特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

ウジウジ

2022-11-01 09:11:07 | その他
陽が暮れるのが日に日にはやくなっている。
セミにとって代わった鈴虫の音色が耳に優しく響く。
本格的な秋は、もう目の前。
コロナ七波も落ち着いてきた感があり、秋を満喫する環境は整いつつある。
TVの情報番組でも、あちこちの行楽地や、数多くの秋の味覚が紹介され始めており、“にわか”ではあるけど、私も秋に迎えてもらっているような気分を味わっている。
 
「食欲の秋」「行楽の秋」「趣味の秋」、人それぞれ色んな秋がある。
私にとってこの秋は、どんな秋になるだろう。
酒は飲み続けているけど、大して食欲はないし、行楽の予定もなければ趣味もない。
そうは言っても、この鬱々とした日常に嫌気がさしている。
だから、とにかく、この現実から離れたい。
すぐに死なないとすれば、何もかも手放して生き直したいような気分である。
 
私は、自分が書くブログの根底に、「生きろ!」というメッセージを流しているつもりだけど、時々、その熱量が失せることがある。
死にたいわけじゃないけど、生きているのがイヤになるときがある。
自分なりにがんばって、ここまで生きてきたにも関わらず、いまだに
「なんで、人は、こうまでして生きなきゃならないんだろうな・・・」
といった考えに苛まれることがある。
私も、ただの人間、どちらかというと軟弱な人間だから、気分が沈むこともあれば、鬱々とした状態から抜け出せなくなることもあるわけで、そういうときは、生きるための意欲が減退するのである。
 
食欲がなくても、行楽の予定がなくても、酒に対する欲だけはある。
前にも書いたが、どうしても酒がやめられない。
そうなると、肴もいる。
せっかくの秋なのだから、時季の味覚を味わってみたいとは思うけど、何分、懐が乏しいゆえ、私の口には季節感のないものばかりが入っている。
自分なりに工夫して、舌と腹が少しでも満足できるようなものを繕っているだが。
ただ、どんなに質素な食事でも、毎日三食 当り前に食べられていることは、深く感謝しなければならないことでもある。
 
秋の味覚といえば、秋刀魚も代表格の一つ。
そして、今年もその季節がやってきた。
しかし、近年は不漁続き、しかも、サイズは小型。
当然、値段は高く、先日、馴染みのスーパーで見たら、なんと一尾250円!
しかも、小型の冷凍もの。
もう一軒のスーパーでは、店頭に置かれてもいなかった。
高級魚の仲間入りをするのも時間の問題か。
何年か前までは、スーパー等では、一尾100円くらいで売られていたように記憶しているけど、それに比べると信じられない値段。
ただでさえ、物価高騰の時世、この値段・この品では、とても「買おう」という気持ちにはなれない。
 
とにもかくにも、秋刀魚は、塩焼きにしても刺身にしても、おいしいもの。
塩焼きは、身は食べ尽くす。
脳天からエラの際、尻尾の付根まで、きれいに食べる。
苦い内臓も、背ビレも、胸ビレも、腹の小骨も。
残すのは、頭と背骨と尻尾のみ。
ちなみに、私が子供の頃には、秋刀魚を刺身で食べる習慣はなかった。
刺身で食べられるようになったのは、物流が発達したおかげらしい。
しかし、庶民の味方だったはずの秋刀魚が気軽に食べられなくなるなんて・・・
事実、私は、秋刀魚を、もう何年も食べてない。
最後に食べたのがいつだったかも憶えていない。
 
もう十年以上も前のことになるが、仕事で仙台に出張した日の夜、「一杯やろう!」と、仲間と国分町(市内の繁華街)に出掛けたことがあった。
入ったのは、店構えのいい大衆居酒屋。
そこで食べた秋刀魚の塩焼きが、今でも記憶に強く残っている。
 
家庭用に売られているものに比べると型は大きく、丸々と太り、脂ものって身はやわらか。
飲食業のプロが出すわけだから、焼き具合も塩加減も上々。
飯のおかずではなく、酒の肴で注文したわけだが、とにかく美味。
あれは、本当にいい秋刀魚だった。
 
昨今の秋刀魚は、そこまでのクオリティーはなく、そもそも、数が少なすぎて選びようがない。
気候変動、世界情勢、物価高・・・秋刀魚にかぎらず、食べ物の選択肢がどんどん少なくなっている。
現在でも、所得が低い人ほどジャンクフードを主食にする傾向が強いらしいが、それがもっと深刻化するおそれがある。
 
「食料危機」が現実味を帯びはじめている近年では、昆虫食や人工肉の研究もすすめられているよう。
TV番組で、“生態系を破壊する厄介者”とされる外来生物等を駆除して食す企画を何度か観たことがあるが、ああいうのもいいのではないかと思う。
ちなみに、マムシの干物やイナゴの佃煮なら私も食べたことがある。
正直なところ、「美味い」とは思わなかったけど。
 
私にとって馴染み深い“彼ら”も、一応、昆虫の類か。
ウジ・ハエ・ゴキブリが食用にできれば、こんなに頼もしいことはないかも(?)。
なにせ、彼らはタフ!
繁殖力・増殖力・生命力・生存力、どれをとってもピカ一!
腐りモノから勝手に涌いてきて、またたく間に成長するのだから、その養殖は、省力・低コストでできそう。
 
そうは言っても、米一粒一粒が、ウジ一匹一匹だと想像すると・・・
ハエのサラダとか、ゴキブリの酒蒸しとか・・・かなりヤバい!
仮に、「安全」「美味」「栄養豊富」だとしても・・・
それを口に入れるのも、噛み潰すのも、簡単じゃなさそう・・・
しかし、何事も慣れてしまえば、当たり前になるもので・・・
そのうち、鮮度抜群!“踊り食い”を売りにするような料理屋が現れたりして・・・
 
ウジというものは、寛容な目でみると、小さくて丸みがあって、モタモタとして可愛いらしく見えるかもしれない。
しかし・・・やはり、気持ちのいい生き物ではない。
カブトムシや蝶の幼虫とさして変わりはないのだけど、汚物や腐ったモノに涌くから嫌われるのだろうか。
その昔、トイレが水洗式ではなく、いわゆる「ボットン便所」だった頃は、どこの家庭の肥溜にもいたはずなのだが、今の時代、ウジを知っている人はほとんどいないか。
どんな生態なのか、どんな姿をしているのか、生きる上で不要な無駄な知識として検索してみるといいかもしれない。
 
以前、ブログに書いた覚えがあるけど、
目を閉じた遺体の目蓋がモゾモゾと動いているので、その目蓋を開けてみたら、“ゴマ団子”のごとく眼球をビッシリ覆いつくしていたり、
腐敗した猫の死骸をひっくり返してみたら、その腹部には、どんぶり一杯ほどのウジが“稲荷寿司”のごとくパンパンに詰まっていたり、
何日も放置された怪しい鍋の蓋をとってみたら、ウジが“雑炊”のごとくフツフツと涌いていたり、
そんなこともあった。
 
ウジは、私にとって、当たり前の存在。
一方、彼らにとって私は、ある種の天敵。
その姿は、“進撃の巨人”。
互いに、非常に厄介な存在で、激戦になることも少なくない。
とにかく、殺虫剤が効かない。
「ウジ殺し」と銘打つ薬剤でもダメ。
駆除法は、熱死させるか、焼死させるか、凍死させるか、物理的に排除するか。
手間とコストと気持ち悪さを考えると、物理的に除去するのが最も得策。
掃除機で吸い取ってゴミにしてしまうのである。
(“巨人”は喰って吐くようだが、もちろん、私は喰ったりはしない。仮に喰ったとしたら吐くに決まっているが。)
 
そんな仕事、楽しいわけはない。
心身が疲れていると尚更。
「キツい」「汚い」「危険」、いわゆる3K。
プラス、「クサい」「恐い」「気味悪い」「嫌われる」で7K。
そして、私の場合、「気落ちする」「苦悩する」「心病む」で10K。
話題沸騰中、メジャーリーグS・О投手の三振ショーのように、考えれば、もっと出てきそう。
なんとか、“パーフェクトゲーム”で完敗しないようにだけは気をつけたい。
 
世の中に、楽しく仕事をしている人が多いのか少ないのか、私はわからない。
生活や家族のため、自分に強いている人が多いか。
ただ、それなりのやり甲斐や喜びや目的を持ってやっている人も少なくないように思う。
そうは言っても、誰もが知るとおり、人生は、楽しいことばかりではない。
人の感覚として、楽しいことはアッという間に通り過ぎ、人の性質として、楽しくないことは心に刻まれやすい。
また、人生は、思い通りになることばかりではない。
ただ、人は、思い通りにならなかったことはいつまでも覚えているくせに、思い通りになったことはすぐに忘れてしまう性質を持つ。
だから、“人生は思い通りにならないもの”と感じ、自分の鬱憤を紛らわすために、“そういうものだ”と思い込ませてしまう。
“思い”というものは、本当は、もっと自由なもののはずなんだけど。
 
笑顔が失われた日常において、少しでも気持ちが上向くよう、ネットで元気が出そうな「名言」を検索することがある。
「心に刺さる!」というほどではないけど、「いい言葉だな」と思えるものも少なくない。
それでも、その効能は一時的なもの。
おそらく、それらは、自分が勇気をもって周りの現実を動かしてみることで実感でき、また、説得力をもって、その真価を人に伝えることができるのだろう。
 
何億匹、何兆匹、おそらくもっと・・・これまで、私は、数えきれないウジを始末してきた。
毒を吐くわけでも襲ってきたわけでもないのに、ただ「邪魔」というだけで。
その因果応報であるはずないけど、この性格は、いつまでもウジウジしたまま。
「余計なことを考えるな!」「それ以上 考えるな!」
自分に言い聞かせてはみるものの、自分が言うことをきかない。
自分の性格や価値観なんて、そんなに簡単に変えられるものではないことはわかっている。
いや・・・根本的には、変えることはできないものかもしれない。
だからと言って、このまま人生を棒に振るのはイヤ。
自分の内に自分を変える力がないのなら、自分の外に自分を変えるチャンスを探すしかない。
 
ウジだって、いつまでもウジのままではない。
たくましく生き、確実に成長し、脚を得て歩き、羽を得て宙を飛ぶ。
殺虫剤にやられる者、ハエ取り紙に捕まる者、餓死する者、鳥に喰われる者、色々いるだろうが、生きるために冒険の空へ飛び出していく。
その生きることに対する純粋さ、実直さ、必死さは人間に勝るとも劣らない。
ひょっとしたら、動植物や昆虫の生きようとする性質の純粋さ・実直さ・懸命さは、人間のそれをはるかに凌ぐものかもしれない。
 
今、必死に生きているだろうか、
毎日、一生懸命に生きている実感があるだろうか、
病気・ケガ・事故・事件・災害など、何か特別なことがないかぎり死なないことが当り前のようになっている日常に生きている者と、いつ死んでもおかしくない危機を身近に感じさせられる日常を生きている者との生に対する熱意は天地ほどの差があるように思う。
 
ただ、“死を意識しながら生きる”とか“生きる意味を問いながら生きる”とか、そういうことばかりが必死に生きることではないと思う。
そういう意識をもって生きるのは、とても大切なことではあるけど。
 
キーワードは「大切にする」ということ。
肝心なのは、「大切に生きる」ということ。
世界、社会、家族、友達、仕事、食事、趣味、時間・・・
「当たり前」と勘違いしている現実を大切に思い、人や物、色々な出来事に感謝する心を育むこと。
同時に、自分を大切にし、ときには自分に感謝することを意識すること。
 
「自分のために生きる」「生きることは自分のため」
生存本能があるせいか、何となく そんな価値観や思想をもって生きている。
そして、何かにつけ、「結局は自分のため」「結果的に自分のためになる」「間接的には自分のためにもなる」といったところに“強制着陸”しようとする。
もちろん、それに一理はある。
ただ、それで、不本意な自分の生き方を誤魔化そうとする自分がいるのも事実。
 
人の生き方に「正解」はない。
また、「正解」と思われる道は一つではない。
一つの判断基準は、「それで自分が幸せかどうか」「楽しめているかどうか」。
家族の笑顔を守るため労苦することは幸せなこと。
誰かの正義を守るため戦うことは幸せなこと。
目標に向かって鍛錬することは楽しいこと。
夢に向かってチャレンジするのは楽しいこと。
遊興快楽を手にして生きるばかりが“正解”ではない。
 
満たされない日々・・・
「人生なんて そんなもんだ・・・」と、自分に言い聞かせながらも、せっかくの人生を無駄にしているような気がしてならない。
それは何故か。
一つは、感謝の心が足りないから。
感謝しなければならないことがたくさんあるのはわかっているのだが、気持ちはどうしてもマイナスの方に向いてしまう。
もう一つは、生き甲斐を感じられることがないから。
銭金・商売・打算を抜きにして、誰かの役に立てている実感がない。
 
このまま下っていくだけの人生なんて、まっぴらご免!
残り少ない人生を、燃え尽きた灰のように諦めるのはイヤ!
ならば、変える必要がある。変わる必要がある。
「もう一花咲かせよう!」なんて大層な欲を持っているわけではないが、この陰鬱とした日々から脱出したい。
 
ウジをネタにこれだけ語れるのは、私にも、まだ余力がある証拠か。
だとすると、「大空」とまではいかなくても、どこか違う世界に飛び立てるかも。
ウジウジするのは程々に、心の燃えカスに再び火をつけて。
ウジから生まれ変わるハエのように。




お急ぎの方はお電話にて
0120-74-4949



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