投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月 9日(火)01時34分56秒
いつになったら妙音天に戻るのだ、と思っていらっしゃる方も多いかもしれませんが、暫く鎌倉時代後期から離れていたので、読む必要のある本がかなりたまっています。
いつかは妙音天に戻りますので、暫くはカンを取り戻すための読書日記にお付き合いください。
さて、今日は内田啓一氏の『文観房弘真と美術』(法蔵館、2006)を少し読んでみました。
http://books.rakuten.co.jp/rb/item/4002327/
網野善彦氏の『異形の王権』は、歴史研究者の間では実力者として注目されていた網野善彦氏の名前を広く社会一般に周知せしめた点で、『無縁・公界・楽』と並ぶ画期的な本ですが、密教の歴史をある程度きちんと勉強している人の多くは、同書はかなり変てこな本であると思っているのではないですかね。
後醍醐天皇に比べれば密教への心酔は後宇多院の方が遥かに深いですから、後醍醐が異形なら後宇多院の方がもっと異形と言うべきですね。
私は、少なくとも宗教的な観点からは、後醍醐天皇の王権は中世において「普通の王権」だったと思っているのですが、そう判断する上で喉に刺さった魚の小骨のように引っかかる存在が、真言立川流の問題です。
まだ全部読んではいませんが、内田啓一氏の文観房弘真の研究は、網野善彦氏の『異形の王権』が砂上の楼閣であることを示しているように思えます。
内田氏の見解を少し紹介してみます。(p10以下)
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また、文観房弘真は中世の邪教とされる立川流の僧ともされてきた。
文観房弘真については、守山聖真氏が『立川邪教とその社会的背景』のなかでその大半を費やして論じている。守山氏は立川流の邪僧ではないことをしばしば強調され、文観房弘真の出自から没年までその足跡をたどった。しかし、その当時には文観房弘真が「立川流の僧である」という既定観念が強大でありすぎたのか、また、やや異質な真言僧という固定観念があったのか、数奇なる運命という印象で語る箇所も多い。それは真言僧伝である『伝灯広録』をどこまで否定するのか迷いがあるようにもみうけられ、また『太平記』のイメージなどを常に念頭に置き、論ぜざるをえなかったからと思われる。また、「後醍醐天皇」「南朝」という強烈な存在が、脚色を払った文観房弘真の姿について考える時に障害になってくることも事実である。
近年では守山氏の著作による功績なのか、立川流とは切り離されて論じられることが多くなっているが、それでも『太平記』などの記述から荼枳尼法を修した怪僧というイメージはついて回っているようであり、南朝の成立に「文観上人の手の者と称し」た者がいるとの記述からその統率者が文観房弘真であるかのように述べられている。また後醍醐天皇という強烈な個性をもった天皇の傍らにいた僧という点から不可解な理解がされている。どうもひとつの固定されたイメージから次のイメージへ発展させられて述べられているように思えてならない。
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いつになったら妙音天に戻るのだ、と思っていらっしゃる方も多いかもしれませんが、暫く鎌倉時代後期から離れていたので、読む必要のある本がかなりたまっています。
いつかは妙音天に戻りますので、暫くはカンを取り戻すための読書日記にお付き合いください。
さて、今日は内田啓一氏の『文観房弘真と美術』(法蔵館、2006)を少し読んでみました。
http://books.rakuten.co.jp/rb/item/4002327/
網野善彦氏の『異形の王権』は、歴史研究者の間では実力者として注目されていた網野善彦氏の名前を広く社会一般に周知せしめた点で、『無縁・公界・楽』と並ぶ画期的な本ですが、密教の歴史をある程度きちんと勉強している人の多くは、同書はかなり変てこな本であると思っているのではないですかね。
後醍醐天皇に比べれば密教への心酔は後宇多院の方が遥かに深いですから、後醍醐が異形なら後宇多院の方がもっと異形と言うべきですね。
私は、少なくとも宗教的な観点からは、後醍醐天皇の王権は中世において「普通の王権」だったと思っているのですが、そう判断する上で喉に刺さった魚の小骨のように引っかかる存在が、真言立川流の問題です。
まだ全部読んではいませんが、内田啓一氏の文観房弘真の研究は、網野善彦氏の『異形の王権』が砂上の楼閣であることを示しているように思えます。
内田氏の見解を少し紹介してみます。(p10以下)
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また、文観房弘真は中世の邪教とされる立川流の僧ともされてきた。
文観房弘真については、守山聖真氏が『立川邪教とその社会的背景』のなかでその大半を費やして論じている。守山氏は立川流の邪僧ではないことをしばしば強調され、文観房弘真の出自から没年までその足跡をたどった。しかし、その当時には文観房弘真が「立川流の僧である」という既定観念が強大でありすぎたのか、また、やや異質な真言僧という固定観念があったのか、数奇なる運命という印象で語る箇所も多い。それは真言僧伝である『伝灯広録』をどこまで否定するのか迷いがあるようにもみうけられ、また『太平記』のイメージなどを常に念頭に置き、論ぜざるをえなかったからと思われる。また、「後醍醐天皇」「南朝」という強烈な存在が、脚色を払った文観房弘真の姿について考える時に障害になってくることも事実である。
近年では守山氏の著作による功績なのか、立川流とは切り離されて論じられることが多くなっているが、それでも『太平記』などの記述から荼枳尼法を修した怪僧というイメージはついて回っているようであり、南朝の成立に「文観上人の手の者と称し」た者がいるとの記述からその統率者が文観房弘真であるかのように述べられている。また後醍醐天皇という強烈な個性をもった天皇の傍らにいた僧という点から不可解な理解がされている。どうもひとつの固定されたイメージから次のイメージへ発展させられて述べられているように思えてならない。
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