NASL チームが敢行するシーズンオフの世界行脚は他のチームも Cosmos 程の規模では無かったがほぼ恒例だったらしい。Washington Diplomats も Cruyff がいた 1980年に来日した。リーグ創設時から加盟していた Dallas Tornado は19カ国を巡回し45試合を行い、その様をある選手は „ beer and non-stop sex all the way „ と表現した。だが湿ったピッチ、凍て付く様な冬の昼下がりでの試合や練習をして来た数年を経てやって来たアメリカはパラダイスと Norman Piper が言った様に、欧州の全盛期を過ぎたスター達には文字通り良き新大陸だったのかもしれない。しかし、興隆は長続きしない。1978年にチーム数が 24 に拡大されたのを峠に経済的な問題から合併等でクラブ数は減少の一途を辿る。そしてMISL ( Majour Indoor Soccer League ) と言う室内サッカーリーグが設立され、人気も選手も引き抜かれ, NASL はますます先細りになり 1984年には9クラブだけが残った。 N.A.S.L. は決勝戦を3試合制にするなど人気回復策を施すが効果は全く無く、1984年10月3日、Chicago Sting がToronto Blizzard を破り優勝を収め、N.A.S.L の歴史が幕を閉じた。 やはりバスケットやアメリカンフットボールの様に得点の入る競技で無いサッカーは米国人の間に根付かなかった。室内サッカーが一時人気スポーツだったのもアイスホッケーの様に攻守の切り替えが早く得点シーンが多いからだろう。N.A.S.L. も独自のオフサイドルールを制定したり、得点数によって加算されるボーナス勝点制を導入したり工夫をしたが還って欧州、南米の“本場”から来た選手達の混乱を招くだけだった。そして外国人選手主導の NASLサッカーはアメリカ人には根付かなかった様だ。 だが5年後の1988年の FIFA 総会で1994年のワールドカップ開催地にアメリカが選ばれた。投票日が7月4日と言うアメリカ独立記念日で、それ自体が出来レースと言えた。国内全国リーグの無い国が開催国になるのは異例中の異例だが当時権力の絶頂にあった FIFA アベランジェ会長の“強い要望”もあり、ほぼ無風の決定でもあった。だが1970年代の日本の様に全く世界の舞台から遠ざかっていた訳ではなかった。女子サッカーでは80年代から世界でもトップクラス。そして1984年のロス五輪ではアメリカは1次リーグで敗れたが、アメリカ戦以外でも競技場は満員御礼であった。地元開催が決まった翌年にはイタリアワールドカップ北中米地区予選最終戦でトリニダードドバコをアウェーで降して40年ぶりの出場を決める。だがこの時はメキシコが前年に行なわれたユース大会に年齢詐称をして出場させた選手がおり、出場停止中であったがこの決定自体がアメリカを出場させる為の FIFA の策略と言われている。US サッカー協会は1994年のワールドカップ開催前には全国リーグを設立すると約束していたが、結局 Major League Soccer のスタートは1996年であった。 その後、出場枠の拡大はあるが5大会連続ワールドカップ出場を果たす。そして日本はシドニー五輪の準々決勝でアメリカにまさかのPK 負けを喫した。おそらくアメリカのサッカー選手達は” Majour League Base Ball, NFL,NBA, NHL など何するものぞ、サッカーこそ Global Sportsと思いながら日々精進している事だろう。先述したトリニダードドバコとの試合後、選手全員がセンターサークル付近で抱き合い、大人の男がこれだけ泣くのかと思うくらい号泣するアメリカ選手達が印象だった。試合後ドイツでもプレーした事のある中心選手 カリギゥリは” これは歴史的な事だ。ワールドシリーズ、スーパーボール なんて問題にならない“とコメントしたのも頷ける。NASLからワールドカップを4回経験しアメリカも進化している。 1978年、ラグビーのオーストラリア代表 Wallabies が来日した時に、当時の監督が“どうすれば日豪間の体力差を埋められるか?”と日本人記者の質問に質問され、真顔で”これからはオーストラリア牛肉をもっと輸入すべきだ“と答えた。 10日の試合後はアメリカ側に “ 日本人は牛肉摂取量が足らないのでは?”と嫌味を言われない様なパフォーマンスを期待する。そしてZICO にコメントしてもらいたい “ Sushi is wonderful “ と。
North America Soccer League N.A.S.L. この名前を憶えている人は少なくないだろう。 Pele, Beckenbauer, Cruyff, George=Best, Neeskens 60~70年代にかけて世界で名を馳せた選手達が晩年に“新大陸”を目指した時期があった。だが後になってBobby=Moore, Eusebio, Gordon Banks, Geoff=Hurst, Brian=Kidds, Mike=England, Trevor=Francis, Gerd=Muller, Sam= Alladyce …. 彼らがみな N.A.S.L. に在籍した選手達だと言うことは知った。1966年イングランドで開催されたワールドカップは初めて開催国以外にテレビ中継され、米国でも NBC が中継し“サッカーリーグ設立”にスポーツプロモーター達の興味をそそった。だがFIFAの後ろ盾のあった United Soccer Association と National Professional Soccer League との間で折り合いがつかず2つの別の団体でのスタートとなった。結局予算の問題で翌年に両団体が統一され N.A.S.L. の発足となった。しかし球団経営は難航。1969年のシーズンは5チームのみのリーグ戦であった。サッカー途上国としてのエピソードも少なくなかったらしい。ある試合ではレフリーがバスケットの様にボールアウトになる度に時計を止めるので都合2時間くらい試合が続いたり、また他の試合では引分を嫌う米国人の為にサドンデス方式にされたシーズンでは延長戦が86分も続いた試合もあった。テレビ中継では何度も試合中にCFが入るのでその間にゴールが入ることもしばしばだったらしい。その創設時の混乱期を乗り切ったのはウェールズ系のコミッショナー Phil Woonsam の辣腕ぶりに寄る所が大きい。その後徐々にチーム数が増えたり、オーナーが変ったりそしてフランチャイズの移動があったりして1975年には20チームの所帯になった。そして同年、New York Cosmos が引退していたサッカーの神様 Pele を口説き落とし3年契約を締結させる。Cosmos は1971 年にNASL に加盟するが Woonsam が、世界的に有名なレコード会社 Warner Communications を説得し Cosmon のスポンサーに。それが無ければ Pele の Cosmos 入りは無かった。Pele のデビュー戦はかつて New York Times に“古生物学時代の岩や土の塊が残された”と酷評されたそのピッチを試合開始直前に芝の禿げた部分を緑色にペイントして廻ったらしく、ハーフタイムには Pele の足が緑色になっていた。しかし、神様 Pele の入団によってリーグも Cosmos 中心に廻り出し、俄然 NASL 人気は Heat Up。Cosmos は Warner の後ろ盾の元に Beckenbauer をはじめ、Carlos=Albert, Chinaglia らが入団。77年に引退後は Neeskens(Holland ) , Eskandrien ( Iran ) らが入団。そして 80年には Washington Diplomats に Johan=Cruyff が入団する。 また、 George=Best が在籍した Los Angels Aztecs には Elton=John が出資者の1人であった。Philadelphia Furies には Rick Wakeman, Peter Frampton, Paul Simon らが出資者でもあった。そしてN.A.S.L. の当時の興隆にはサッカー好きの当時国際政治界では最も有名なキッシンジャー補佐官の存在もあった。彼がいたからワールドカップをアメリカで開催出来たとも言われている。辣腕プロモーターやスポンサーだけで無く政治の後押しなくして成功は難しい。Pele 人気のエピソードとして、ある日 Hollywood でファンの集団がそこに居た Robert=Redoford に気付かず Pele の後を追っかけた事も。また世界各国から Cosmos 応援ツァーが企画され、シーズンオフにはスター軍団Cosmos は世界中で親善試合を続けた。日本にも 1976, 1977, 1979 年に来日している。特に 1977年、Pele SAYONARA Game in Japan と命名され日本代表との試合は同年6月に代表から引退を表明していた釜本の代表引退試合も兼ねた。国立競技場でのこの試合は5万人以上の観客が集り、それまで累積されていた日本サッカー協会の赤字が全て完済されたと言われた。我が尊敬する Australia の Jhonny=Warren の自叙伝にも Cosmos の来豪誘致とその成果が記されるほどの人気でもあった。欧州以外ではEurope Champions Cup よりも知名度はあったのではないか?だが人気だけでなく実力も伴っていた。Pele の引退後ではあったが 1979 年には New York で Maradona, Pasarella, Ardiles らのいた Argentina 代表とも相対した。試合は終了直前 Pasarella のFKで Argentina が 1-0 で勝利を収めたが、当時の世界王者が試合に応じる程のチーム力でもあった。