p130以下
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六 流布本の特徴
流布本が京大本・寛正本・天理本の三種の古写本に存在する問答体の箇所を削除して物語的な構成を省略し、且つ巻頭近くの先代様をめぐる冗長な論議を削除したと認められることは前に述べたが、その外にも、例えば後醍醐天皇隠岐遷幸の記事の中、京大本・天理本に存在する天皇の三尾の津での言葉が流布本に欠けているように、多少の削除が認められるのである。
しかし流布本は、かかる省略・削除の傍ら、古写本に存在しない語句や文節を挿入してある部分も少なくない。その最も顕著なものは、井上良信氏が京大本と対比して表示された次の九ヵ所の細川関係記事である。
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六 流布本の特徴
流布本が京大本・寛正本・天理本の三種の古写本に存在する問答体の箇所を削除して物語的な構成を省略し、且つ巻頭近くの先代様をめぐる冗長な論議を削除したと認められることは前に述べたが、その外にも、例えば後醍醐天皇隠岐遷幸の記事の中、京大本・天理本に存在する天皇の三尾の津での言葉が流布本に欠けているように、多少の削除が認められるのである。
しかし流布本は、かかる省略・削除の傍ら、古写本に存在しない語句や文節を挿入してある部分も少なくない。その最も顕著なものは、井上良信氏が京大本と対比して表示された次の九ヵ所の細川関係記事である。
(1)元弘三年の足利高氏挙兵の記事中、細川和氏と上杉重能が後醍醐天皇の綸旨を賜って近江国鏡駅で高氏に披露し挙兵を勧めたとする部分。
(2)六波羅攻略の記事中、同じく和氏が包囲陣の一方を空けて敵を駆逐する作戦を進言したとする部分。
(3)北条氏滅亡後の鎌倉の情勢を述べた記事中、細川和氏・頼春・師氏兄弟が尊氏から関東追討のために派遣され、鎌倉に入って幼年の義詮を補佐し、新田義貞の野心を抑えたとする部分。
(4)護良親王幽閉の記事中、親王を鎌倉へ護送した武士を細川顕氏とする部分。
(5)中先代の乱に関する記事中、細川頼貞が子息顕氏から直義以下退避の報告を聞いて、子孫の忠を励ますため自害したとする部分。
(6)建武三年正月二十七日の洛中合戦に細川一族勇戦の記事中、尊氏が錦の直垂を顕氏に送って賞したとする部分。
(7)同年二月尊氏の室津における諸将分遣の記事中、四国に派遣した細川一族の中に政氏・繁氏の二人を加えてある部分。
(8)同年六月晦日の洛中合戦の記事中、義貞は細川定禅に襲われて危うく逃れたとする部分。
(9)巻末の尊氏の逸話中、夢窓国師を尊氏・直義に引合せたのは、元弘以前甲斐の恵林寺で夢窓から受衣した細川顕氏であるとする部分。
これらの細川氏関係記事を、井上良信氏は原本にあった細川氏の功績を京大本が削除したものと主張され、釜田喜三郎氏は井上氏の主張を疑問とされる。しかしながら、前節の検討によって流布本が後出であることが明確となった以上、井上氏の説には全く従うことができず、これらの記事はすべて流布本の作成に際して新たに書き加えた部分と看做さざるをえない。それは、京大本のみでなく天理本も、また下巻については寛正本もすべて右の九ヵ所の部分を欠いていることから容易に判定できるが、なお流布本のこの部分には、次のようにいくつかの矛盾・模倣などの不合理を指摘できるのである。
まず(3)の部分では「爰に京都より細川阿波守舎弟源蔵人掃部介兄弟三人関東追討の為に差下さるゝ所に路次にをいて関東はや滅亡のよし聞え有とも猶々下向せらる」(類従本による。下同)とするが、拙稿「守護大名細川氏の興起(その一)」(『国学院雑誌』六七巻七号)にも指摘したように、鎌倉時代には三河の弱小御家人に過ぎなかった細川氏の実勢力からみれば、尊氏が和氏兄弟のみを関東追討のために派遣したということは事実とは思われない。
次に(9)の叙述を井上良信氏は、「夢窓国師年譜」によって否定しうるといわれる。だがこの年譜には夢窓が元徳二年(一三三〇)秋円覚寺を逃れて甲州に慧林寺を創建し、元弘三年(一三三三)まで同寺と鎌倉の瑞泉寺とを往復したこと、および元弘三年六月十日後醍醐天皇が尊氏に勅し官吏を遣して夢窓を招いたことがあるのみで、それは、顕氏が仲介して尊氏と夢窓が相接したという流布本『梅松論』の所伝に対する反証にはならない。しかしながら流布本の右の記事は前後の文との脈絡を欠き、増補の疑いが濃いばかりでなく、顕氏が夢窓と恵林寺で相看したのは「元弘以前義兵をあけんとして北国を経て阿波へおもむ」く途中であったとするところに、大きな不合理が存在する。上掲拙稿にも触れたように、『太平記』に伝える建武二年末の定禅の讃岐鷺田庄での挙兵(これも事実か否かは甚だ疑わしい)以前に、細川氏が四国に何等かの拠点を有していたという証左は全く見当らず、義兵をあげるため阿波に赴くなどということは、元弘三年以前の細川氏の行動としてはあまりにも唐突で信憑性に欠けるのである。
【後略】
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p148以下
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九 原本と原作者
縷説の結果『梅松論』諸本の性質はかなり明らかになったと思われる。まず流布本系統の現存写本およびその親本は、管見の限りすべて江戸時代の書写である。これらは個々に字句や文章に少差がある程度だが、概ね二系統に分けることができ、そのうち群書類従本の底本となったのは大久保忠寄校合本即ち現在の書陵部本と推定される。
何れにせよ流布本は、京大本と同系統の古写本を改作したものであり、改作の目的は第一に細川氏の功績の強調、第二に忠節・武勇・名誉・恩顧等の封建道徳の讃美にあった。従って、これらの目的に相応しい所伝や表現を各所に補い、その代り鏡物に倣った問答の部分や先代様の説明などを削除してある。
次に天理本は、現存古写本中最古の嘉吉の奥書を有するが、既に寛正本とほぼ同系統の本に種々の改作を加えてあり、この改作は、物語の構成や文体に手を加えるとともに『太平記』や『神皇正統記』よりとった文章・語句を挿入し、あるいは仏説を多く加味するなどという、多分に趣味的なものであった。改作者は書写奥書の筆者である『壒嚢鈔』の著者行誉その人と推定される。
寛正本と京大本とは構成にも文章にも共通の要素が多く、ともに古態を残しているが、京大本は少なくとも下巻の二箇所に後の書入れがあり、且つ全般に極めて誤脱が多いという欠点がある。しかし寛正本にも相当の誤脱があり、しかもこれは下巻のみの端本であるから、これのみに拠るわけには行かない。それゆえ上巻については主として京大本に拠りながら、天理本・流布本に対応語句のある部分はそれらを参照すべきであり、下巻は寛正本を底本として京大本を以て対校し、且つ天理本・流布本中の対応語句をも参考にして考察する必要が認められるのである。
このようにして我々は『梅松論』原本の形態をほぼ復原することが可能となる。それは「ナニカシ法印」を語り手とし、児二人を聞き手、老尼・比丘尼達を書き手とする、鏡物を模倣した体裁を有し、先代様をめぐる論議の部分があり、他方京大本の付加した部分や、天理本・流布本の改作した個所を除去した形態である。かかる原本の性格は、主に流布本に拠っていた本書の著述年代や著者に関する通説にも批判的な材料を提供する筈である。
【後略】
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壒嚢鈔
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