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「親子二代連続でちょっと変な王権」

2014-06-17 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 6月17日(火)09時30分54秒

桃崎有一郎氏が「建武政権論」(『岩波講座日本歴史中世2』、2014)で、後醍醐天皇が父・後宇多院の追号を決定したと書いていたのが気になって、久しぶりに内田啓一氏の『後醍醐天皇と密教』(法蔵館、2010)をパラパラめくってみたのですが、内田氏は特に説明もせずに後宇多院は宇多法皇にならって「後宇多」と定めたと言われていますね。

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 禅助(一二四七~一三三〇)は洞院通成の子で、仁和寺真光院の僧となり、永仁元年(一二九三)には大僧正となった高僧である。翌年には東寺長者ともなった。徳治二年(一三〇七)七月二十六日、後宇多院出家の戒師となった僧であることでも知られる。ゆえに真光院国師もしくは禅助国師と称された。国師はいわずもがな後宇多院の戒師や伝法灌頂の阿闍梨となったからである。
 仁和寺は平安時代、仁和二年(八八六)光孝天皇の勅命によって創建された寺院であるが、翌年に天皇は没し、同四年、次の宇多天皇の時に金堂が完成した。天皇は醍醐天皇に譲位すると、昌泰二年(八九九)、仁和寺の僧・益信にしたがい出家し、僧名(法諱)を金剛覚とした。宇多法皇は密教への帰依が極めて深く、延喜元年(九〇一)には御座所を構えた。以来、仁和寺は御室と称されるようになる。「室」は部屋であり、「御室」はその尊称である。これ以降、諸院が建立、整備され、また、皇室関係者が出家し、密教僧として住んだ寺院として知られる。
 宇多天皇の親政は寛平の治と称される評価の高いものであった。後宇多天皇が自らをこう称したのもこの宇多天皇にあやかってである。それに倣うところがあったと思われるが、仁和寺の禅助によって出家する点も宇多上皇と益信の関係をたどったかのようである。この時期の天皇には後嵯峨、後二条など、「後~」と平安時代の天皇になぞらえた名が多いのも特徴である。後宇多院は出家して金剛乗と称したが、これも宇多院が金剛覚と称した名前にちなんだものだろう。徳治三年正月五日に石清水八幡に参詣し、帰りに東寺に参籠した。そして二十六日に後宇多院は東寺灌頂堂にて禅助より伝法灌頂を受けたのである。仁和寺の禅助より東寺の灌頂堂にて伝法灌頂を受けたという点が重要である。
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冒頭、「禅助は洞院通成の子」とありますが、これは「中院」の誤りです。
洞院は閑院流藤原氏で西園寺家の庶流、中院は村上源氏で、中院通成は後深草院二条の父・雅忠の従兄弟になりますね。

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/keizu01.htm

ま、それはともかく、仏教関係の基礎的な知識があれば「後宇多」の追号は後宇多院自身が決めたことは常識ですので、内田啓一氏は特に説明も注記もせず、「後宇多天皇が自らをこう称したのもこの宇多天皇にあやかってである」と書かれています。
後宇多院の「法流一揆」については複数の学者が議論に参加していますが、一般には馴染みのない難解な話なので、そのあたりを簡明に説明してくれている『後醍醐天皇と密教』は良い本ですね。
ただ、著者がもともと美術史の人のためか、研究者にもあまり読まれていないんですかね。
ま、『後醍醐天皇と密教』を読めば、網野善彦氏が「異形の王権」と呼んだ後醍醐の治世は、少なくとも密教との関係では父の後宇多院が敷いてくれた道を歩いただけ、ということがあっさり分かります。
私は以前、<少なくとも宗教的な観点からは、後醍醐天皇の王権は中世において「普通の王権」だったと思っている>と書きましたが、まあ、密教にずいぶん熱心な点は確かに目立ちますから、「普通の王権」ではなく、「親子二代連続でちょっと変な王権」くらいが適切ですかね。

「普通の王権」
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1ae34e02fc228b0b4fbb51799ddf1dd2
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