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今上天皇・網野善彦・阿部謹也

2018-04-15 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 4月15日(日)22時49分4秒

今日は父親の一周忌の法要でした。
この間、一週間も休んでしまったので、なるべく更新をさぼらないように心掛けているのですが、今日は少し気疲れしたため、「巻十 老の波」に進むのは明日にしようと思います。
ところで先の休みの期間、ツイッターで話題になっていた與那覇潤氏の新刊『知性は死なない─平成の鬱をこえて』(文藝春秋)を通読してみました。

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世界史の視野から、精緻に日本を解析した『中国化する日本』で大きな反響を呼んだ筆者。一躍、これからを期待される論客となりましたが、その矢先に休職、ついには大学を離職するに至ります。
原因は、躁うつ病(双極性障害)の発症でした。
本書では、自身の体験に即して、「うつ」の正しい理解を求めるべく、病気を解析し、いかに回復していった過程がつづられています。
とともに、そもそも、なぜこんなことになってしまったのか、と筆者は、苦しみのなかで、自分に問いかけます。【後略】


私は與那覇氏からは今まで特に、というか全く影響を受けておらず、正直、それほど期待しないで読み始めたのですが、「第1章 わたしが病気になるまで」から「第3章 躁うつ病とはどんな病気か」までは躁うつ病(双極性障害)に関する最新の知見が非常に分かりやすく述べられていて、なるほどなと思いました。
第4章以降は、私は與那覇氏と基本的な政治的志向が違うこともあって、読み進めるのにいささか苦痛を感じるほどでしたが、まあ、人それぞれですから、ここでわざわざ論じる必要もなさそうです。

與那覇亭と東島亭の芸風比較

一箇所、非常にマニアックな観点から、少し気になる記述がありました。(p252以下)

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 いまでもかなりひろく読まれている、網野善彦という歴史学者がいました。南北朝時代を中心とする日本中世史の分野で、大きな業績を残したことで知られます。
 周囲のマルクス主義者たちが、運動の挫折から「回心」して保守に転向するか、現実ばなれした教条主義に固執してあやまりを認めないかという両極にすすむなかで、マルクスの思想を機械的にあてはめた、史実に反する歴史解釈をきびしく批判するとともに、自身は終生、左翼の立場を堅持した人でした。そのあたりが、いまも党派を超えて読者をひきつけるのかもしれません。
 何冊かの共著を出すなど、親交の深かった阿部謹也という西洋史の学者が今上天皇(皇太子時代)に面会すると、網野は明確に批判的な姿勢で、真意を問いつめたそうです。阿部のほうも、べつに「皇太子を大学に呼んで知名度をあげたい」といった不純な動機ではなく、被差別部落のような歴史的に根深い問題を伝えたくて進講に応じたのですが、それでも網野は許せなかった。それだけ、自分の信念に誠実な人でした。
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この話、出典が書いていないのですが、何に出ているのですかね。
今上天皇との関係ではありませんが、網野氏は皇太子(徳仁親王)と若干の交流があって、正式な「御進講」ではないにしても、何かの機会に質問に答えてあげたようなことがあったはずですが、それと阿部氏に対する態度は矛盾するように思えます。
時期的な心境の変化ということでしょうか。
ま、我ながらどうでもいいような感じもするマニアックな疑問なのですが、出典をご存知の方はご教示願いたく。

ちなみに徳仁親王との関係について検索してみたところ、NHKの杉江義浩という人が「徳仁親王は歴史を好み、学生時代に学習院大学で中世史で有名な網野善彦教授のゼミに入り、中世の日本における天皇と民衆の関係を専攻し研究してきました」などと書いていたので、なんじゃこれ、と思って同氏が運営するウェブサイト内の「質問コーナー」で誤りを指摘したところ、返事はないのですが、私が指摘した部分は削除され、他の部分も改変されていました。
ただ、改変後も、

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ところが皇太子徳仁親王は歴史を好み、学生時代に学習院大学で中世の日本における天皇と民衆の関係を研究してきました。天皇がいかにあるべきかを、真正面から、直球勝負でぶつかっていかれたのです。同じ頃に活躍した網野善彦教授の歴史観は、主に天皇制の誕生から各時代におけるその役割と構図、「直属隷民」と言われる身分の存在など、いわば異形の王権といった角度から日本史を解き明かしています。中世史まで学ばれた徳仁親王の天皇制についてのお考えは、現代の形式的なものよりずっと深く突っ込んでいるものと思われます。


などと書いていて、なんじゃこれ感は拭えません。
徳仁親王が学生時代からイギリスへの留学時代にかけて主として研究されていたのはヨーロッパ中世の交通史・流通史ですね。
「中世の日本における天皇と民衆の関係」を「真正面から、直球勝負で」研究するのは立場上なかなか難しかったと思いますが、徳仁親王と同世代だという杉江氏はそんなことも知らなかったのですかね。
なお、徳仁親王には日本中世史に関する論文もあって、国会図書館で検索すると『学習院大学史料館紀要』に「西園寺家所蔵「河瀬清貞山城国美豆牧代官職請文」について」(10号、1999)等の論文が出てきます。
このうち、木村真美子氏と連名の「史料紹介 西園寺家所蔵『公衡公記』 (10号、1999)は、以前、私が旧サイトで勝手にアップした上、小さな誤りを指摘したことがあります。


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