第187回配信です。
小秋元段『太平記・梅松論の研究』(汲古書院、2005)
http://www.kyuko.asia/book/b10784.html
http://www.kyuko.asia/book/b10784.html
小秋元段(1968生、法政大学教授・副学長)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%A7%8B%E5%85%83%E6%AE%B5
https://www.hosei.ac.jp/hosei/daigakugaiyo/socho/fukugakucho/
小秋元段氏「特別インタビュー 文学か歴史書か?『太平記』の読み方」(その1)(その2)〔2020-09-25〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6763260b863266ee0d45297e07ca9dad
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/991c2983c89c6c6b7a549564b4480a00
「小秋元段君は、初めから大器だったのではないか、と今でも時々思う」(by 長谷川端氏)〔2020-09-28〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d03e97d1919e268f149d8b36bcd1e3eb
「ストイック」ではない『太平記』研究の可能性〔2020-09-29〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b9e02cb6611cf0877521f8ffbb54e5c1
「『太平記』研究はこの二十年、何を明らかにしたか」(by 小秋元段氏)〔2020-10-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a681d594bf8c5e2e55f353fe5d8833d1
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第四部 『梅松論』の基礎的考察
第一章 『梅松論』の成立─成立時期、および作者圏の再検討─
一 はじめに
二 成立論の再検討
三 『梅松論』の人名表記
四 人名表記と成立時期
五 『梅松論』と少弐氏
六 下巻における合戦記事
七 下巻の叙述の視座
八 むすびにかえて
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p347以下
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一 はじめに
『太平記』とともに南北朝の動乱期を叙述した作品に『梅松論』がある。上下二巻の小品ながら、独特の個性を持った無視しがたい作品である。
『梅松論』の歴史叙述は、某年の二月二十五日を結願に定め、北野の神宮寺毘沙門堂に参籠する仁和寺の稚児と法印の問答によって進められる。つまり、『梅松論』は『大鏡』以来の「鏡物」の系譜を引く作品なのである。また、そこで展開される歴史観には独自のものがある。『梅松論』が足利政権を全面的に讃美する作品であることはよく知られているが、作者はやみくもに体制を讃美しているのでもなければ、時勢に従っているのでもない。そこには作者なりの歴史意識が存在するのである。例えば、上巻には将軍職の来歴や北条政権下での皇位継承の次第が語られ、作者の歴史批評のよりどころが垣間見られる。一方、『梅松論』が描く当代史は、元弘の変(元弘元年。一三三一)から建武四年(一三三七)の越前国金崎城の陥落までの僅か五年【ママ】に過ぎない。その中には『太平記』に漏れた記事や異伝が多く存在し、それぞれ注目に値するのだが、『梅松論』が独自の魅力を発揮しているのは、やはりその歴史観の特徴によるところが大きいのではないか。
この第四部では『梅松論』を考察の中心に据えたい。『梅松論』の歴史観と叙述の問題や、『太平記』との関わりについて論じる予定だが、まずはこの作品がいつ、どのような人物の手によって著されたのかを考えてみよう。なお、『梅松論』には大きく分けて、古写本系と流布本系の二系列の伝本が存在する。流布本系は問答形式が著しく簡略化されていることや、細川氏に関する記事が大幅に輸入されていることなどから、後出と考えられている。よって、ここでは古写本系の伝本である京都大学文学部日本史研究室蔵本をもとに、考察を進めることにする。
二 成立論の再検討
『梅松論』の成立事情を伝える外部資料の存在は、いまのところ知られていない。また、作品内部にも成立事情が窺える記事はそれほど多くない。まずは従来の研究において、成立論との関わりで注目されてきた記事を再検討し、それらによって成立時期をどこまで絞り込むことができるのか考えてみよう。
『梅松論』の成立時期をめぐる詳細な考証は、明治前期の菅政友によるものが早い。その中で菅は『梅松論』の成立を貞和五年(一三四九)と説いた。その論拠となったのは作品の終わりの方にある、いわゆる崇光天皇受禅の記事である。
サル程ニ東宮<本景◆仁、光厳院>受禅アルヘシトテ、大嘗会ノ御沙汰アテ、公家ハ誠ニ花ノ都ニソ有シ、今ハ諸国ノ凶徒或ハ降参、或ハ誅伐セラル、将軍ノ威風四海ノ逆浪ヲ平ケ、合戦ト云事モ聞エス、(下・四十二 オ。小字双行部分は< >で示した。以下同)
(◆「景」に「量カ」のルビあり)
実のところここでは、これが崇光天皇の受禅を述べたものだとは明確に記されていない。しかし、『梅松論』の中心的な記事が光明天皇の代、建武四年(一三三七)三月金崎落城のところで終わっていることから、ここはそのあとの東宮ということで、光明天皇の皇太子興仁親王、のちの崇光天皇の受禅記事として読まれてきた。崇光天皇は貞和四年十月に践祚、翌五年十二月に即位しており、菅はこの時期、南北の戦闘状態が一時小康化したことをもとりあげ、『梅松論』の成立を貞和五年と見たのであった。
【後略】
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菅政友(かんまさすけ、1824‐97)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E6%94%BF%E5%8F%8B
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