生き甲斐の心理学

自分は何の為に生きているのか? 生き甲斐とは何か、自分の魂と成育史と身体を大事にしているか、を思索していきます。

自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自

2019年05月17日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
小さな動物は恐怖を感じると頭を穴につっこんで哀れな尻尾を外に出したままにしている姿を時々みかけます。男性Aさんは女性Bさんを愛していました。Bさんが男性Cさんに優しい声をかけている情景に嫉妬したAさんは、その嫉妬心を<男らしく>隠して平然としていた為に、Bさん(Aさんを愛していまいた)はAさんをあきらめCさんと結婚してしまいました。BさんはAさんを試したようですが、Aさんはあの時、堂々と自分の嫉妬心をBさんに伝えたらめでたく結婚出来たでしょう。嫉妬心は悪いものではありません、五感と体感に正直に生きないと大切なものをどんどんと失います。幸福はつかみ取るものです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自

2019年05月16日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
自分が死んだ時、肉体が腐敗するだけなのか、或は自分の魂が天国に昇るのか、そのあたりの恐怖心は深刻です。高齢者施設での元気の良い人々の心理療法はもっぱら魂の領域ですが、子供のころから、日本人はその問題を避けて生きてきた形跡があります。比較宗教学ではきちんと勉強しますが、普通の人は民話、個人的な趣味の範囲でしか追及していません。私の人生での結論は<魂は病むこともなく、老いることもなく、愛そのもので永遠不変なもの、臨終とともに生物体としての肉体から離脱していく知的生命体>と結論しています。比較宗教学では魂の存在は科学者にまかせ、上記の<魂の定義>を信じて、見えてくるもの、見えなくなるもの、という視点から論を進めていきます。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自

2019年05月15日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
<幸せは自分でつかみ取るもの>、これは真理です。その本物の幸せは真実の裏付けが条件ですが、人生は複雑で戦争等の歴史に翻弄もされるものなので、愛する人には秘密にして棺桶まで保持する必要もあります。<隠ぺいが愛を破壊する>と確信したら恐怖心を克服して、明日の幸せを掴み取る為にも、砂上の楼閣を築かない為にも<その真実を愛する人に伝達する必要>もあるでしょう、その識別はその人の現実吟味力に関わっています。それだけに日常生活での人間としての厳しい修行が必要ですが自然体で爽やかに明るくこの識別力を養いたいものです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自

2019年05月14日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
<朱に交われば赤くなる>、この諺は上手に人間の心の仕組を表現しています。また逆に友人が人格者であれば、その影響を、どんどん受けて成長もします。まして愛の関連に於いては、愛する人との相互関係での影響が人生をどんどん変化させていきます。さて自然体と言う言葉がありますが、本当の幸福は自然体でないと偽善的になり大きな幸福感は得られません。嫌われないために自分を隠す必要は確かにありますが、自然体で堂々と自己表現をしつつ生きていかないと本当の幸せは手に入りません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自

2019年05月13日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
視覚、聴覚などの五感は見たいもの、聞きたいものを求めます。ほとんど無意識に求める習性があり、これがまた、生き抜く逞しさに通じています。この習性を非難してはならず、尊重したいのですが、この習性を意識し利用していかないと、かえってストレス曲線(不安、怒り、身体症状、鬱、錯乱)を歩んでしまいます。三つ子の魂、百までも、の諺はこんな体験から生まれた言葉でしょう。見たいのも、聞きたいものの内容を平素、修行しつつ<真善美>にかなう内容にしておくと、人は簡単に平安曲線(平安、友好的感情、健康感、幸福感、統御感)を歩き出します。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自

2019年05月12日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
日々亡霊、幻聴、幻覚に悩まされる人々は案外、沢山います。心理療法の基本は、これら全ての現象を大脳の生理現象としてとらえます。本当に見た人、思い込み、理由はどうでもいいのです。幽霊がいるか、神がいるか、お化けがいるか、はすべてその道の専門家にゆだねます。とにかく患者さんが言うことを100パーセント信じることが完治につながります。しかし全て大脳の生理現象として治療目標を定めストレス曲線を把握し、幸福曲線に導入していきます。<お化けさん、こんにちは>と余裕をもって挨拶する患者さんが退院していきます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自

2019年05月11日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
相手が自分の権利を侵害してきたり、財産の横領をたくらんだり、嫌なことを迫ってきた時は、人は堂々と戦う必要があります。その前に、色々の怪しげなシグナルが迫つてきますが、誤解を避けるためにも、最初は<言葉>で戦いましょう。目で嫌悪感や邪眼をを表現してしまうと、人との間は最終戦争になりますので、致命傷を相手に与える前に、優しい言葉で嫌悪感を軽くぶつけるのが賢明なようです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自

2019年05月10日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
深層心理学の勉強は微妙なので極端な事例を使用しますのでお許し下さい。さて親の敵と出会い<見つめあったら>時代劇のチャンバラが始まりますし、心から愛し合う二人が見つめ合ったら、それなりの展開となるでしょう。このように見つめ合うことは深層心理いかんで、激しい展開を生む可能性が高いのです。古代エジプトでも司祭による催眠祭儀が横行していました。相手の目を見つめる事は重要ですが、人間の目には注意したいものです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自

2019年05月09日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
人間の目は不思議な存在です。相手の目をしっかりと見れば真実を見抜けたのに、見なかったばかりに随分と無駄な人生を送る羽目にもなります。目の表情と顔の表情は違います。それだけ人間の心は複雑なのです。犬も猫もカラスも、必ず人間の目を、あわれなくらいじーっと見つめます。散歩で時々出会うカラスは私のまなざしいかんで、飛び去るか、安心してそこにとどまるかを決めているようです。そうおもう私が正しいか、相手のからずがずうずうしいのかを判断するのも私です。5回にわたり人間の目の神秘を語ります。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自

2019年05月08日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
<偏屈な思い込み>は自分に限り,無いように思っている人が沢山います。その<思い込み>の中でも<自分の人生では好き嫌いなどとは言ってられない、なるようにしかならない>ものだ、と言う<思い込み>です。<自分を欺く>とは<好き嫌い>を意識しないで生きる事ですが、この好き嫌いの感情を心理学では<原初感情>と定義し、これを抑圧すると心の病、躁鬱状態にすぐなります。色々の感情がありますがこの<好き嫌い>だけは口にする、表情に出す、出さないは別にして、キチンと意識して生活する必要があります。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自

2019年05月07日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
朝、目が覚めると<おはよう、気分はいかが!>と優しく温かい声が心の中で響きます。私は、いつもブツブツ文句を言うのに、あの方はいつも寛大な心で明るく爽やかに対応してくれる、考えてみると、私は子供のころから我が儘で勝手な生き方をしてきたのに、あの方はいつもさりげなく私を支えてくれました、時々は厳しい状況に私を追い込む傾向も感じましたが、その試練は私を逞しくさせる為の手段だったみたい、何と言ってもあの方は完全に私を愛してくださつている! さて、この言葉は現在、癌に侵され終末治療で闘病している或修道女の神様との心の中での自問自答の対話を私が直接彼女から聞いた話です。神仏からの愛を信じると、このような自問自答が出来るようです。これは自分を欺いているのではなく、信仰をもつ人の魂のレベルでの自問自答と解釈していいでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自

2019年05月06日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
自分を愛してくれた人の愛を識別する方法は色々ありますが、心理療法上で大切な識別方法を紹介します。大きく二つに分けてみます、一つは<おせっかいで一過性の愛>、もう一つは<私の自己実現への道>を何よりも愛して大切にしてくれた愛です。どちらも大切な愛ですが、私の人生での夢をはぐくむべく全てをなげうって愛してくれた愛が一番重要でした。その愛の中でも私の魂、心、身体の三つを同時に愛してくれた人が一番ですが、それはひょっとして神仏かも、それとも誰?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自

2019年05月05日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
さらりとした異性とのお付き合いの中に、非常に豊かな幸福感を感じつつ生き抜いている人々が沢山います。観察してみると、日々の生活感情を意識して楽しんでおられます。さて、生き甲斐の心理学で大切にしている理論の一つに<五感と直感を養い、楽しむ>があります。好きな感覚(触覚、視覚、味覚、嗅覚、聴覚)を直感で楽しむのです。好きな音楽、美味しい味、心地よいふれあい、好きな絵画、優雅な香りを楽しむのです。しかも日々の日常生活の中から探し出す楽しみが生き甲斐に直結します。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自

2019年05月04日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
心を健康にしていると、自然と知恵も湧き出し、周囲の人々をも簡単に受け入れられます。周囲の人々とぎくしゃくしていると、自然体にもなれず、何となく不幸感が漂います。さて時々、気味の悪い人がいますが、何故、気味が悪いかといいますと、好き嫌いの感情を現わさないからです。<好き嫌い>という感情は<原初感情>と言われるもので人類が生き延びていく為に必要な本能です。社会生活が長くなると好き嫌いを明確に表出出来ない環境が増えてくるので、だんだんと自分をも偽る精神現象が出てきますが、これが生き甲斐を見えなくしてしまいます。世間が怖くて言葉に出せない環境の中に居ても、自分の心の中では<好きか嫌い>を、しつかりと意識して生活していないと精神衛生がどんどん悪くなつていきます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自

2019年05月03日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
恋人関係ばかりでなく、あらゆる人間関係にも共通することですが、男と女の沈黙の意味は全く違います。一般論は危険ですので具体的な<わたしとあなた>の関係をイメージしつつ考えてみましょう。大脳と身体の仕組みの違いから沈黙の解釈も違ってくるのは当然ですが、男と女の沈黙を解釈する場合、何故、沈黙をしているのかを愛情深く静かに見守る以外、幸福への道はありえません。沈黙の意味を軽率に悪意に解釈してしまうと、多分その人(男にしても女にしても)は生涯幸福にはなれないでしょう。一番重要な神の摂理を解釈するのと同じです。沈黙の意味の解釈で人生が大きく開けてきます。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする