キリシタン大名として知られる大村純忠の居城があった長崎県大村市へ、猛暑のまっさかりに行ってきた。気温
37℃を超えるので、なるべく歩きたくないが歩かざるをえない。大村市は長崎空港のあるところ。土地勘がない
から、とりあえずJR大村駅前の県営バスターミナルまで来て涼む。
電飾の広告が裏返しになってる
地方に行くとよくある光景。ちかごろ東京の都心でも裏返しの電飾をみかける。人口が減っていくということは、
広告を出す人がいなくなるってことなのかもしれない。昔はどんな地方都市のバスターミナルでも地元広告が
らんらんと灯されていたのに。
バスを待つ人も少ないターミナル
2番乗り場から12時32分発の野岳入口行き路線バスに乗り、よく夢に出てくる町を眺める。市民病院で下りて
赤い県営バスを見送る。料金は150円だった。赤字なんだろうな、県営バス。
帰りも市民病院からあれに乗ろう
放虎原小学校のほうへ歩く。直線距離はたいしたことないのに、ぐるっと自動車教習所の周囲を遠まわりする。
汗だくになって見ず知らずの町をさまよう物好きが、熱中症で行き倒れたらなんと言い訳してよいやら。夢に…
夢に見る町がどんなところか確かめにきた? うわごとにしか聞こえない。
放虎原(ほうこばる)小学校…
虎が放たれている様子はない。夏休みで誰もいない。いまどきは部外者が学校に入ることを固く禁じているかも
しれないので、見覚えのある校庭だけ見渡して立ち去る。どうして懐かしいのだろう? 前世の記憶??
昼休み登るのにちょうどいい木
団地の子供たちは正門からではなく、あの木の向こうの通用口から登下校することを前世の記憶で知っている。
校庭をつっきる勇気はないので、塀の外をまわりこんで懐かしい木のほうへ。
そうそう、ここから出入りしてね
虎もいないのに放虎原。いったいどんな由来があるのかスマホで検索してみたら、由来はともかく近くに処刑場
があると知って炎天下、わざわざ歩いて訪ねてみた。
1日で131人が処刑されたという
これだけ広ければ可能だろう。大村純忠は日本で最初のキリシタン大名だったけど、子孫は棄教して弾圧する
側にまわった。島原の乱(1637-38)のあと大村に潜伏したキリシタンが、およそ20年後の1657年にたくさんバレ
る「郡崩れ」という事件が起きた。打ち首と決まった406人は、大村藩だけでは処置しきれず、付近の藩と手分け
して処刑した。1658年7月27日に、この放虎原殉教地で131人が斬首された。
街道筋の獄門所にさらした跡地
放虎原で処刑された131人の首は塩漬けにして棚板に並べられ、20日間みせしめのため街道筋にさらされた。
どういうわけか既視感があるのは、前世でさらし首になった記憶??? 放虎原から550mほど先。
さらに約1km先の胴塚
首とは別にして、131人の胴を埋めた場所がここだという話もあるけれど、3日後に掘り出して大村湾に捨てた
ともいわれているそうだ。キリシタンは妖術を使うから、首と胴を分けておかないと、つながって生き返ると恐れ
られたのでしょう。ということは当然ながら……
さらに750m離れた首塚
さらし首が終わったあと、131人の首を埋めた首塚が離れたところにあります。炎天下、塚をめぐるのも大変です。
何をしにきたのか、わからなくなってきました。
弾圧した大村藩の居城、玖島城
変わり身の早さが幸いしたのか、元キリシタン大名の大村家はお取り潰しになることもなく、大村は長崎街道の
宿場町として栄えたそうです。本陣(いちばん立派な、参勤交代の大名が宿る場所)は、くじら漁で巨万の富を
得た深澤義太夫勝清の屋敷で、そういえば長崎くじら屋さん多いですね。
まるいのは腸、しろいのは舌
それはともかく、2万7千石の小藩ながら改易されることなく幕末を迎えた大村藩、ここでも変わり身の早さを
見せて戊辰戦争で官軍に味方し、勲功で明治2年に3万石の賞典禄をもらったそうです。そのあと廃藩置県
ですけどね。
海に面した城に船着場があった
長崎港を開いたのも大村純忠だったとか。島原の乱の原城も海に面して、キリシタン大名は海に面した城が好き
なのか。九州の大名は朝鮮に出陣したとき海に囲まれた城に開眼するのか。玖島城には船着場が残っています。
「お船蔵」といって、船が大切なので柱を立てて屋根をつけたようで、柱穴の跡が石垣に開いてます。
なんというわかりやすさ
関連記事: 祈りの岩 (潜伏切支丹遺跡)
37℃を超えるので、なるべく歩きたくないが歩かざるをえない。大村市は長崎空港のあるところ。土地勘がない
から、とりあえずJR大村駅前の県営バスターミナルまで来て涼む。
電飾の広告が裏返しになってる
地方に行くとよくある光景。ちかごろ東京の都心でも裏返しの電飾をみかける。人口が減っていくということは、
広告を出す人がいなくなるってことなのかもしれない。昔はどんな地方都市のバスターミナルでも地元広告が
らんらんと灯されていたのに。
バスを待つ人も少ないターミナル
2番乗り場から12時32分発の野岳入口行き路線バスに乗り、よく夢に出てくる町を眺める。市民病院で下りて
赤い県営バスを見送る。料金は150円だった。赤字なんだろうな、県営バス。
帰りも市民病院からあれに乗ろう
放虎原小学校のほうへ歩く。直線距離はたいしたことないのに、ぐるっと自動車教習所の周囲を遠まわりする。
汗だくになって見ず知らずの町をさまよう物好きが、熱中症で行き倒れたらなんと言い訳してよいやら。夢に…
夢に見る町がどんなところか確かめにきた? うわごとにしか聞こえない。
放虎原(ほうこばる)小学校…
虎が放たれている様子はない。夏休みで誰もいない。いまどきは部外者が学校に入ることを固く禁じているかも
しれないので、見覚えのある校庭だけ見渡して立ち去る。どうして懐かしいのだろう? 前世の記憶??
昼休み登るのにちょうどいい木
団地の子供たちは正門からではなく、あの木の向こうの通用口から登下校することを前世の記憶で知っている。
校庭をつっきる勇気はないので、塀の外をまわりこんで懐かしい木のほうへ。
そうそう、ここから出入りしてね
虎もいないのに放虎原。いったいどんな由来があるのかスマホで検索してみたら、由来はともかく近くに処刑場
があると知って炎天下、わざわざ歩いて訪ねてみた。
1日で131人が処刑されたという
これだけ広ければ可能だろう。大村純忠は日本で最初のキリシタン大名だったけど、子孫は棄教して弾圧する
側にまわった。島原の乱(1637-38)のあと大村に潜伏したキリシタンが、およそ20年後の1657年にたくさんバレ
る「郡崩れ」という事件が起きた。打ち首と決まった406人は、大村藩だけでは処置しきれず、付近の藩と手分け
して処刑した。1658年7月27日に、この放虎原殉教地で131人が斬首された。
街道筋の獄門所にさらした跡地
放虎原で処刑された131人の首は塩漬けにして棚板に並べられ、20日間みせしめのため街道筋にさらされた。
どういうわけか既視感があるのは、前世でさらし首になった記憶??? 放虎原から550mほど先。
さらに約1km先の胴塚
首とは別にして、131人の胴を埋めた場所がここだという話もあるけれど、3日後に掘り出して大村湾に捨てた
ともいわれているそうだ。キリシタンは妖術を使うから、首と胴を分けておかないと、つながって生き返ると恐れ
られたのでしょう。ということは当然ながら……
さらに750m離れた首塚
さらし首が終わったあと、131人の首を埋めた首塚が離れたところにあります。炎天下、塚をめぐるのも大変です。
何をしにきたのか、わからなくなってきました。
弾圧した大村藩の居城、玖島城
変わり身の早さが幸いしたのか、元キリシタン大名の大村家はお取り潰しになることもなく、大村は長崎街道の
宿場町として栄えたそうです。本陣(いちばん立派な、参勤交代の大名が宿る場所)は、くじら漁で巨万の富を
得た深澤義太夫勝清の屋敷で、そういえば長崎くじら屋さん多いですね。
まるいのは腸、しろいのは舌
それはともかく、2万7千石の小藩ながら改易されることなく幕末を迎えた大村藩、ここでも変わり身の早さを
見せて戊辰戦争で官軍に味方し、勲功で明治2年に3万石の賞典禄をもらったそうです。そのあと廃藩置県
ですけどね。
海に面した城に船着場があった
長崎港を開いたのも大村純忠だったとか。島原の乱の原城も海に面して、キリシタン大名は海に面した城が好き
なのか。九州の大名は朝鮮に出陣したとき海に囲まれた城に開眼するのか。玖島城には船着場が残っています。
「お船蔵」といって、船が大切なので柱を立てて屋根をつけたようで、柱穴の跡が石垣に開いてます。
なんというわかりやすさ
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