あけましておめでとうございます。お正月といえば、そうですね古墳ですね。古墳の上は神社になってることが多いので初詣にも打ってつけです。
というわけで栃木県は小山市にある国史跡摩利支天塚・琵琶塚古墳資料館にきました。この資料館のすぐそばに摩利支天塚古墳と琵琶塚古墳があるんです。古墳って、いまの人から見れば古墳ですが、できた当時はピカピカの新品ですから古墳だなんていうわけない。なんていったんでしょうか。塚かな? 陵?
これは琵琶塚古墳です。古墳っていろいろな役割があるみたいですが、小山市のような関東にある古墳は「大和政権の重要拠点だよ」「蝦夷じゃなくて大和の土地だよ」というデモンストレーションを兼ねていた。つまりマーキング、犬のおしっこと同じです。
しかし小山市に前方後円墳ができるより早く、もっと北(15kmぐらい)の宇都宮市にマーキングの前方後円墳が作られていた。それなのに小山市へ拠点が南下してきたのは、大和政権の勢力がそれだけ縮小したということ。この近くに後世、下野国分僧寺や下野国分尼寺(ふたつ合わせて下野国分寺)と下野国府が置かれたことからも、こっちのほうがマーキングするには丁度よかったのかも。
琵琶塚古墳から出土した円筒埴輪が資料館に展示されていた。円筒埴輪のほうが形象埴輪(人物埴輪とか動物埴輪とか)より一般的なのだそうだ。
近くの飯塚古墳群から出てきた埴輪も一緒に展示されている。人が集まって何らかの儀式を執り行っているかのような人物埴輪の数々。なにをしているところだろうか。
丸裸になって公園として整備されるという琵琶塚古墳とは対照的に、堆積した土に樹木が生えて森にしか見えない摩利支天塚古墳。これが前方後円墳だと認識するには、イメージの助けが必要になる。後年このあたりを日光街道が通り、道行く人が塚を見ても山としか思えなかったろう。
たまたま摩利支天塚古墳の発掘調査をやっていた。どこからどこまでが墳丘部分に当たるのか検証するためにトレンチという溝を掘って古墳の形状について詳細なデータを得るのだそうだ。
榛名山の噴火に伴う火山灰が堆積しているため墳丘の範囲がわかりにくい。そこでトレンチを掘って元々の墳丘の範囲を特定しようという試みだと、現地説明会で小山市教育委員会の人がメガホンを使ってしゃべるのを聞いた。
摩利支天塚古墳から出てきた円筒埴輪も、こうして資料館に展示されていた。円筒埴輪はいったい何のために作られたのか、何のために穴が空いているのか、さっぱりわからない。5世紀・6世紀の人はいったい、どんなことを考えていたのだろう。
古びた案内図があったので周辺のようすを見る。さほど遠くないところに国分寺跡や国庁跡があるから、ついでに寄っていく。遺跡めぐりは冬のほうが、下草が枯れていて見やすい。夏は暑い上に草ぼうぼうで、どこがどうなってるか大変わかりにくい。
国分寺跡の近くにある、しもつけ風土記の丘資料館で人物埴輪などを見る。関東の人物埴輪は笑顔のものが多い。農閑期に集まってレクリエーションを兼ねた古墳作りをしたので、のんびり笑っている埴輪が多いとか。本当だろうか。
古墳時代は地方分権なので、のどかなところがあったという。律令制が敷かれて中央集権の時代になると、税は重いし貧富の格差は広がるし、現代につながる暗黒時代が飛鳥・奈良・平安……と坂を転がるように悪化していく。
8世紀になると大和政権のマーキングも古墳ではなく国分寺・国分尼寺で試みられるようになった。正統な皇位継承候補だったという粟津王が、藤原氏の謀殺を恐れて越に逃れ、泰澄大師となって軍事拠点を兼ねた寺を続々と作ったから、対抗するために藤原氏が聖武天皇をそそのかして全国に軍事拠点を兼ねた国分寺を作らせた。時期的にそういう見方もできる。
簒奪者のやることは動機が不純だから長く続かず、全国の国分寺・国分尼寺はすぐに廃れて跡形もなくなった。それに対して私度僧がたゆまぬ努力で広めた白山信仰は今も全国に根強く命を保っている。公のやることは私のやることに劣るものらしい。豪族が私財を投じた古墳は今も残っているが、同じような場所に官が命じて作らせた寺は大体このありさま。
関連記事: 越