして、人を悪〔にく〕み給事をしりたまはず、多く怨敵を寛宥ある事一子のごとし。第三に、御心広大にして物惜〔おしみ〕の気なく、金銀・土石おも平均に思合て、武具、御馬以下の物を人々に下〔くだし〕給ひしに、財と人とを御覽じ合〔あはさ〕ず、御手に任て取給ひしなり。八月一日などに、諸人の進物ども、数もしらずなりしかども、皆、人に下し給しほどに、夕に何ありともおぼえずとぞ承りし。実〔まこと〕に三つの御躰、末代にありがたき将軍なりと、国師談義のたびごとにぞ仰〔おほせ〕ありける。

一、聖徳太子は四十九院を作置〔おき〕、天下に斎日を禁戒し、聖武天皇の東大寺・国分寺を立〔たて〕、淡海公の興福寺を建立し給ひしは、上古といひ、皆応化の所変なり。今の両将もたゞ人とは申べきにあらず。殊に仏法に帰し、夢窓国師を開山として天龍寺を造立し、一切経書写の御願を発し、みづから図絵し、自讃御判あり。又御大飲酒の後も、一座数刻の工夫をなしたまひしなり。

一、三条殿は六十六ヶ国に寺を一宇づつ建立し、各安国寺と号し、同塔婆一基を造立して所願を寄られ、御身の振舞廉直にして、げに/″\敷〔しく〕いつはれる御色なし。此故に御政道の事を将軍より御譲りありしに、同く御辞退再三に及ぶといへども、上御所御懇望ありしほどに御領状あり。其後は政務の事におひては、一塵も将軍より御口入〔くにふ〕の儀なし。
 ある時御対面の次〔ついで〕に、将軍、三条殿に仰せられていはく、国を治る職に居給上は、いかにも/\御身を重くして、かりそめにも遊覧なく、徒〔いたづら〕に暇をついやすべからず。花、紅葉はくるしからず。見物などは折によるべし。御身を重くもたせ給へと申〔まうす〕は、我身を軽く振舞て諸侍に近付〔づき〕、人々に思付れ、朝家をも守護したてまつらんとおもふゆへなり、とぞ仰られける。此重【条】は凡慮をよばざる所とぞ感じ申されし也。
 抑〔そもそも〕夢窓国師を両将御信仰有りける始は、細川陸奥守顕氏、元弘以前義兵を揚むとて、北国を経て阿波国へおもむきし時、甲斐国の恵林寺〔えりんじ〕におひて国師と相看〔しやうかん〕したてまつり、則〔すなわち〕受衣〔じゆえ〕し、其後両将之引導申されけり。真俗ともに勧め申されしによて、君臣万年の栄花を開き給ふ。目出度〔たく〕、ありがたき事どもなり。

一、或時、両御所御会合ありて、師直并〔ならびに〕故〔ふるき〕評定衆をあまためして、御沙汰の規式少々さめられける時、将軍おほせられけるは、むかしをきくに、頼朝卿廿ヶ年の間、伊豆国におゐて辛労して、義兵の遠慮をめぐらされし時分、平家悪行無道にして、万民の歎いふばかりなかりしをさけん為に、治承四年に義兵を発し、元暦元年は朝敵を平げし、其間の合戦五ヶ年也。
 彼政道を伝聞〔つたへきく〕に、賞罰分明にして先賢の好〔よく〕するところ也。しかりといへども、猶以〔もつて〕罰の苛〔からき〕方多かりき。是によて氏族の輩以下、疑心を残しけるほどに、指錯〔させるあやまり〕なしといへども、誅伐しげかりし事いと不便〔ふびん〕なり。当代は人の歎なくして、天下おさまらん事本意〔ほい〕たるあいだ、今度は怨敵をもよくなだめて本領を安堵せしめ、忠功をいたさん輩におゐては、ことさら莫太の賞を行なはるべきなり。此趣をもて、めん/\扶佐したてまつるべきよし仰いだされし間、下御所殊に喜悦ありければ、師直并に故評定衆、各かたじけなき将軍の御意を感じたてまつりて、涙をのごはぬともがらぞなかりし。唐尭・虞舜は異朝の事なれば是非におよばず。末代にもかゝる将軍に生れあひ奉りて、国民屋を並〔ならべ〕、楽み栄けるこそめでたけれ。

 去程に春宮〔とうぐう〕、光厳院の御子御即位あるべしとて、大嘗会〔だいじようゑ〕の御沙汰ありて、公家は実〔まこと〕に花の都にてとありし。いまは諸国の怨敵、或は降参し、或は誅伐せられし間、将軍の威風四海の逆浪を平げ、干戈と云事もきこえず。されば天道は慈悲と賢聖を加護すなれば、両将の御代は周の八百余歳にもこえ、ありその海のはまの砂なりとも、此将軍の御子孫の永く万年の数には、いかでかおよぶべきとぞ法印かたり給ひける。
 或人是を書とめて、ところは北野なれば、将軍の栄花、梅とともに開け、御子孫の長久、松と徳をひとしくすべし。飛梅老松年旧〔ふり〕て、まつ風吹けば梅花薫ずるを、問と答とに准〔なぞ〕らへて、梅松論とぞ申ける。
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