Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

サワディ-カッ 微笑みの国から Asia Cup に向けて

2006-02-11 | Football Asia
2007年の地元開催の Asia Cup に向けて新生タイ代表が始動している。2月2日に Phuket で行われた Jorda との試合は 0-0 で引分たがこの試合に召集された22人の選手は昨年末に行われた SEA Games 7連覇を飾った23歳以下代表の選手が中心だ。SEA Gamesメンバーから10人が Jordan 戦に召集された。だが元々この SEA Games メンバーは2004年の Asia Cup のタイ代表に6名名を連ねており、今のタイ代表を担っている世代と言える。特に GK Koshin Hathairatanakul はフル代表でも正GKでアジアカップのイラン戦と日本戦に出場している。他にも FW Datsakorn Thonglo, DF Nataporn Panriらも同じ2試合にスタメンで出場している。他の2選手も途中出場、そして第三戦のオマーン戦にスタメン出場を果たしている。代表監督の Charnwit Polcheewin 氏は U-23 の代表も兼ねて SEA Games, そして年末の Kings Cup の指揮も取った。King Cup ではラトヴィア、北朝鮮に次いで3位に終わったが Polcheewin 監督は“SEA Games のメンバーは長年同じ釜の飯を食ってきた。今年末のアジア大会、来年の Asia Cup を経て長期的な展望でチーム作りを進めたい”とコメント。2月16日にはイラクとの試合が予定されている。そして“ Kiatisuk=Senamuang, Worrawoot=Srimaka, はもう登用しない、新たな Kiatisak , Worrawoot を探す”と。Kiattisak は実力、人気の割にはアジアの舞台でも活躍の記録が乏しい。アジアカップでも2000年レバノン大会ではエントリーされながら所属クラブの関係で参加せず、2004年北京大会ではその前に行われたワールドカップ予選の北朝鮮戦で完敗しタクシン首相に酷評された事から代表入りを拒否するなどその勇姿をじっくり拝めなかった。わずかに昨年の Asia Champions League , 所属クラブの Vietnam のHoang Anh の一員として来日し対戦したJubilo 磐田との試合でチームメイトとの格の違いを見せた。1993年のワールドカップ予選の日本との対戦に出場している。(東京と UAE 両方) アトランタ五輪で日本は28年振りにアジアの壁を破った。この時1次予選でタイと同組になったが、この時のタイ五輪チームも地元では“ドリームチーム”と呼ばれ期待されていた。しかし、チェンマイで行われたホームでの日本戦は前園、小倉に良い様にされて 5-0 で完敗。関係者の落胆ぶりは大変なものだったらしい。この国のタクシン首相のサッカー好きは有名だが今、彼は株投機等の自身のサイドビジネスが元で人気はがた落ち、地方を行脚し地元の人々とバイクに乗って人気回復を計る写真が地元紙に掲載された、彼を擁護する一般人はいないらしい。景気が良くなったとは言えその恩恵に与るのは一部の人達だけ。街中の屋台では小学生くらいの子供たちが“店”を手伝っている。貧困さえなければサッカー選手を目指す子供だけでなくもっと将来が開けて来るだろう。街角では東南アジアでは竹で編んだ小さなボールを足で相手の陣地バトミントンかテニスの様に返すセパタクロー(タイ語ではタクロー)と言う球技の興じている子供達がたくさんいる。なかなか器用にやわらかいタッチでボールを操っている。マレーシアやタイの細かい足元の動きはここから来ているのだろう。声を掛けると無邪気な笑みを返してくる。日本の子供の様に塾やテレビゲームに冒されていない純粋な目だ。この子達の将来に幸ある事を祈り帰国の途に着いた。

新大陸の挑戦 N.A.S.L. ~ワールドカップへ

2006-02-10 | Football 北米 南米 
NASL チームが敢行するシーズンオフの世界行脚は他のチームも Cosmos 程の規模では無かったがほぼ恒例だったらしい。Washington Diplomats も Cruyff がいた 1980年に来日した。リーグ創設時から加盟していた Dallas Tornado は19カ国を巡回し45試合を行い、その様をある選手は „ beer and non-stop sex all the way „ と表現した。だが湿ったピッチ、凍て付く様な冬の昼下がりでの試合や練習をして来た数年を経てやって来たアメリカはパラダイスと Norman Piper が言った様に、欧州の全盛期を過ぎたスター達には文字通り良き新大陸だったのかもしれない。しかし、興隆は長続きしない。1978年にチーム数が 24 に拡大されたのを峠に経済的な問題から合併等でクラブ数は減少の一途を辿る。そしてMISL ( Majour Indoor Soccer League ) と言う室内サッカーリーグが設立され、人気も選手も引き抜かれ, NASL はますます先細りになり 1984年には9クラブだけが残った。 N.A.S.L. は決勝戦を3試合制にするなど人気回復策を施すが効果は全く無く、1984年10月3日、Chicago Sting がToronto Blizzard を破り優勝を収め、N.A.S.L の歴史が幕を閉じた。 やはりバスケットやアメリカンフットボールの様に得点の入る競技で無いサッカーは米国人の間に根付かなかった。室内サッカーが一時人気スポーツだったのもアイスホッケーの様に攻守の切り替えが早く得点シーンが多いからだろう。N.A.S.L. も独自のオフサイドルールを制定したり、得点数によって加算されるボーナス勝点制を導入したり工夫をしたが還って欧州、南米の“本場”から来た選手達の混乱を招くだけだった。そして外国人選手主導の NASLサッカーはアメリカ人には根付かなかった様だ。 だが5年後の1988年の FIFA 総会で1994年のワールドカップ開催地にアメリカが選ばれた。投票日が7月4日と言うアメリカ独立記念日で、それ自体が出来レースと言えた。国内全国リーグの無い国が開催国になるのは異例中の異例だが当時権力の絶頂にあった FIFA アベランジェ会長の“強い要望”もあり、ほぼ無風の決定でもあった。だが1970年代の日本の様に全く世界の舞台から遠ざかっていた訳ではなかった。女子サッカーでは80年代から世界でもトップクラス。そして1984年のロス五輪ではアメリカは1次リーグで敗れたが、アメリカ戦以外でも競技場は満員御礼であった。地元開催が決まった翌年にはイタリアワールドカップ北中米地区予選最終戦でトリニダードドバコをアウェーで降して40年ぶりの出場を決める。だがこの時はメキシコが前年に行なわれたユース大会に年齢詐称をして出場させた選手がおり、出場停止中であったがこの決定自体がアメリカを出場させる為の FIFA の策略と言われている。US サッカー協会は1994年のワールドカップ開催前には全国リーグを設立すると約束していたが、結局 Major League Soccer のスタートは1996年であった。 その後、出場枠の拡大はあるが5大会連続ワールドカップ出場を果たす。そして日本はシドニー五輪の準々決勝でアメリカにまさかのPK 負けを喫した。おそらくアメリカのサッカー選手達は” Majour League Base Ball, NFL,NBA, NHL など何するものぞ、サッカーこそ Global Sportsと思いながら日々精進している事だろう。先述したトリニダードドバコとの試合後、選手全員がセンターサークル付近で抱き合い、大人の男がこれだけ泣くのかと思うくらい号泣するアメリカ選手達が印象だった。試合後ドイツでもプレーした事のある中心選手 カリギゥリは” これは歴史的な事だ。ワールドシリーズ、スーパーボール なんて問題にならない“とコメントしたのも頷ける。NASLからワールドカップを4回経験しアメリカも進化している。 1978年、ラグビーのオーストラリア代表 Wallabies が来日した時に、当時の監督が“どうすれば日豪間の体力差を埋められるか?”と日本人記者の質問に質問され、真顔で”これからはオーストラリア牛肉をもっと輸入すべきだ“と答えた。 10日の試合後はアメリカ側に “ 日本人は牛肉摂取量が足らないのでは?”と嫌味を言われない様なパフォーマンスを期待する。そしてZICO にコメントしてもらいたい “ Sushi is wonderful “ と。

新大陸の挑戦 N.A.S.L.

2006-02-10 | Football 北米 南米 
North America Soccer League N.A.S.L. この名前を憶えている人は少なくないだろう。 Pele, Beckenbauer, Cruyff, George=Best, Neeskens 60~70年代にかけて世界で名を馳せた選手達が晩年に“新大陸”を目指した時期があった。だが後になってBobby=Moore, Eusebio, Gordon Banks, Geoff=Hurst, Brian=Kidds, Mike=England, Trevor=Francis, Gerd=Muller, Sam= Alladyce …. 彼らがみな N.A.S.L. に在籍した選手達だと言うことは知った。1966年イングランドで開催されたワールドカップは初めて開催国以外にテレビ中継され、米国でも NBC が中継し“サッカーリーグ設立”にスポーツプロモーター達の興味をそそった。だがFIFAの後ろ盾のあった United Soccer Association と National Professional Soccer League との間で折り合いがつかず2つの別の団体でのスタートとなった。結局予算の問題で翌年に両団体が統一され N.A.S.L. の発足となった。しかし球団経営は難航。1969年のシーズンは5チームのみのリーグ戦であった。サッカー途上国としてのエピソードも少なくなかったらしい。ある試合ではレフリーがバスケットの様にボールアウトになる度に時計を止めるので都合2時間くらい試合が続いたり、また他の試合では引分を嫌う米国人の為にサドンデス方式にされたシーズンでは延長戦が86分も続いた試合もあった。テレビ中継では何度も試合中にCFが入るのでその間にゴールが入ることもしばしばだったらしい。その創設時の混乱期を乗り切ったのはウェールズ系のコミッショナー Phil Woonsam の辣腕ぶりに寄る所が大きい。その後徐々にチーム数が増えたり、オーナーが変ったりそしてフランチャイズの移動があったりして1975年には20チームの所帯になった。そして同年、New York Cosmos が引退していたサッカーの神様 Pele を口説き落とし3年契約を締結させる。Cosmos は1971 年にNASL に加盟するが Woonsam が、世界的に有名なレコード会社 Warner Communications を説得し Cosmon のスポンサーに。それが無ければ Pele の Cosmos 入りは無かった。Pele のデビュー戦はかつて New York Times に“古生物学時代の岩や土の塊が残された”と酷評されたそのピッチを試合開始直前に芝の禿げた部分を緑色にペイントして廻ったらしく、ハーフタイムには Pele の足が緑色になっていた。しかし、神様 Pele の入団によってリーグも Cosmos 中心に廻り出し、俄然 NASL 人気は Heat Up。Cosmos は Warner の後ろ盾の元に Beckenbauer をはじめ、Carlos=Albert, Chinaglia らが入団。77年に引退後は Neeskens(Holland ) , Eskandrien ( Iran ) らが入団。そして 80年には Washington Diplomats に Johan=Cruyff が入団する。 また、 George=Best が在籍した Los Angels Aztecs には Elton=John が出資者の1人であった。Philadelphia Furies には Rick Wakeman, Peter Frampton, Paul Simon らが出資者でもあった。そしてN.A.S.L. の当時の興隆にはサッカー好きの当時国際政治界では最も有名なキッシンジャー補佐官の存在もあった。彼がいたからワールドカップをアメリカで開催出来たとも言われている。辣腕プロモーターやスポンサーだけで無く政治の後押しなくして成功は難しい。Pele 人気のエピソードとして、ある日 Hollywood でファンの集団がそこに居た Robert=Redoford に気付かず Pele の後を追っかけた事も。また世界各国から Cosmos 応援ツァーが企画され、シーズンオフにはスター軍団Cosmos は世界中で親善試合を続けた。日本にも 1976, 1977, 1979 年に来日している。特に 1977年、Pele SAYONARA Game in Japan と命名され日本代表との試合は同年6月に代表から引退を表明していた釜本の代表引退試合も兼ねた。国立競技場でのこの試合は5万人以上の観客が集り、それまで累積されていた日本サッカー協会の赤字が全て完済されたと言われた。我が尊敬する Australia の Jhonny=Warren の自叙伝にも Cosmos の来豪誘致とその成果が記されるほどの人気でもあった。欧州以外ではEurope Champions Cup よりも知名度はあったのではないか?だが人気だけでなく実力も伴っていた。Pele の引退後ではあったが 1979 年には New York で Maradona, Pasarella, Ardiles らのいた Argentina 代表とも相対した。試合は終了直前 Pasarella のFKで Argentina が 1-0 で勝利を収めたが、当時の世界王者が試合に応じる程のチーム力でもあった。

新大陸の挑戦

2006-02-08 | Football 北米 南米 
懸案になっている米国産牛肉の輸入問題。こちらの本音はいつになったら吉野家の牛丼が拝めるのか?だ。だが当分期待出来なさそうだ。アメリカの政治家の発言を聞いていると丸で日本が間違っている様だ。韓国を始め米国産牛肉の再開に応じた国ばかりなのに日本だけが言う事を聞かないとばかりに。盗人にも三分の理と言う諺が有るが、確かにアメリカ人は誰も狂牛病に感染をしていない。松井もイチローもステーキを食べているが問題は無いし病気になった在留邦人はいない。だが検査基準の観念に隔たりがあるのは仕方ないとして100歩譲っても杜撰な検査体制は受け入れられない。日本は米国を良きパートナーと思っているようだが米国は日本を Friend とは見ていないだろう。家来か舎弟が関の山。米国の政治家が言うように ATM 程度にしか思わないだろう。戦争に敗れた、戦後はアメリカの進駐から始まっただけに北朝鮮の拉致問題等を見ると日本はアメリカの後ろ盾が無ければ何も出来なくなってしまった。グローバル規模で競うものでは五輪のメダル争い等アメリカを凌げるものは数えるほどだ。そんな中サッカーは敗戦国日本とてアメリカに勝てる数少ないものだ。いやだったと言えるか?過去形にした理由はここ10年間のアメリカサッカーのレベルアップだ。前回のワールドカップではベスト8で日本を上回った。1次予選では初戦のポルトガル戦を制し、決勝トーナメントでは同じ北中米地区の雄メキシコを破り、蔚山で行われた準々決勝のドイツ戦も敗れはしたがハイクロス一本の単純なドイツに比べて多彩な攻撃を見せたのはアメリカだった。1-0 とリードされた後CKから バーハルター のシューとは カーン を破ったが フリンクス がきわどいところでクリアー。しかし、フリンクス の手にも当たった様に見えた。そして今大会、アメリカはあわやシード国か?言う勢いだ。(ただこれは物議を醸している FIFA ランキング によるところが大きい)。日本代表は2月10日、San Fransisco に乗り込み米国代表とテストマッチを行うが、それに先駈け1月29日にはCalifornia Carson でノルウェーを米国は 5-0 と粉砕した。欧州地区予選ではプレーオフでチェコに敗れて本大会出場はならなかったノルウェーだが、この日のアメリカ戦に出場した選手の中でチェコ戦にエントリーされた選手はGK Espen Johnsen と DF の Brede Hangeland の二人だけ。GK Johnsen は第二GKで出番は無かった。代表クラスの多くはPremier でプレーする選手なのでこの時期に遠征には参加出来なかったのだろう。一方のアメリカ、5点差の勝利は北中米地区以外の代表での対戦では1992年4月の中国戦以来。そして欧州代表相手に5点差以上をつけたのは史上初めてそして5得点以上の試合は史上11回目。この試合の MVP は3得点を挙げた代表12 Caps の Tawellman でここ3試合で4得点を挙げたことになる。米国代表選手の3得点(ハットトリック )は史上9人目。シュート数24本、そのうち枠内に飛んだのが13本のアメリカに対してノルウェーはシュートが2本のみに終わった。この日の米国GK Kevin Hartman は代表では Kasey Keller , Dempsey Clint に次ぐ3番手であるが、アピールの機会さえなかった様だ。米国代表は他にも Jimmy Conrad, Eddie Pope, Frankie Hejduk, Clint Dempsey, Santino Quaranta, John Wolf そして前回大会でも活躍した Landon Donovan らワールドカップ予選に招集、出場した選手が名を連ねた。 ノルウェーとて小間落ちのメンバーではホームとは言え負けないのが今のアメリカ代表だ。ノルウェー戦の一週間前にはカナダを迎え0-0で引分たが、1998年から代表を率いる Bruce Arena 監督の心中は10日の日本戦の結果をひとつの物差しにするつもりだろう。日本戦には Beasley ( PSV Eindhoven ) Gibbs ( Feyenoord ) Bocanegra, Macbride ( Fulhum ) Reyna ( Manchester City ) ら欧州組みは合流するかは不明だが本当に選手層は厚くなった。その一旦を担うのがエース Landon Dnovan が活躍の舞台とする国内リーグ、Major League Soccer の充実ぶりだ。MLSの結果は Die Kicker, Le Football 等欧州専門誌に J リーグの結果よりも詳しく掲載される。
そのアメリカにもかつて世界から注目を浴びた国内リーグが存在した。

微笑みの国から SEA Games

2006-02-07 | Football Asia
昨年末、フィリピンで開催された SEA Games ではタイが決勝でベトナムを 3-0 で破って優勝をし、この種目大会7連覇を収めた。SEA Game とは South East Asian Games の略でタイを含めた東南アジア11カ国が集って総合的にスポーツ競技を行う東南アジア版五輪とでも言え様。最近ではサッカーは23歳以下の代表で覇を競っている。2003年ベトナム大会の時は丁度バンコックに商用で訪れていた。大会最後の種目がサッカーで決勝戦は地元ベトナム vs タイ。メダル獲得数で大きく地元ベトナムに水を開けられ最後のサッカーで優勝を収め有終の美を飾りたいと地元紙でも決勝戦を前にコメントされていた。一方ベトナムもサッカーは人気種目。ここ数年の好景気もあってクラブチームの強化が進んでいる。その要因が高給で迎えるライバル国タイの代表クラス選手。かつてのエース、キャティサック=セナムゥアンはベトナムのホアン・アイン・ジャライでプレーする。2001年に引き抜かれた時は週給200,000バーツ(約70万円)だったらしい。だがこの額は月給だと言う人も。いずれにせよタイ国内では代表クラスでも貰えない金額らいし。それだけにタイはベトナムには負けられないらしい。決勝戦、会場の大会メインスタジアム競技場は超満員でベトナムがタイゴール前に迫ると大歓声が後押しをする。しかし、先制したのはタイ。その後も1対1ではタイに分がありベトナムはシュートチャンスが掴めない。そして後半40分過ぎにはベトナムは退場者を出し、45分を過ぎた。地元ベトナムは苦しくなった。しかしロスタイムに入ってベトナムはエースの Van Quyen が起死回生の同点ゴールを決め、スタジアムの貴賓席のお偉方から試合終了後のセレモニーの為に準備していた音楽隊そして地元大観衆も大騒ぎ。テレビのブラウン管からもスタンドが揺れているのではと思うくらいに。しかし延長戦に入りタイのエース Chaikamdee のゴールデンゴールでタイが大会6連覇を決めた。Chaikamdee は準決勝後に大会当局からドーピング疑惑がかけられたが、その疑惑こそ決勝戦でベトナムに勝たせる為の地元の工作とタイは関係者を現地に派遣するなどのごたごたがあったがその渦中にあった Chaikamdee が鬱憤を自らの手で(いや足で)晴らすことが出来た。技術レベルはさておき、地元の人達のサッカーに対する熱い思いは想像以上であった。喜びを爆発させるタイイレブンの元にチーム関係者がタイ国王の肖像写真を掲げて走ってくると選手たちは一斉にその写真の前に平伏した。バンコック市内でもいたるところに国王、王妃の肖像画を見かける。如何に一般市民がロイヤルファミリーに忠誠を誓っている事がわかる。 もし、タイがワールドカップ本大会に進出する事になれば、国王は現地に赴くのかしら.....

サワディーカッッ 微笑みの国にて その2

2006-02-07 | Football Asia
日本人は良い、韓国人よりも中国人よりも良い、と言うのは地元の男女も同じだった。
女性と言うのはお察しの通り飲み屋のホステス達だ。出稼ぎに来る女の子や地方から出て来る女学生のレストランでのウェイトレスの平均月給が約 6,000バーツ ( 21,000 ) だがこれでは最近は物価の上がったバンコックでは生活が苦しく友人と部屋をシェアーして食繋いでいるらしい。それが風俗嬢では10倍の 60,000バーツに跳ね上がるらしいが、ゴーゴーバーや日本式のキャバレー(古いか?)で働く娘達はお客との“時間外労働”も含めてこれくらいらしい。更に外国人とは月 40,000 バーツ ( 140,000 ) が“現地妻”契約の相場らしい。その時間外労働や契約を定められた条項通りに履行してくれるのが日本人だとか。韓国人、中国人には約束を破られたり、高圧的な態度で暴力をふるわれた娘もいたらしい。また時間外労働でなくても日本人は気前良くチップを弾んでくれると。だけど最も敬遠したいのは同じタイ人らしい。景気のよくなった最近ではこういう所に出入りする地元の男性が大変増えているらしいとか。とんだ経済効果の表れだ。出自を探られるのを警戒しているらしい。一方の地元男性陣からの日本の評価だが、まずトヨタ、ニッサン、マヅダといった自動車から Panasonic, Sonyといった家電製品までのブランド、それからナカムラの名前が。かつてはナカタが真っ先に出て来たものだったが。タカハラと並んで最近は出番が減ったと言う現地人も少なくなかった。日本人選手は技術の高さだけでなく、欧州人の為にゲームを造っているというところが高評価に繋がっている。だが地元タイ代表に話を向けても来年自国がアジアカップのホスト国だと言うことを知らない(興味がない?)人が多い。だがアジアカップホスト国マレーシア、インドネシア、ベトナム、タイこの中でタイだけが1992年の広島大会以来本大会へ連続出場を果たしている。インドネシアは1996年UAE大会に本戦出場を果たした。しかし、両国共まだ1次リーグを突破していない。タイといえばアジア大会では滅法強く、2002年釜山大会、1998年地元でのアジア大会、は連続してベスト4に進出している。1998年大会では地元とはいえ準々決勝では優勝候補の韓国を破ってのベスト4だった。タイは一般的に内弁慶と言われている。それはこの国独特の気候によるところが大きいと思う。1984年のロス五輪予選前に当時の日本サッカー協会事務局長が“タイは内弁慶のチーム。タイ国内でやればタイの方が有利だろうが、シンガポールなら七分三分で日本に分がある。”とコメントしていたが、シンガポール こそ日本と相対するタイにとっては ホームゲーム 。逆に七分三分でタイに地の利がありと考えるべきであった。続く 

サワディーカッッ 微笑みの国にて

2006-02-06 | Football Asia
1月14日 シンガポール からバンコックに移動だ。 チャンギ空港に向かう。昨日に続き好天だ。バンコックでは是非良い仕事をと祈りつつも搭乗予定機が悪天候の為1時間程度遅れるとのアナウンス。熱帯地域独特のスコールに見舞われているのか?と不安になる。機体には確かに水滴が。搭乗したタイ航空機の機内は空いており2時間程度の快適な空の旅を経てバンコックの Dong Ang 空港に。しかし懸念していた天候は全く問題なく、タイ独特の高温多湿の空気が出迎えてくれた。今回、空港ロビー内は欧州からの白人観光客が非常に目立つ。だが中国人、韓国人観光客も数では負けていない。彼らを乗せると思われるハングルや漢字で書かれたプレートの掛かった観光バスが何台も横付けされている。勿論日本人観光客も。バンコックとシンガポール の時差は-1時間。日本とは –2時間になる。空港からホテルに向かうタクシーからの眺めからは1997年の通貨危機から完全に脱却した感じが否めない。今年6月には新しい国際空港がスタートするらしい。長年東南アジアのハブとしての地位を守ってきた シンガポール チャンギ空港は最近の世界的なタイの観光人気と人件費の安さでその地位が奪われまいかと懸念が耐えない。そのせいか?昨年はシンガポール航空が東京- バンコックの直行便の就航を開始した。ホテルにチェックインをして荷を解き、いきつけの和食屋に向かう。70年代の始めは反日デモもあったがタニヤ、パッポンに行くと日本語が溢れている。この和食レストランは日本の定食屋に近いスタイルで私の好きなコミック“ゴルゴ13”がほぼ全巻揃っているのが有り難い。しかし、9ヶ月振りに訪れたここにはもうゴルゴ13は撤去されていた。残念。腹ごしらえを終えてタニヤからシーロム通そしてスリウォン通をぶらぶらと。タニヤでは道に居並ぶ飲み屋の女の子達が一斉に声を掛けて来る。タイというよりもバンコックは好景気だ。公式人口600万人の当地も移転届けを出していない人を含めれば800万人とも言われている。この数は東南アジア随一だ。レストランで働く女の子達も少し面持ちが違う。タイ北部の少数民族の一部がバンコックに出稼ぎに来ているらしい。特に目につくのは銀やコインの装飾した頭飾りをつけて土産物を観光客に行商して廻るアカ族だ。だが彼らは格好だけで本当のアカ族かは怪しいらしい。まだ行った事は無いが北部のラオスとの国境付近ではラオス領であってもタイバーツの方が好まれて使われるらしい。最近ではベトナムの経済発展も顕著であるが、やはりこの地域はタイが経済の中心だ。雰囲気も隣国マレーシアとは大いに異なるが、それは宗教の違いであろう。イスラム教徒の多いマレーシア、そしてタイは敬虔な仏教国だ。したがって2年前から日本ではあまり話題にはならないが両国国境付近で宗教紛争が勃発。タイのイスラム教徒、マレーシアの仏教徒がそれぞれ自国で標的になり、タイは軍隊を派遣して仏教徒保護に乗り出している。HALA とよばれるイスラムの教えに準じた厳しい決まり(例えば調味料でさえアルコール類は混入されてはならない等)があり、日本レストランもマレーシアには中々進出し難いらしい。 歓楽街を歩いていると多くの店が中で Premiership の中継を流している。タイでもサッカーは人気のスポーツだ。だが自国の代表よりも欧州の列強に興味を示す人の方が圧倒的に多い。パッポンの露天にはレプリカユニフォーム のコピー商品が並ぶ。今年はワールドカップがあるので出場国のコピーが出回っている。そして付加価値をつける為に名前と背番号が入ったのもある。日本代表の最新のコピーも見せてもらった。 NAKATA, NAKAMURA, OGURO, NAKAZAWA, YANAGISAWA の名前が入っている。YANAGISAWA は選ばれるか解らないぞ、と店主に言う。イタリアでも出番が少ない事を良く知っていた。日本人は NAKATA, NAKAMURA をよく買って行くらしい。それから Celtic の NAKAMURA もあった。だがタイ代表のものは少なく地元クラブのものは皆無だ。タイ代表が世界に出たのは 1968 年の日本が銅メダルを勝ち取った栄光のメキシゴ輪 だけだ。それ以降、五輪、ワールドカップと地区1次予選を突破出来ない方が多い。来年開催されるアジアカップにはマレーシア、インドネシア、そしてベトナムと共にホスト国に選ばれているが果たしてどこかベスト8に残れるだろうか?

近藤監督追悼 1982 ナゴヤ決戦最終戦

2006-02-05 | プロ野球
第26回戦 9月30日 ナゴヤ球場 中日11勝10敗5分け
巨 人000030011=5 加藤  4勝 7敗 西本15勝10敗 1S
中 日000200000=2 三沢  6勝 6敗
本塁打:大島 16号 ( 加藤 ) 原31号( 郭 )
巨人:加藤、西本
中日:鈴木、三沢、安木、堂上、小松、郭

この日は前日に前期試験が終わり試験休みであった。この試合はNHKが試合開始から中継を行ったのでアルバイトを終えて下宿に帰り粗食な自炊夕食を食べながらテレビの前に座していた。連敗のジャイアンツは加藤初がそして中日は鈴木孝政が先発であった。鈴木はこの年巨人戦で初完封勝利を挙げたが、8年前の優勝時から中日の中心投手であったのでむしろ意外に感じた。中日とてこの試合に勝たねば昨夜までの連勝が無駄になると言っても過言でなかったので、この直接対決最終戦はこれまでの2戦以上に意味のある試合だった。試合は鈴木、加藤の投手戦で始まったが均衡を破ったのは4回二死からの大島の16号ソロだった。大島はこの3連戦5打点目。尚も宇野、中尾が連打。そしてこれまで無安打だった田野倉がタイムリーを放ち追加点を。この試合先制点は絶対欲しいと思っていただけに痛い失点であった。調子の良い大島に均衡を破られ、無安打の田野倉が追加点とドラゴンズファンには最高の試合展開であった。しかし、この直後ジャイアンツは奮起する。先頭打者の松本が得意のセーフティーバントで出塁。続く鈴木康友は送りバントを失敗するが 2-0 から松本が盗塁に成功。すると鈴木孝政はストライクが入らず、鈴木康友を歩かせてしまう。そして篠塚がきっちり送り二、三塁とすると4番元 New York Yankees の大スターロイ=ホワイトのタイムリーで同点に。先発鈴木を降板させると二番手三沢から原辰徳が四球を選び、中畑がレフト前にはじき返す。これを左翼大島が好返球でホワイトのホームインを阻止。大島は6回にも韋駄天松本匡をホームで刺しこの三連戦攻守に渡って大活躍だった。しかし、続く淡口もセンターにはじき返し原辰徳が還って逆転。見事な集中打だった。巨人は第二戦までの8得点中、タイムリー打で挙げたのは2得点。一方の中日は江川から連打を奪うなど集中打攻勢を見せていた。ジャイアンツも3戦目になってようやく打線の繋がりを見せた。中日は牛島が好投を見せが、対照的に2番手以降不安があったジャイアンツはここで前日先発し5回を投げた西本聖をマウンドに送った。西本は気迫の投球で強竜打線を激封する。特に8回は自らのエラーで1死2,3塁のピンチを招くが、後続の代打木俣、巨人戦に強かったモッカに外野フライさえ打たせず討ち取る。西本の炎の快投に触発された打線も8回篠塚の内野ゴロ、9回には原辰徳が6番手郭源治から三連戦3連発目となる31号ソロで加点し 5-2 と差を広げた。最終回の中日は2死から藤波が内野安打、田尾がセンター前安打で続き、代打の豊田に再び奇跡を託す。 2-2 からアウトコース低めのきわどいところをボールと判定された次の球を右翼戦すれすれにファウルを打たれる。ブルペンでは江川がアップを始めていた。しかしその次のピッチをカーブで豊田を三振に討ち取り首位を奪還した。これで中日はマジック10のまま。ジャイアンツが残り4試合を全勝しても中日が残り13試合で10勝すれば優勝という全くの互角となった、と解説をしていた元巨人軍の高田繁はこの激戦を結んだが、私はこれで巨人有利と考えた。残りの4試合は全て相性の良い横浜大洋戦。だがその大洋相手に巨人は1勝2敗1分けと星を伸ばせずさきに全日程を終了。しかも最終戦は先発江川が田代、ラム、山下にホームランを打たれての黒星。一方の中日は連戦が続くが、巨人が先に日程を終えたことから最後の5試合は星勘定をしながらの近藤監督お得意の投手分業、総動員のローテーションを駆使。中日も最後の3試合は大洋戦。その三連戦を2勝1敗で乗り切り最終戦で8年ぶりのリーグ優勝を勝ち取った。巨人は前年独走で4年ぶりに優勝したが、私はこの年の激闘の方が印象に残っている。それは当時夜間学生で、翌年2月に控えた学部への編入試験を目指す“受験勉強”中であったからだろう。当時は難関といわれた編入試験に翌年2月には見事合格し学部へ上がれることになった。この中日との優勝争いと夏に行われたスペインワールドカップが今でも夜学時代の良き思いでとなっている。昨日の事の様だがもう24年前の事だ。日本人メジャーリーガーやワールドカップ出場なんて夢でしかなかった時代だった。 近藤貞雄元監督。本当に思い出をありがとう。

近藤貞雄さん追悼 1982 ナゴヤ決戦その2

2006-02-04 | プロ野球
第25回戦 9月29日 ナゴヤ球場 中日11勝9敗5分け
巨 人000002000=2 浅野  2勝 4敗 3S
中 日20000130x=3 牛島  7勝 4敗 13S
本塁打:原30号( 都 )谷沢17号( 浅野 )
巨人:西本、浅野、定岡
中日:都、牛島、小松

この日も前期試験であった。ラジオで初回の攻防を聴いて大学に向かったのだが、初回に先制をしたのは前日と異なり中日であった。西本の立ち上がりを谷沢のタイムリー、大島の内野ゴロで2点を奪った。しかしその失点には巨人の守備の乱れからであった。遊撃手の河埜が怪我で離脱しこの3連戦には出場出来なかった。前日起用された鈴木康友は4三振。この試合は平田を二塁に入れ篠塚を遊撃に回す布陣だったが、篠塚の失策が先制点献上を招いてしまった。一方の中日は守備の定評の高くない宇野、田野倉が好手を見せた。この日は前期試験の最終日で試験後は何故か行きつけの喫茶店に友人と行ってしまった。そこには私と同じ夜間学部の学生が集う喫茶店でマスターも夜学生に好意を持ってくれていた。私の野球好き知るマスターは有線放送でこの野球中継をかけてくれた。すると6回先頭打者の原辰徳が中日先発、都から30号ソロを珍しくライトスタンドに叩き込み反撃の狼煙を上げる。この年16勝を上げた滋賀県出身の都裕次郎は巨人キラーで、原辰徳のバットもなかなか捕らえられなかった。この後ホワイト、中畑が連打で続き都をKO。二番手牛島から左の淡口が右翼に二塁打で同点とし、尚も逆転のチャンスであったが、後続の代打山本功二、山倉、代打柳田が凡退し同点止まり。その直後、中日は2番手浅野の代わりばなを大島、宇野が連打し中尾の犠飛で突き放す。宇野の安打は松本が目測を誤った感じであったが、松本は数試合前の広島戦で頭部に死球を受け前の試合まで欠場していた。この試合もその負傷を押しての出場で、普段の松本なら苦も無く捌いていた飛球であった。そして7回浅野は田尾、モッカを歩かせ谷沢にとどめの17号3ランをくらい中日の勝利を決定づけられた。
この年はストッパー角が今ひとつであったが8月終わり頃の優勝争いが激しくなる頃には浅野が台頭してきた。特に無死満塁からのリリーフ登板で連続して無失点に抑え、新ストッパーとして台頭していた。しかし前節の広島戦でリリーフ登板では4点を失い逆転負けを喫していた。角、浅野の投球内容に対し、中日は牛島、小松が好調。特に牛島は巨人戦には滅法強く、17 2/3 を投げて失点0 打たれたヒットはこの日の淡口の二塁打を含めて3本のみ。また巨人は打線のつながりも無かった。この試合では中日を上回る12安打を放った。これには1、2番コンビの松本、河埜が怪我で本調子でなかったり、離脱していたのが原因だった。これで中日は勝率で巨人を抜き、中日のマジックは10となった。いよいよジャイアンツは後が無くなって来た。

近藤貞雄さん追悼 1982 ナゴヤ決戦

2006-02-04 | プロ野球
今年の年明けに非常に惜しまれつつもご逝去された数々の名言と名采配を残してくれた名将近藤貞雄元監督。中日投手コーチとしてジャイアンツのV10阻止や同じく中日監督時代のリーグ優勝。そしてシーズンオフに行われたメジャーリーグ選抜との Exhibition Series での指揮。他にもスーパーカートリオを命名した横浜大洋監督時代そして日本ハム監督時代と話題は豊富であった。しかし、私個人は何と言っても昭和57年のジャイアンツとの死闘が忘れられない。 今回は近藤氏のその追悼とすべく、ジャイアンツとの天王山3連戦を紹介しよう。1982年9月28日、首位を行くジャイアンツは2位中日に2.5ゲーム差をつけていた。ここまでの直接対決では9勝9敗5分の全くの五分。しかし試合日程消化の早い巨人はこの3連戦にエース江川そして西本をぶつける事が出来た。そして残り試合も少なく私は巨人の優位は動かずと考えていた。

第24回戦 9月28日 ナゴヤ球場 中日10勝9敗5分
巨 人3010011000=6 江川 18勝11敗
中 日0001001041x=7 小松  2勝 3敗 8S
本塁打:原29号(三沢)モッカ21号(江川)中畑25号( 郭 )淡口13号 ( 郭 )
大島15号( 江川 )
巨人:江川、角
中日:三沢、藤沢、牛島、郭、安木、小松

当時私は夜間大学に通学していた。この天王山の時は前期試験中であった。関東の人には理解し難いと思うが関西の幾つかの大学は夏期休暇が開けてから前期試験が行われる大学があった。試験さえなければ講義などサボってこの試合のテレビ中継を観ていただろう。アルバイトを終えて下宿に帰りラジオのスイッチを入れプレイボールを聴いた。中日先発の三沢は簡単に二死を取ったが3番篠塚がヒットで出塁、4番ホワイトが四球を選び5番、2年目の原辰徳が29号ホームランを放ちジャイアンツが3点を先取した。中日はこれまで江川から1試合奪った得点は勝ち試合でも2点が最高だった。そしてその回の攻撃を終えたところで勇躍前期試験に向かった。試験官を務めた教授に“原の29号3ランで巨人先制”と伝えると“それはいい情報だ”と返して来たのを憶えている。そして試験を終えて下宿に戻りテレビを点けた時は 6-2 で巨人がリードしていた。そうしてもう最終回の中日の攻撃だった。先頭打者の代打豊田がヒットで出塁したのを最後に中継が終わった。試験の間、3回にホワイトの適時打で先発三沢をKO。4回に江川にはあまり相性が良く無かったモッカの21号で中日が1点を返されるも、4番手郭から6回には中畑、7回には淡口がソロ本塁打を浴びせ完全に主導権を握っていた。7回裏に大島のソロホーマーで江川は2点目を喫したが、4回まで毎回の7三振を奪う快投で8回を終えていた。テレビ中継の終了を以って今度はラジオ放送に耳を傾けた。ラジオではこの大一番に3回途中に4失点で降板した三沢をこのシーズンのオフに引退をした星野仙一が肩を抱くように球場からタクシーに乗せて送り出した事を伝えた。だがここから何十年に一度のドラマが始まる。モッカ、谷沢が連打で続き無死満塁。大島が外野犠牲フライで江川から今季初めて3点目を取ると宇野がカウント 2-0 から左翼へはじき返し4点目、しかも守備固めに入った中司がもたつき宇野は2塁まで進塁(記録は2塁打)二、三塁とし一打同点と好機を広げる。そして中尾が右翼にたたみかけてあっという間に4点をもぎ取り同点としてしまった。もうラジオ中継のアナウンスもよく聞えない、ナゴヤ球場はお祭り騒ぎ。二日前の阪神戦も劇的な逆転であったが、そんなのは比べ物にならない騒動であった。続く田野倉は併殺打に倒れこの回のサヨナラはならなかったが、10回裏、先頭の代打木俣の打球を三塁手原がはじいて先頭打者を出すと江川はマウンドを角に譲ることに。打順は上位に廻ったが、9回の攻撃でモッカ、谷沢に代走を送った事から中日に取って巡りあわせは悪かった。角は田尾に送りバントを決められ豊田を敬遠で歩かせ、続く金山を三振に討ち取るが谷沢の代走に起用されそのまま守備に入った尾上が粘って四球を選び満塁とした。
コントロールの悪い、そしてこの年は決定力の落ちていた角が心配だった。そしてそれが現実になった。大島は詰まりながらもセンターにはじき返し、中日は大逆転で天王山初戦をものにした。
これで中日に、まだ首位巨人と 1.5ゲーム差がありながらマジック12が点灯した。
本当に信じられなかった。前年20勝を挙げてリーグ優勝、日本シリーズ優勝に貢献し前々年も16勝を上げて最多勝利投手となった江川がこれだけ連打を浴びたのを初めて見た。連打を浴びた9回はカーブを連打され、直球で押しても球威が格段に落ちて中日打線の餌食となった。そして前年には絶対的なストッパー振りを見せた角がこの年は今ひとつ。昇竜の勢いを止められなかった。
この火の点いた様なドラゴンズには勢いを明日は西本が止められるか、もう試験どころでは無くなって来ていた........続く

祝 夏春連続出場

2006-02-02 | 京都西高校
我が愛する母校 京都西高等学校が夏春連続の出場を決めた。 非常に喜ばしいことだ。ここはひとつ昨夏の準優勝がフロックでないことを証明してほしい、と言いたいところだが、卒業生した選手もいるのでそう期待するのははなはだ失礼というもの。だが夏に投げた3投手のうち2投手は今年も現役。かれらの経験に期待しよう。 私の在校していた時はまだ甲子園には出れなかった。2年生の時に秋の大会で近畿大会にまででたが1回戦で大阪の上宮高校に惜敗しセンバツ出場はならなかった。その年の夏の京都府大会でも東宇治高校に 2-3 で破れ夢はかなわず。そしてその東宇治高校が初出場を決めた。スポーツは全てが積み重ねだ。高校1年生の時野球部の監督が”おまえらが3年生になった時が楽しみだ”といっておられたのを思い出す。同級生達ががんばってくれたのだった。ならば俺もと所属する部活で張り切ったのを思い出す。そして自分の全国デビューは大学に進学してからだったが、彼らの活躍が刺激になったのは事実。最後にひとこと、みなさん京都外大ははずしてください。京都西高校、または西高と覚えてください。私が在庫中は外大は西高なんてゴキブリ扱い。私は付属の恩恵をうけずに外大に入学したが職員達の西高蔑視は想像以上。少子化で学生を掻き集める必要性が出てきてやっと付属風をふかし出すなんてナンセンスです。 とにかく西高球児よおめでとう!!そして甲子園では精一杯楽しんでください。 

マーライオンの国から Lions vs Denmark

2006-02-01 | Football Asia
1月27日 シンガポール の National Stadium で行われた欧州の強豪 Denmark との一戦は残念ながら 1-2 で敗れた。この試合は1月10日から行われていた強化合宿の仕上げとして行われた。この強化合宿はセルビア人である Radojko Avramovic 監督のリストアップした26人の選手がJalan Besar Stadium に集い、2月22日のイラク戦 (シンガポール) 3月1日のパレスチナ戦( アウェィゲーム ) のアジアカップ地区予選に向けて行われた。 この合宿には初代表入りを目指す4人の選手、膝の怪我もあって4年間代表から遠ざかっていたFW選手 Hafizat Jauharm らが新生 Lions ( シンガポール代表の愛称 ) 入りを目指す。 Jauharm は地元 S League の Tampines Rovers 所属で昨年の S League のタイトルとAFF Club Championship のタイトル奪取に貢献したことが評価されての召集だ。他にも 2004年 Tiger Cupで優勝したメンバー15人が含まれており、中心選手であるマレーシア M League でプレーする Aide Iskandar も召集された。 今年の Lions の目標はアジアカップ地区予選突破だ。中国、イラク、パレスチナと強豪揃いで予選通過は容易ではないが最初のイラク戦、パレスチナ戦を1勝1分で乗り切れば上位2位の可能性も見えてくるか?しかしこの頃は約1週間に渡って雨季とはいえ終日に降雨の悪天候続き。合宿も思う様にこなせなかったのでは……。一方の Denmark 代表はワールドカップ予選では Ukraine, Turkey の後塵を拝して3大会連続出場を逃した。監督は Olsen 監督が引き続き指揮を取る。ただ27日のメンバーを観ると、先のワールドカップ予選に召集された選手は6人で実際に出場した選手は予選を通じて3得点を挙げた Michael Gravgaard ら3人。アストンビラ所属のGK Sorensen, シュツッツガルト所属の Jon Dahl Thomason らは所属チームがシーズンまたは開幕直前なので遠征には参加しておらず、 Winter Pause 中の Denmark 国内リーグに所属する選手のみの構成だ。試合は開始から地元シンガポールが主導権を握る。しかし FW Noh Alam Shah が2回の決定機を逃す。最初は19分 Indra Shadan からのパスからGKと1対1になりながらシュートを噴かしてしまった。そして前半終了直前には自らドリブルで抜けて再びGKと1対1になりながらシュートはGK Jesper Christiansen の正面に。だが前半シンガポールが優位であったのは相手選手が氷点下のデンマークから気温差30度以上の赤道付近のシンガポールでのコンディションに順応する前であった事を差し引かねばならないだろう。後半に入ると Denmark は交代選手 Jesper Bech が連続ゴールを挙げる。58分にはオフサイドトラップの掛け損ないを就いてフリーで。67分にはMichael Silberbauer の右からのクロスに合わせて。28分には Steffen Hojer’s の決定機をシンガポール GK Lionel Lewis に足で抑えられたいやな流れを交替選手が救った。終了1分前に Indra Sahdan が1点を還したが勝敗には影響なかった。これで Lions の敗戦は2004年11月さいたまスタジアムで日本に敗れて以来13試合振りとの事。だが Avramovic 監督はこの日代表デビューとなった Mustafic Fahrudin ら新戦力の掌握が出来たと収穫ありとコメント。一方の Denmark Olsen監督は“ Singapore は我々と同様に大変良くプレーをした。両チームとも多くのチャンスを創り観客を沸かせた。前半はシンガポールの方が多くのチャンスがあった。そしてコンビネーション良くプレーしようとしていた。”と賞賛。しかし、Denmark 代表に収穫は見出せたのかな? Olsen 監督のコメントを聞くと70年代に来日した外国クラブチームのコメントを思い出す。シンガポールは来るアジアカップ地区予選に備えて中東遠征を慣行予定。2月3日にクウェート、6日にドーハでオマーン代表と試合を行い、15日は香港とも親善試合を組んでいる。S League開幕前とは言え日本もこれくらいの Match make はできないものか?と羨ましく思った。 82年からAjax 等オランダの Eredivisie で5シーズンプレーした選手がシンガポールにいた。 Fandi Ahmad  シンガポール代表として日本代表とも戦った FW 選手だ。 Ajax の入団はあのマルコ=ファンバステン と天秤に掛けられた上での契約締結だったらしい。 またこういう選手が出てこないか?Premiership の中継をみながら地元の人達は願っているに違いない。