イタリア北部のSeeie A の強豪 Juventus をホームチームの持つトリノ。この街で第20回冬季五輪が始まった。開会式はさすがイタリアと思わせる演出であった。日本選手団の旗手はスピードスケート代表の岡崎朋美。最近の日本選手団は女子選手が旗手を努めるのが恒例となっているけど風邪は大丈夫なのかな? 2月26日までの17日間に渡って15競技が繰り広げられるが日本はいくつメダルを獲得できるかな? 大会前からマスコミは史上最強の代表団とか10個以上獲得とか女子のフィギュアースケートは表彰台独占とか無責任で無知な事を言っているが子供のとき見た札幌五輪からの道程を考えると世間が考える様に簡単にはいかないと悲観的な考えしか思いつかない。確かにアテネ五輪は16個の金メダルを勝ち取った、だからといってトリノでもメダルラッシュと考えるのは早計だ。1972年、70m級純ジャンプ(ノーマルヒル)で笠谷が金メダルを史上初めて勝ち取る前は1956年、コルティナダンペツッォ のスキー回転種目で今や伝説となっている猪谷千春(現IOC 副会長というとても偉いポジションにいる)が銀メダルを勝ち取っただけであった。笠谷以降も 1976年インスブルック大会はメダル、6位以内入賞者無し、1980年レークプラシッド大会は70m級純ジャンプで八木が銀メダル、1984年サラエボ大会は男子 500m スピードスケートで北沢が銀メダル。1988年カルガリー大会では500m スピードスケートで黒岩彰が銅メダル。と金メダルに届かず、メダル数も2個以上は取れなかった。ようやく1992年アルベールビル大会になってノルディック複合団体で金メダルを20年ぶりに勝取り、フィギュアスケートで伊藤みどりが スピードスケート で黒岩が銀メダル(男子500m ) 井上(男子500m)と宮下(男子 500m )橋本 ( 女子 1500m ) で銅メダル と複数のメダルを勝ち取り大いに勇気を与えてくれた。以降、1994年のリレハンメル、そして1998年の長野五輪へと続いていくが日本の快進撃の前に立ちはだかるのは欧州諸国が結託して行うルール変更だった。自国が勝ち続けているときは何もしないのに、勝てなくなるとルールを変えてしまう。1994年リレハンメル五輪前のノルティック複合、1998年長野五輪後のスキージャンプのルール変更。これらは欧州というよりもスカンジナビア諸国を勝たせる為以外の何物でもない。それだけに前回、ソルトレーク大会のジャンプでスイスのシモン=アマンがノーマル、ラージ2種目制覇した時はザマァミロと思った。(本音は日本人選手に勝って欲しかったが)元々冬季五輪の優勝争いは欧州勢とアメリカ以外は及びでない時代が続き、そこに日本が割って入って来る種目が出て来た。確かにその背景には経済大国という事もあるが、それ以上に日本人独特の物事に対する探究心と技術力があった事を見逃してはならない。老舗の欧州勢の対抗策はルール変更とか、野球やソフトボールの様に競技種目から外したりとスポーツマン精神には乗っとっていない事。ただ外国語にはスポーツマン精神と言う単語は無いのかもしれない。参加選手はそれに打ち勝って頂きたい。市場経済の競争は歴戦の外国製品との競争に勝利を続けてきた我々ビジネスマンに任せて頂きたい。日本の力を世界に見せ付けてくれぃ。
2007年の地元開催の Asia Cup に向けて新生タイ代表が始動している。2月2日に Phuket で行われた Jorda との試合は 0-0 で引分たがこの試合に召集された22人の選手は昨年末に行われた SEA Games 7連覇を飾った23歳以下代表の選手が中心だ。SEA Gamesメンバーから10人が Jordan 戦に召集された。だが元々この SEA Games メンバーは2004年の Asia Cup のタイ代表に6名名を連ねており、今のタイ代表を担っている世代と言える。特に GK Koshin Hathairatanakul はフル代表でも正GKでアジアカップのイラン戦と日本戦に出場している。他にも FW Datsakorn Thonglo, DF Nataporn Panriらも同じ2試合にスタメンで出場している。他の2選手も途中出場、そして第三戦のオマーン戦にスタメン出場を果たしている。代表監督の Charnwit Polcheewin 氏は U-23 の代表も兼ねて SEA Games, そして年末の Kings Cup の指揮も取った。King Cup ではラトヴィア、北朝鮮に次いで3位に終わったが Polcheewin 監督は“SEA Games のメンバーは長年同じ釜の飯を食ってきた。今年末のアジア大会、来年の Asia Cup を経て長期的な展望でチーム作りを進めたい”とコメント。2月16日にはイラクとの試合が予定されている。そして“ Kiatisuk=Senamuang, Worrawoot=Srimaka, はもう登用しない、新たな Kiatisak , Worrawoot を探す”と。Kiattisak は実力、人気の割にはアジアの舞台でも活躍の記録が乏しい。アジアカップでも2000年レバノン大会ではエントリーされながら所属クラブの関係で参加せず、2004年北京大会ではその前に行われたワールドカップ予選の北朝鮮戦で完敗しタクシン首相に酷評された事から代表入りを拒否するなどその勇姿をじっくり拝めなかった。わずかに昨年の Asia Champions League , 所属クラブの Vietnam のHoang Anh の一員として来日し対戦したJubilo 磐田との試合でチームメイトとの格の違いを見せた。1993年のワールドカップ予選の日本との対戦に出場している。(東京と UAE 両方) アトランタ五輪で日本は28年振りにアジアの壁を破った。この時1次予選でタイと同組になったが、この時のタイ五輪チームも地元では“ドリームチーム”と呼ばれ期待されていた。しかし、チェンマイで行われたホームでの日本戦は前園、小倉に良い様にされて 5-0 で完敗。関係者の落胆ぶりは大変なものだったらしい。この国のタクシン首相のサッカー好きは有名だが今、彼は株投機等の自身のサイドビジネスが元で人気はがた落ち、地方を行脚し地元の人々とバイクに乗って人気回復を計る写真が地元紙に掲載された、彼を擁護する一般人はいないらしい。景気が良くなったとは言えその恩恵に与るのは一部の人達だけ。街中の屋台では小学生くらいの子供たちが“店”を手伝っている。貧困さえなければサッカー選手を目指す子供だけでなくもっと将来が開けて来るだろう。街角では東南アジアでは竹で編んだ小さなボールを足で相手の陣地バトミントンかテニスの様に返すセパタクロー(タイ語ではタクロー)と言う球技の興じている子供達がたくさんいる。なかなか器用にやわらかいタッチでボールを操っている。マレーシアやタイの細かい足元の動きはここから来ているのだろう。声を掛けると無邪気な笑みを返してくる。日本の子供の様に塾やテレビゲームに冒されていない純粋な目だ。この子達の将来に幸ある事を祈り帰国の途に着いた。