学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

資料:京大本・天理本の上巻冒頭

2024-10-10 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
※追記(2024年10月13日)
天理本については小助元太氏の『行誉編『壒嚢鈔』の研究』(三弥井書店、2006)に基づいて改めて紹介しておきました。
0191 小秋元段氏「『梅松論』の成立」(その5)〔2024-10-12〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a21cdf70502f690c1ad9e04cb9cfec6f


『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』「補注(上巻)」p147以下
(※カタカナは読みづらいので平仮名に変換、濁音を追加、適宜改行)

(1)京大本

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何れの年にや二月廿五日を結願に定て、北野の神宮寺の毘沙門堂の妻戸の間に籠り侍しに、時しも霞渡れる夕暮、瑞籬の梅丹に開て紅を重ぬる花の匂、我袖ながらなつかしく御宝殿に向て念誦し居たるに、宵の月の山の端よりほのめき出る影、簾の内にさし入いとど寒帰、春の空北山の雪、所々消、霞かねたる松風の響、鐘の音ふけ行折節、ならびの局に人のあまた籠れる粧す、

下様の者を以て聞せければ、御室の御所より出世達、なにがし法印、誰かれの僧都、阿闍梨の御坊や児達相伴給て三十三日御参籠候、是も廿五日に結願あるべしと聞ゆ、我々風情の古尼比丘尼一二人相具て籠たらむ隣壁なりともしられし、乍去相構てつゝましなんと申付て経陀羅尼も静に誦し居たるに如案鈴の音澄て貴く聞ゆ、

さて行法の終かと覚て茶や煎物など聞つれば、何となく隔の間より忍てのぞきみれば、仏坦を餝り法印とをぼしき年鳩仗に及るが数珠つまぐり本尊に向ひ居たり、爰に一間斗隔て卅余なる僧の、又廿七八斗なる僧の少しかせ/\として同居たり、是に向て上座に児二人御座す、一人は廿斗かとみへて色々の小袖大口に浄衣なよやかに侍り、一人は十五六と覚ゆるが形をかしく利根げなるが練貫につぼみ色の小袖重て、香の直垂絵書たるにこと/\しからぬ大口の少し張りたるを着て、大切金の打たみの扇手にまさぐり居たり、末座には房官と見へて七十に及老法師一両輩あり、同並てひたゐ付の跡みゆる遁世者さけさやに尺八さしそへ、色革の足袋して、そこつげなる気色にて、茶の湯をさし釜押のごひなどして居たり、

何となき物語の様/\聞ゆるに暫静て、少児の片口にてかね黒に打笑て、面々に尋可申事侍と云出給ふ、何事にて候覧と各申ければ、当世何事も誠しく穏便なる事をば先代様と申て貴賤口遊候、何なる謂ぞや承度候との給心誰にも返事を申人もなし、暫あて法印宣給けるは、小児の知ぬ事を尋給ふ尤にて候、各存知の分を可被申とありければ、

先尺八さしたる遁世者さし出て云く、安事にて候、今まで御意得なきは乍恐いかゞかと存候、抑、鎌倉第一の寺、建長寺の仏殿に地蔵千体、毘盧宝閣に釈迦千体、円通閣に観音千体立給ふ故に、関東には万勝たる事を千体様と申て、仏より起たる詞にて候とて、袖かきつくろひて居たり、

又並なる侍法師聞もあえず少なまりたる声にて、是も仏の御事とは意得て候へ共、其意はたと替て候也、其故は観音地蔵の二菩薩は闡提神処の悲願に一切衆生を皆成仏せしめん、一人もゝらさじとの誓願也、此二菩薩はかりなき御事なれば左様なる風情をば先代様と意得侍と云、

老比丘尼達をさしてやゝくせ事有とて耳をそばたてゝ聞ければ、七十斗と見る法師事の外に色黒く、つらにくげなるが、しはがれたる音の六調子に離たるを高かにさしあげて云、覚弁は更に左様には不意得、面々の仰以外僻事をの給ふ歟、愚僧は武家の人には常に会合の次、承しは、過にし事を後に申事は去年は今年の先代、初花は遅桜の先代、青葉は紅葉の先代、是をこそ申候へと、口かろに云捨て居たり、

法印是を打聞て、人々いかにと問給へば、事にをいていけんなどこそ一座中をきはめらるべけれ、乍去我等も仏数千体又地蔵観音の二闡提などは不思寄事也、只覚弁の如被申意得候也、其支証は堂社には先別当先座主と申、是程のせうこ何か候べきと聞ゆれば、少人打笑て、面々田舎人などに対して、識者立し給人者、仏千体二闡提は、さては御誤にて御渡候けるとて、法印に打向て御意の先代同候者、能々承候はやと被仰ければ、参籠の間行事もことのぶべし、明日の夜少々可申と云へば、皆々静りぬ、

さて明るよにも成ければ夜前の御約束を各待申者、先代の様共承度候と申ければ、法印云けるは、覚弁被申候先代同事にて候へ共、少は相替たる様を申べし、能々聞給へ、元弘年中に滅亡せし関東の事歟、重て上の其主は誰と申すべきや、答曰、是こそ大事なれ、代の主と可申きは国王にてこそをわしませ、それは昔の公家一統なりし時の事也、治承四年に武家遺跡絶より以来、頼朝の後室二位の禅尼の計として公家より将軍を申下て、北条遠江守時政が子孫等を執権として関東に於て天下を申沙汰せし代也、然に元弘の比高時の執権のきざみ一族等、相供同時に滅亡して当御代安楽の代になる間、御代の先の代なれば先代と申習せる也と云々。
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(2)天理本

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或年の春二月末の五日の比、北野の社毘沙門堂の辺に参籠し侍しに、時しも霞渡れるゆふばえに、玉垣に梅最と朱けに開て紅を重ぬる花の匂ひ薫り満て、我袖ながらなつかしくて念誦し居たれば、歩を運数々神の午前にぬかづきする或人毎に当来導師の値遇の願のみに有し、槿花一日の世の望みやと推し量れて哀也、夜も漸く深行ば木の間の月の簾の中に差入影も未だ冴返り松風時々音信れて、最と心澄む夜半許に並の局に鈴の音雲に響て、神明も定て納受し給覧と貴く聞えければ、誰人ならんと思程に夜も既に明ぬれば、

下様の者して窃に尋れば御室の御所より某の法印の御籠と聞れば余りのゆかしさに隔ての隙よりのぞき見れば、法印と覚敷て齢鳩杖に及べる老僧の誠に貴気にて本尊に向て念誦してこそ御座しける、その傍に年の程三五二八と覚しき少人二人りまし/\けり、共に容顔美麗也、芙蓉の皃せ声花やかに柳髪の髻<みづら>逶迤<なごやかに>して翠の黛最繊く、見に心ぞ乱れける、誠に西施南国も面を掩<をほは>しめつべし、其次に出世両人をはします、又少し下りて晩出家と覚敷て月代見る禅僧あり、眼子<まなこゐ>事柄さりぬべき人よと覚しきが思入たる体にて間<ひま>無く念珠<すゝ>をぞ爪繰<くり>ける、其外侍法師遁世者なんどあまたぞ候ひける、折節参詣の者共の無何事共云しろふ中に、先代様の人なんめりと申す声して過にけり、其時少人と覚へて、只今申つる先代様とは何事にて侍るぞ若し先代と申所の侍て彼こに住む人の風情の世に替て有やらんと問給ければ、

遁世者と覚敷て粗忽気なる声にて、是は鎌倉建長寺の仏殿に地蔵千体、毘盧宝閣に釈迦千体、円通閣に観音千体立給故に関東様には古めきたる事を先代様と申也、仏より事発て候と申せば、

青侍法師の声にて申しけるは、仏の御事とは承共、爾<しか>には非ず、地蔵観音の二菩薩は闡提の悲願御座して一切衆生を皆悉成仏せしめむ、若一人も残らば正覚を成じと誓給、此願は実に慈悲深く、忝く侍共余に不審に覚へ候、其故は業より生を受け生より業を重ぬる間、四生六道の輪廻、何をか始とし何をか終りと申べき、就中胎卵湿化の四生より生じて体を受る数卅二億余と説るゝは経文なれば何れの世にか尽べき、然ば此二菩薩を闡提と申様に、世の間に其期無き奔走を致し、或は宿習に依て貧なる人の過分の福徳を願、加様の事を闡提様と申と承り侍ると云ば、

又若き侍法師の声にて云様、只何事も過にし方を先代と申にや去年は今年の先代、初花は遅桜の先代、青葉は紅葉の先代也と申せば、

出世にやと覚て、窈※<なまめい>たる声して何れも意得ず侍り、先づ万づ過行事を皆強ち先代と可申に非ず、往事渺茫として光陰人を不待、花月に昵し旧人多く古墳の苔に埋もれ、風雲流水の客、漕行船の跡の浪に同じ、赤鳥の影移り易く、白兎の光留まり難ければ、行水の帰らぬ年波をかぞふるに仏涅槃も既に二千余廻を隔たり、積し薪の跡も無く、立やもしほの夕煙り昨日の雲の跡の山風、加様に飛鳥の跡無き事を皆先代とは申し侍らじ、誠にいかゝ侍ると、彼の僧に向て被申ければ、

此入道と覚くて少し訛<なま>れる老声にて、元弘年中に滅亡せし関東の事にてぞ候覧と云ければ、最初に尋給し少童の声にて、さて其主をば誰とか申候と問給へば、答て云く、此御尋こそ大事に侍れ、代の主と申さば国王にてこそ渡せ給へけれ共、其は昔の公家一等也し時の事也、治承四年に武家遺跡断絶せしより以来、頼朝の後室二位禅尼の計として公家より将軍を申下て北条の遠江守の時政が子孫等執権して、関東に於て天下の事を申沙汰せし時の代なれば、先代をや主と申さむ、然に元弘の比高時の執権の刻み一族等相共に同時に滅亡して、当御代安楽の代に移る間、御代の先たるに依て先代と申習せるにやと云ければ。
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参考
延宝本(流布本)

p36以下
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 何〔いづ〕れの年の春にや有けん。二月〔きさらぎ〕廿五日を参籠の結願に定て北野の神宮寺毘沙門堂に道俗男女群集し侍りて、或は経陀羅尼を読誦し、或は坐禅観法を凝し、あるひは詩歌を吟じけるに、更闌夜寂にて松の風梅の匂何れもいと神さびて心すみわたり侍りけり。
 角〔かく〕て暫く念珠の隙有けるに、有人の云、かゝる折節申せば憚あれども御存知ある方もやあるとおもひ侍て、多年心中の不審を申也。知召かたもあらば御物語あれかし、抑〔そもそも〕、先代を亡して当代御運を開かれて、栄曜代に越たる次第、委く承度候。誰にても御語り候へかしと申し侍りければ、良〔やや〕静返りてありけるに、なにがしの法印とかや申て、多智多芸の聞えありける老僧出て申けるは、とし老ぬるしるしに古よりの事ども聞をき侍しをあら/\かたり申べき也。失念定て多かるべし、其をも御存知あらん人々、助言も候へと申されければ、本人は申に不及、満座是こそ神の御託宣よと悦の思をなして聞侍けるに、法印いはく、爰に先代と云は元弘年中に滅亡せし相模守高時入道の事なり。承久元年より武家の遺跡絶えてより以来、故頼朝卿後室二位禅尼のはからひとして、公家より将軍を申下りて、北条遠江守時政が子孫等を執権として、於関東天下を沙汰せしなり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2f3758827af03b7705eff7a2b816a1a7
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2 コメント

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Unknown (筆綾丸)
2024-10-10 22:06:40
余薫
過去を想起する契機として、鏡物になくて梅松論のみにあるのは梅の花の匂い(嗅覚)で、これは、紅茶に浸したマドレーヌの味で過去の思い出が瞬時に蘇る「失われし時を求めて」(プルースト)の名高いシーンに似ていなくもない。つまり、北野天神の道真の梅が記憶の女神ムネモシュネのようなはたらきをしているのである。

「世尊寺殿の猫」
貞顕の御捨子(小川「兼好法師」)が玉章という名で、堀川家の女御代の猶子として出てきて、思わずニヤニヤしてしまいました。
高国(直義)は、世尊寺行尹のために、殺された黒猫の代わりに薄墨の猫を鎌倉に連れて帰りますが、南泉斬猫の公案の引用を踏まえるならば、観応の擾乱で、尊氏は直義を殺さざるをなかったことを暗示しているともいえ、なかなかシニカルな寓喩だと思いました。
鎌倉時代を舞台にした最良の小説のひとつですね。
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小川剛生氏が『世尊寺殿の猫』を読んだなら。 (鈴木小太郎)
2024-10-11 22:48:00
>筆綾丸さん
鏡物としての設定の点、『大鏡』に言及する研究者が多いのですが、私は流布本を読んだ段階で、一番似ているのは『増鏡』ではないかと思いました。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2f3758827af03b7705eff7a2b816a1a7

そして、京大本では老尼が聞き手として登場するので、ますます『増鏡』に似ているような感じがするのですが、果たしてこれは偶然なのか。
二月二十五日という設定も、『増鏡』が二月十五日ですから、あるいは『梅松論』の作者は、護良親王の帰京で終わった『増鏡』の続きを私は描くのですよ、というメッセージを発しているような感じもします。
ま、深読みのし過ぎと言われそうですが。

>貞顕の御捨子(小川「兼好法師」)が玉章という名で、堀川家の女御代の猶子として出てきて、思わずニヤニヤしてしまいました。

アグニュー恭子氏は本当に良く史料・文献を読んでいる方ですね。
小川剛生氏が『世尊寺殿の猫』を読まれたら、きっとニヤニヤされることでしょう。
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