特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

野良犬

2021-01-13 08:30:27 | その他
月日がたつのは、はやい・・・
可愛がっていたチビ犬がいなくなって、もう六年半余が経つ。
スマホの待受画面は、ずっとチビ犬にしていたけど、一年前に機種変更したとき画像はど
こかへいってしまい、それからは、待受画面は味気ない既製画像になっている。

外を歩いていると、たまにチビ犬と同じ犬種(シーズー)を見かけることがある。
もともと犬好きの私だから、どんな犬も可愛く思えるのだけど、とりわけシーズーには格別に目を惹かれる。
他人がつれているよその犬なのに、ジーッと見つめてニヤニヤしてしまう。
どこの誰とも知れないオッサンがニヤニヤしていると、すごく怪しいけど・・・
飼主が話しかけやすそうな感じの人(だいたい中高年女性)だと、見ず知らずの人でも声をかけ、犬に触らせてもらう。

もう二十年近く前の話・・・
住んでいたマンションに近接する駅前スーパーの前に一頭のレトリバーがいた。
首輪をしていたものの、リードは着けておらず。
リードにつながれていないことを不審に思わなくもなかったけど、「買い物をしている飼主を待ってるんだろう・・・」と思い、多くの人と同じく、私も、そのまま素通りした。
しかし、それから、何時間か後。
再びスーパーの前を通ると、その犬は まだそこにいた。
さすがに妙に思った私は、犬に近寄り、頭や身体を撫でながら首輪を確認。
同時に、鑑札を探し、それを見つけた。
犬はおとなしく、やや怯えたように、やや遠慮がちに、下がり気味の尻尾をゆっくり振った。

時刻は夕暮れにさしかかっていた。
当時は、動物を飼ってはいけないマンションに住んでいた私。
首輪には鑑札もついており、捨て犬ではなさそうだったから、そのまま放っておいても問題なさそうだったけど、車に撥ねられたり、酒癖の悪い酔っぱらいや、弱い者いじめが好きな不良連中に襲われたりでもしたらマズい。
結局、犬を放っておくことが躊躇われた私は、「一晩くらいならいいだろう・・・」「明日、役所に問い合わせればいいんだから」と、首輪に手をかけた。
犬は、不安そうな顔をしながらも、おとなしくついてきた。
そして、私は、人妻でも誘ってきたかのようにキョロキョロと周りの目を気にしながら、そそくさとエレベーターに乗り、コソコソと部屋に引き入れた。

その翌日、私はすぐに役所へ連絡。
鑑札に刻まれたナンバーと伝え、氏名と住所、無事に引き取っていることを伝えた。
すると、飼主はすぐに見つかった。
飼主の方も、飼犬が失踪したことを前日中に役所へ届けていたらしく、すぐに連絡がきた。
思いのほか早くみつかったことに、私は、鑑札の重要性を再認識。
同時に、見捨てるつもりはなかったものの、「飼主が見つからなかったらどうしよう・・・」と不安に思っていたので、ホッと胸を撫で下ろした。

飼主宅は、同じ江戸川区内。
ただ、犬を見つけたところとは別の街で、何キロも離れたところ。
しばらく待っていると、飼主の女性が犬を迎えに来た。
犬は、何かの拍子で綱が外れ、庭から脱走。
そして、気の向くまま遊んでいるうちに迷子になったよう。
女性は、「このバカ!心配してたんだから!」と泣き笑いで、犬の頭を撫でるようにポンポンと叩いて叱った。
そこからは、犬が、家族の一員として大切にされていることが見てとれ、微笑ましく思った。
一方の犬は、自分が引き起こした事態を理解してか、上目遣いで気マズそうに尻尾をふった。

不意の客を招いた私は、大切な客をもてなすみたいに、美味そうなドッグフードを買いそろえた。
トイレの問題があるから、ビニール紐で即席のリードをつくって、夜と朝に散歩にも出かけた。
周りに気づかれたらマズいので、スリル満点だった。
犬が一宿一飯の恩をどれだけ感じていたかわからないけど、私の方は、なかなか楽しいひと時を過ごした。
あれから、随分の月日がたつ・・・
もう、あの犬も、寿命がきて死んじゃっただろうな・・・
飼主に引き取られて私のもとから去っていくのを少し寂しく思ったことを、今でも憶えている。

その後、私は住居をかえ、その何年か後に、「Hot dog」で書いた現場でチビ犬に出会うことになるのだが、チビ犬の前にも、近所をうろついていた野良犬(捨て犬)を連れて帰って飼っていたことがある。
雑種の中型犬、とてもおとなしくて いい犬だった。
ハスキー犬?の血が混ざっていたのか、額の真ん中に薄っすらとハートマークがあり、愛嬌タップリ。
相当の悪天候でもないがきり、春夏秋冬、朝と晩、それぞれ30分くらい一緒に散歩。
毎日の決まったことなのに、犬は、連れて出るたびに狂喜し、ハイテンションで跳び回った。
私も若かったから、季節の美景とその移ろいを肌で感じながら、とにかく 一緒によく歩いた。

引き取ったとき、犬はフォラリアに感染しており、すぐに入院治療。
その治療が痛かったのだろう、苦しかったのだろう・・・余程恐かったようで、年に一度、病院に連れていっていたのだが、ひどく怯えてガタガタ震えた。
診察室に入るときも、病院のフロアをモップのように引きずられる始末で、その様は、可哀想でありながらも可愛らしくもあった。
結局、六年半くらい共に暮らしたところで、老いて弱り、儚く死んでしまった・・・チビ犬を連れて来る一年半前のことだった。

このコロナ禍で、見捨てられるペットが増えているらしい。
巣ごもり生活で、新たにペットを飼い始めた人が増えた一方、「手間がかかる」「クサい」「うるさい」等と、見放す者も多いそう。
安易な動機と、人間にとって都合のいい欲望が、この状況を生みだしている。
「よくもまぁ“家族”を捨てられるものだ」と、呆れるのを通り越して憎悪の念を覚える。
コロナ禍で飲み歩いている連中よりも、更に性質が悪い。
動物とはいえ、“いのち”を預るということがどういうことなのか、想像も自覚もできないなんて・・・そういう連中は、ロボット犬を買うべきだ。



出向いた現場は、昭和の香が漂う老朽アパート。
橙色にボンヤリ光る裸電球、むき出しの木柱、剥がれかけた土壁、雨戸も窓枠も木製、レトロな磨りガラス、タイル貼の和式便所、蜘蛛の巣だらけの天井・・・
所々がトタン板で補修されていたものの、メンテナンスらしいメンテナンスはされておらず。
外周は、草樹が野性の趣くまま うっそうと茂り、廃材やガラクタも散乱。
陽射しを遮るくらいに荒れ放題で、「幽霊屋敷」と揶揄されてもおかしくないくらいの薄暗さ。
今風の建物に囲まれる中、そのアパートだけがポツンと時代に取り残されていた。

亡くなったのは、70代の男性。
もちろん、一人暮らし。
間取りは1K、風呂はなくトイレは共同。
とはいえ、他の部屋はすべて空いており、「共同」といっても使うのは故人だけだから、事実上は「専用」。
その部屋で、ひっそりと孤独死。
そして、気づいてくれる人もおらず、そのまま何日も放置。
肉は虫の餌になり、骨がむき出しになる頃になって やっと発見され、ゴミのように運び出されたのだった。

依頼者は、故人の元妻(以後“女性”)と、その息子(以後“男性”)。
男性は、故人の実の息子でもあった。
ただ、両親は男性が幼少期のときに離婚。
幼い頃は、時々は、故人と会うこともあったけど、いい想い出は残っていないようで、“父への情”はまったく感じられず。
その死を悼んでいる様子はなく、むしろ、故人を嫌悪しているような、軽蔑しているような冷淡な空気を漂わせていた。

一方の女性は、やや複雑な心境のよう。
女性も、“死”を悲しんでいる風ではなかったけど、故人との いい想い出を大切にしたいのか、悪い想い出が捨てきれないのか、何かしらの想いを持っているよう。
弔いのつもりか、仕返しのつもりか、一時でも、夫だった故人の最期を始末することを、自分のためにしようとしているようにも見え・・・
法定相続人である男性が相続放棄しさえすれば、故人の後始末には関与しなくて済むのに、それを“よし”とせず。
で、後始末を段取るべく、男性を擁して現場に来たのだった。

「自由に生きる! 自由に生きてみせる!」
若かりし頃の故人は、口癖のようにそう言っていた。
そして、実際に仕事も趣味も、好きなようにやっていた。
若かった女性には、そんな故人が、男らしく、頼もしく思え、カッコよくも見えた。
しかし、二人の間に子供ができた途端に状況は一変。
定職に就かなければ生計は安定しない。
生活より趣味を優先すれば、生計が成り立たない。
それでも、故人は、妻子のことを顧みることなく放蕩生活を続けた。
定職に就かなかったのはもちろん、遊ぶために借金までした。
それでも、故人は生き方を変えず、結果、家族の生計と夫婦関係は破綻した。

世の中には、あえて定職に就かずに生きている人はたくさんいる。
夢や目標のために、社会や誰かのために。
フリーランスで失敗する人も少なくない中、成功している人も多い。
とにかく、皆、勇気をもってチャレンジしたり、相当に努力したり、辛抱したりしているはず。
あと、その気概も覚悟もあるはず。
しかし、故人には、その能力はなく、根性もプランも何もなし。
努力も忍耐もできず、何より、人生に対する夢や目標がなかった。

その後、故人がどういう風に生きたのか・・・
職も転々、住居も転々、人間関係も転々、家族からも見捨てられて・・・
野に逃げ出した犬のように、錯覚した自由を胸に・・・
自らが目指していた“自由な生き方”は、とんだ見当違い・・・
生き方を変えないかぎり、明るい将来は想像し難く・・・
事実、借金も重ね、結局、破産者に・・・
一時は、刑務所のお世話になっていた時期もあるようで・・・
最期の何年か、普通の人は入らないようなボロアパートに暮らしていたことや、年金がなく生活保護を受けていたことを勘案すると・・・
他人の人生を勝手に“判定”するのは愚かなことだけど、私は、到底、故人が、自由な人生を手にしていたとは思えなかった。


私の持論。
「飼犬は野良犬の不自由を知らず、野良犬は飼犬の自由を知らない」。
“自由”とは、自分を律しないこと、自制しないことではない。
“自律・自制できない人間”を“自由な人間”と呼ぶことはできない。
皮肉なことに、自由に生きようとすればするほど不自由になる。
結局のところ、自律心・自制心が自分を自由にすることを理解しなければならない。

あくまで、外面的・物理的なところに軸足をおいた自由論だけど、私は、自由の礎になる材料としては「金」「時間」「健康」が三位一体で成り立つことが必要だと思う。
(※内面的・精神的な自由は、重なる部分はあるけど本質的に別物。)
例えば、ディズニーリゾートに遊びに行きたいと思ったとして、
金があっても時間と健康がなければ無理、
時間があっても金と健康がなければ無理、
健康があっても金と時間がなければ無理、
というわけ。
もちろん、その他、世の中が平和であったり、愛する家族や親しい友人がいたり等、外的要因もあるけど、一個人の自由を見るときは、その三要素が基本だと考えている。

では、その三要素を手に入れるにはどうすればいいのか。
言わずと知れたこと・・・勤勉に働き、時間に正しい優先順位をつけ(公私のバランスを適正に保ち)、健康管理に努めること。それに尽きる。
制限・制約は、それに抵抗するのではなく、そこから逃げるのではなく、自律・自制によって取り払われる。
自分を律することや自制するといったことは、一見、不自由なことのように思えるけど、実は、それが自由の礎となり、そこから自由が生まれてくるのである。


コロナ第三波は、これでも、まだ潮位を上げたくらい。
考えたくもないけど、本波はこれからやってくる。
この災難は、摂理による訓戒、摂理による訓練なのかもしれない。
今、我々一人一人に、多くのことを学ばせてくれ、多くのことを気づかせてくれている。
同時に、我々一人一人が、どれだけの自律心・自制心を育むことができるかを問うてきている。

まるで、我々が、野良犬のような不自由な目に遭わないため、正しい自由を手に入れるための生き方を教えてくれようとしているかのように。


特殊清掃についてのお問い合わせは
0120-74-4949
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