学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

呉座勇一氏『頼朝と義時 武家政権の誕生』

2021-11-20 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月20日(土)11時49分46秒

>筆綾丸さん
レスが遅れてすみません。
私は本郷著は未購入で、呉座勇一氏の『頼朝と義時 武家政権の誕生』(講談社現代新書、2021)を入手したばかりです。


まだ全部は読んでいませんが、とりあえず私が興味を持っている「姫の前」関係の記述を見ると、先ず、

-------
姫の前との結婚
 建久三年(一一九二)九月、義時は姫の前という女性と結婚した。この結婚について、『吾妻鏡』は詳細に解説している。姫の前という女性は、比企朝宗(頼朝の乳母である比企尼の実子)の娘で、非常に評判が高かった。幕府に出仕しており、頼朝のお気に入りの女官だったという。もちろん、たいへんな美人だったからである。
 義時は姫の前に懸想し、この一、二年、何度も何度も手紙を送ったが、相手にされなかったという。振られ続ける義時を見かねた頼朝が助け舟を出した。「決して離婚はしない」という誓約書を取ったうえで結婚してあげなさいと、姫の前に対して頼朝が命じたのである。その結果、二人は結婚したという。
 義時の長男金剛(のちの泰時)は寿永二年(一一八三)に誕生しているので、姫の前との結婚が初婚ということではない。しかし泰時の母については、頼朝に仕えた阿波局という女官であるということしか分かっていない(『系図纂要』)。さほど身分が高くなかったようで、側室という扱いだったと考えられる。義時は姫の前を正室として迎えたのだろう。
-------

とあって(p193)、ついで、

-------
頼朝再度の上洛と義時
 【中略】
 義時にとって妹の死は辛かったろうが、姫の前との夫婦生活は順調であった。姫の前との間には、建久四年に朝時、同九年に重時を儲けている。
-------

とあり(p203以下)、更に比企氏の乱の最終段階で、

-------
 比企氏出身の姫の前と結婚している義時も、複雑な心境で戦いに臨んだだろう。比企氏滅亡後、姫の前を離縁している。
-------

とあります。(p229)
ま、このあたりの記述は『日本中世への招待』(朝日新書、2020)と全く同じですね。
ただ、「姫の前」は京都で源具親と再婚し、元久元年(1204)に輔通を生んでいるので、私は「姫の前」が義時と離縁したのは比企氏の乱の前だと思っています。
離縁しないとの起請文を書いたのは義時であって、「姫の前」はそんなものは書いていませんから、「姫の前」から義時に三行半を突きつけるのは自由です。
そして義時も妻への気兼ねなく比企氏を攻撃できたでしょうね。

「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その1)~(その3)

それと、承久の乱の戦後処理の法的分析と、それにかかわった大江広元の役割についても何か書かれているかなと思いましたが、特に目立った記述はありませんでした。
まあ、私も鎌倉時代についてはそれなりの古狸なので、今さら全く新しい情報、新しい刺激を得られるはずもなく、仕方ないかなと思います。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

閑話 2021/11/18(木) 16:24:20
本屋さんに、エマニュエル・トッドの新刊本を買いに行くと、隣に、本郷和人氏の『北条氏の時代』(文春新書)と呉座勇一氏の『頼朝と義時』(講談社現代新書)が並んでいました。
来年の大河ドラマに便乗した安直で重厚な本ですが、三谷幸喜の脚本を楽しみにしていることもあって、訴訟中の物騒な呉座氏はやめて、安定した本郷氏の本を買ってみました。本郷氏は、最近、ほとんど芸能人のような趣ですが、才能がなければ芸能人にはなれません。これは皮肉ではありません、念のため。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« あなたの「国家」はどこから... | トップ | ネーミング・センスが駄目す... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

長村祥知『中世公武関係と承久の乱』」カテゴリの最新記事