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『歴史学研究』969号の「小特集 脇田晴子の歴史学」

2018-04-26 | 歴史学研究会と歴史科学協議会

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 4月26日(木)13時51分35秒

『歴史学研究』の四月号、今頃パラパラめくってみたのですが、「小特集 脇田晴子の歴史学」はなかなか興味深いですね。

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商業の発展を物語った人…………………………………………早島大祐(2)
脇田晴子と中世女性史研究………………………………………細川涼一(9)
脇田晴子の中世都市論をめぐって………………………………三枝暁子(17)
脇田晴子の身分論・芸能論…………………………………………辻浩和(25)
日本国外の学術研究における脇田晴子の貢献と遺産…… トノムラ ヒトミ(36)

http://rekiken.jp/journal/2018.html

私自身の関心は脇田晴子氏の研究とあまり重ならなくて、脇田氏の著書・論文もそれほど読んでいなかったのですが、昨年、苅部直氏の『「維新革命」への道』の記述に疑問を抱いてあれこれ調べた際にスーザン・B・ハンレー氏の『江戸時代の遺産─庶民の生活文化』(中公叢書、1990)を読み、日米の歴史研究者間の交流に脇田晴子氏がたいへん尽力されたことを知りました。

「慶応大学の速水融教授は日本での私の最初の助言者」(by スーザン・B・ハンレー)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b464997de8163c3bb72ede51e3a8ca69
山崎正和氏の『「維新革命」への道』への評価について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/81a04f41be09e3c6518fc6d6fd26b766

そんな訳で最初にトノムラヒトミの論文を読み、ついで後ろから辻浩和・三枝暁子・細川涼一氏の順番で読んで、ふむふむ、なるほどと思ったのですが、唯一、早島大祐氏の論文は不可解な点が極めて多いですね。
特に、

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 商業課税に注目が集まった過程を検討するにあたり、朝廷で商業課税を推進したのが、皇統では非主流派だった大覚寺統の天皇だった事実は重要である。亀山天皇は兄後深草天皇から奪い取るかたちで皇位を継承したために、寺社修造などを通じて自身の正統性を強調しなければならなかったが、その財源として大坂湾岸の入港税を創出したことなどが、これまでの研究で明らかにされている(16)。
 持明院統の天皇たちが鎌倉幕府から後援を受けていたのに対して、大覚寺統の天皇たちは、上記の経緯もあって幕府から相対的に独立しており、そのために自身の正統性を主張する事業と、それに必要な財源を新たに捻出しなければならなかった。その結果として歴代の大覚寺統天皇は、都市や商業課税の創出に積極的にならざるを得なかったのである。
 これらの点を踏まえると、かつて網野善彦が非農業民≒商人たちと結託して権力基盤を固めようとした後醍醐天皇を「異形の王権」と評した実態は、実は大覚寺統固有の性格に起因するものであったことが明確になる(17)。後醍醐天皇が内裏再建事業の財源として紙幣発行を計画したことなどは(18)、大覚寺統における権威と財源の問題を象徴しているのである。
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という部分(p5)は、脇田晴子氏自身のご研究と全く関係のない早島氏のユニークな見解ではないですかね。
仮にウィキペディアに書いたら、「独自研究」と言われるレベルの珍説のような感じがします。
そもそも大覚寺統が「皇統では非主流派」であり、「亀山天皇は兄後深草天皇から奪い取るかたちで皇位を継承した」と主張する人は早島氏以外に誰かいるのですかね。
注を見たら、

(16) 藤田明良「鎌倉後期の大坂湾岸」(『ヒストリア』162、1998年11月)
(17) 網野善彦『網野善彦著作集』6(岩波書店、2007年、初出は1986年)
(18) 桜井英治「中世の貨幣・信用」(桜井ほか編『新体系日本史12 流通経済史』山川出版社、2002年)

とありますが、藤田・網野・桜井の三氏とも、そんな変なことは言っていないはずです。
後深草から皇位を奪って亀山に変えたのは治天の君たる後嵯峨院その人ですから「亀山天皇は兄後深草天皇から奪い取るかたちで皇位を継承した」などという事実は全く存在せず、また、亀山の皇太子に亀山皇子の世仁親王(後宇多)を据えたのも後嵯峨院ですから、素直に考えれば大覚寺統こそが「主流派」です。
つい最近紹介した近藤成一氏の「内裏と院御所」(五味文彦編『中世を考える 都市の中世』、吉川弘文館、1992)でも、

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 両統が内裏や院御所に用いる殿第の由来にもそれぞれ特徴がある。大覚寺統の冷泉万里小路殿・禅林寺殿・亀山殿などは後嵯峨法皇から伝領した殿第である。冷泉万里小路殿は文庫を付設しており、後嵯峨法皇の本所御所である。また亀山殿は後嵯峨がみずから終焉の地と定めたところである。この二箇所がいずれも亀山天皇に譲られたことの意味は大きい。
 これに対して持明院統が後嵯峨から伝領した殿第はない。この統の本所御所である冷泉富小路殿は西園寺実氏の殿第であり、実氏からその娘で後深草天皇の中宮となった公子(東二条院)に譲られたのを持明院統の内裏・院御所に使用したのである。また持明院殿は後高倉院・北白河院から式乾門院・室町院を経て伏見上皇の時に伝領したものである。
 このように見ると、後嵯峨の皇統を嗣ぐのは大覚寺統であり、持明院統は後深草に始まる新しい皇統であるといえるのかもしれない。
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とされていて(p85以下)、近藤氏は慎重に「いえるのかもしれない」とされていますが、「後嵯峨の皇統を嗣ぐのは大覚寺統」であることは明らかですね。
早島氏が何を根拠に大覚寺統が「皇統では非主流派」と主張されているのかは知りませんが、それを調べるほど私もヒマではありません。
正直、査読が入っているのか疑問を感じるレベルの叙述ですね。

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